聖域の解体
両親の四十九日を待たずして、駿がこの家に来ることが決まった。
この家とは、両親と梨華が3人でずっと住んでいた家だ。
「……っ、間に合わない!」
梨華は、なりふり構わず、リビングの壁に手をかけた。
そこには、枝嶺駿が所属していたグループの最後となったドームツアーの巨大なポスターが貼られている。
スポットライトを浴びて不敵に微笑む駿。
その瞳は、葬儀の時に見た絶望の淵にあるものとは別人のように輝いていた。
「あ……」
粘着テープを剥がす指が震える。
力を込めすぎたせいで、ポスターの端がわずかに破れた。
いつもなら、発狂するほどショックを受けるはずの失態だ。
けれど、今の梨華にはその破れ目を惜しむ資格さえない。
(彼は加害者。私は被害者。……この人は、人殺しなんだから)
自分に言い聞かせるたび、心臓が泥を流し込まれたように重くなる。
梨華は、クローゼットの奥から【開かずの段ボール】をいくつも引っ張り出してきた。
「これも、これも、全部……」
限定盤のCD、コンサートで必死に掴んだ銀テープ、彼のメンバーカラーである青色のペンライト。
数日前まで、これらは梨華が生きていくための《聖域》だった。
仕事で理不尽に怒られても、この部屋に帰って彼を見つめれば、明日も頑張れると思えた。
その彼が、私の明日を、両親ごと奪い去った。
「うっ、……ふ、うぅ……」
気づけば、段ボールを抱きしめたまま床に蹲っていた。
涙が、ポスターの中の駿の顔にこぼれ落ちる。
愛している。大嫌いだ。
声を聴きたい。顔も見たくない。
死ぬまで離したくない。今すぐ消えてほしい。
ぐちゃぐちゃな感情を押し殺し、梨華はポスターを丸めて筒に入れた。
アクリルスタンドは緩衝材に包む余裕もなく、ガムテープで封をした箱の底へ。
彼がこの家で暮らし始めたら、クローゼットを開けられることもあるだろう。だから、この箱は一番奥の奥に隠さなければならない。
ふと、デスクの隅に置かれた一枚の写真が目に留まった。
両親と、満面の笑みを浮かべる自分。
その隣には、彼のアクリルスタンドがちゃっかりと並べて置かれていた。
「ごめんなさい……お父さん、お母さん……」
梨華は、親の遺影と、自分の【元・希望】をバラバラに引き離した。
愛用していた青いマグカップも、彼とのペアを夢見て買った予備のグラスも、すべて新聞紙で包んで見えないようにする。
部屋が、どんどん殺風景になっていく。
色を失い、温度を失い、ただの【四角い箱】に変わっていく。
それこそが、彼と共に生きる《地獄》の正しい姿なのだ。
インターホンが鳴ったのは、最後の段ボールの蓋を閉じた、その瞬間だった。
「……はい」
モニターを覗く必要なんてない。
そこにいるのは、私の人生を壊し、そして、私の人生のすべてだった男だ。
梨華は鏡を見て、自分の顔がひどく冷淡で、それでいてひどく醜く歪んでいることを確認した。
《ファン》としての花村梨華は、今、この手で殺した。
これからは、《被害者》としての顔だけで彼を迎え入れなければならない。
ドアを開けると、そこには、自分の背負う罪の重さに耐えかねたような顔をした、枝嶺駿が立っていた。




