お互いの呼び方
「あの……花村さん……」
しばらくして突然、駿が恐る恐る口を開いた。
「……何ですか」
その呼びかけに、梨華は胸の奥を鋭いナイフで刺されたような錯覚に陥った。
かつてコンサート会場で、何万というファンと一緒に「駿くん!」と叫んでいた自分。その名前を、今は呼ぶことさえ許されない。
「その……お互いの呼び方ですけれど……、外では一応、夫婦として、その…《梨華さん》と……」
「そうですね。ですが、家の中では《枝嶺さん》で通します。」
咄嗟に梨華は彼の言葉を遮った。
梨華はその「梨華さん」という呼び声に、心臓が焼けるような衝撃を覚えた。
かつてライブ会場の最前列で、どれほど叫んでも届かなかった、彼の声。それが今、自分の名前を呼んでいる。
「肩書きは夫婦でも、私はあなたのファンでも友人でもない。加害者と被害者です。……馴れ馴れしく下の名前で呼ぶつもりはありません。」
それは、『駿くん』と呼んでしまいそうになる自分を殺すための、防波堤だった。
「……そうですよね。わかりました。では僕も《花村さん》とお呼びします。」
お互いに元々の苗字に《さん》付けで呼び合う、他人よりも遠い夫婦。
その呼び名が確定した瞬間、梨華は自分たちの間に巨大な壁を築けたことに、安堵と耐え難い孤独を感じた。




