027 行跡宜しからず
「くそっ! ビスナーを殺せ!」
秋風にコートの裾を揺らしながら、リヒトは金色の瞳を怒りで燃え上がらせた。許せん、ビスナーめ!
「…ビスナーを殺してはならぬと言ったのは、リヒト、お前だろう?」
オプスキュリテは宥めるように声を掛ける。リヒトの赤毛の髪も、普段より猛々しい朱色に感じられる。
「あぁ、言った! しかし、ビスナーは許しがたい!」
リヒトとオプスキュリテは連れ立って、アルテミスを欠勤している。「所用のためにリヒトと外出する」とオプスキュリテが暇乞いすると、グレイスの菫色の瞳が不思議そうに光った。
「あら、ふたりが一緒に出かけるのですか? 珍しいですね…」
いつもなら最低ひとり、グレイスを守るべく傍に侍ることになっている。
言われてみれば、ふたりが揃ってグレイスの許を離れるなど、久しくなかった気がする。リヒトとオプスキュリテも少し不安な気分になる。
「最速で片づけて、グレイスさまの許に戻って参ります!」
ふたりは声を揃える。
紅茶よりも甘い、ミルクティのような薄茶の髪をふんわりと耳に掛けて、グレイスは
「たまにはゆっくりしてきて構いません。ふたりだって、わたくしには言えないような場所に出入りしているかもしれませんもの…」
いたずらっぽい目つきをして、フフッと笑う。
「リヒトはともかく、私はグレイスさまにお話しできないような場所になど参りません!」
オプスキュリテは真顔で完全否定する。おい、オプスキュリテ! 何故そこで私の名前を出すのだ? グレイスが誤解するではないか!
「グレイスさまに誓って、私も怪しい場所になど出かけません! どうぞご安心ください!」
リヒトはグレイスにそう誓って、今日出かけてきたのだ。それなのに…。
〈私とオプスキュリテは、怪しげな娼婦街に足を踏み入れている。それもこれも、すべてビスナーが悪いっ! 私はグレイスに誓ったというのに!〉
「……本当にこんな所に、ビスナーは出入りしているのか?」
オプスキュリテが当惑したような声を出す。
アルテミスの存在する貴族街とは比べ物にならない、何やらいたずら書きされたボロボロの外壁。薄汚い路地裏。どこかから漂ってくる腐敗臭。なんなんだ、ここは? 何もかもが最悪だ、くそっ!
「いくらクズとはいえ、ビスナーは貴族だ。庶民が利用する、安いだけが取り柄の娼婦館を利用するものか?」
ふたりは不安を口にしながら、ウロウロ歩き回った。
リヒトとオプスキュリテの不安は、どうやら杞憂だったようだ。マスクで目元を隠したふたりが娼婦街を彷徨っていると、痩せっぽっちの客引き男が
「お兄さぁーん、寄ってきませんかー? 当店はなんとっ! お貴族様も利用するお店でございまぁーす!」
と派手な声を掛けてきたからだ。
こんな所にやってくる貴族など、そうそう存在するはずがない。ズーク家のビスナーが贔屓にしている店は、おそらくここで間違いなかろう。
仮にビスナー以外に物好きな貴族がいるとしても、とにかく手懸りが必要なのでこの店を調べるのだ!
客引き男は妙に色白で、唇には何故か赤い口紅を引いている。黄色の派手な服を身に着けて、まるでピエロみたいだ。(何でもいいから目立てばいい)という雰囲気が見て取れる。
「ハハッ。貴族が利用するというのは、さすがに嘘だろう?」
リヒトは笑いながら決めつける。
「いいえぇ、嘘ではございませーん! 御贔屓にしていただいておりますぅー!」
「ふぅん…」
リヒトが疑わしそうな目つきをすると、ピエロ男は困った顔になって
「……子供がお好きな貴族が来るんですぅ。うちは若い娘が多いんで…」
ボソッと小声で言い訳する。
「ビスナーという貴族は来るかな?」
オプスキュリテが単刀直入に訊く。
〈おい、オプスキュリテ⁉ 少しは頭を使って質問しろ!〉
リヒトは思わず焦った。
「お、おふたりは、お役人か何かで……?」
ビスナーの名前を聞いた瞬間、客引きの雰囲気がガラッと変わる。媚びるような気配が消え去って、怯えるような態度だ。
「ビスナー様は、何かやらかしましたか?」
どうやらこの店で当たりだな! リヒトとオプスキュリテは頷き合うと、(まったく不本意ながら)ピエロ男の店に入店することに決めた。
リヒトもオプスキュリテも、このような怪しげな店を利用したことがない。部屋自体は薄暗いのに、何やら赤い提灯がたくさんぶら下がり、意味不明の価格表があちらこちらに張り出されている。まるで魔除けのお札みたいだ。
「お客様、こちらで口紅をお求めくださいな」
年のわりに小綺麗な老女が、リヒトとオプスキュリテに声を掛ける。まず受付で、赤い口紅を購入させられた。アルテミスでも女性用の口紅を扱っているが、赤い口紅は置いていない。
赤い口紅は〈娼婦の色〉だ。少なくとも、ミニヨンではそう決まっている。だから、堅気の娘はもっと違う色で唇を飾る。例えば花のようなピンク色、夕日のようなオレンジ色……。
驚くべきことに、赤い口紅は〈娼婦街の通貨〉なのだ。ここでは普通の貨幣は流通しない。娼婦街で働く女たちは、食事も衣服も、身を飾るための化粧品も、すべてを自分の稼いだ赤い口紅で贖うことになる。
ここではどんなにがんばっても、カネを貯めることはできない。そもそもカネが流通していない世界だからだ。年季が明けるまで、女はここを出ていけないシステムが出来上がっている。
リヒトとオプスキュリテを迎えた女は、一見してひどく幼くて華奢だった。手足などは本当に細くて、食が足りているのか心配なほどだ。
「お兄さんたち、すごーく綺麗な顔してるね…」
「ハハッ。マスクしているのに、私たちの顔なんかわからんだろう?」
リヒトがそう言うと、少女は笑いながら言う。
「……否定しなかった、やっぱり綺麗な顔なんだぁ~。そんな雰囲気だもん」
「変な子だな、君は」
オプスキュリテがそういうと、少女は目を丸くする。
「お兄さんたち、お貴族様?」
「イヤ、違うよ」
「だって、言葉がきれいだよ? 言わないよ、普通。『君』とかさ…。あたし、ショーフだもん」
オプスキュリテが痛々しいものを見る目になる。娼婦を名乗るには、彼女はあまりにも幼い。
「君はいくつ?」
「十二だよ。あたし、ミッチっていうの」
少女は何ということもないように答える。
「ミッチ、ビスナーってヤツを知ってるか?」
リヒトが訊くと、ミッチはみるみる表情を暗くする。
「お兄さんたち、あいつの友達?」
「まさか!」
リヒトの〈あいつと一緒にしないでくれ!〉という気持ちが伝わったのか、ミッチが思わず笑顔になる。
「…嫌いなんだ? 良かった。あたしもあいつ嫌いなんだぁ~」
「…何故嫌いなの?」
オプスキュリテが訊くと、ミッチは軽く目を伏せる。
「あのね…。ビスナーは、子供が好きな男の人なの。『子供好き』って意味じゃないよ? だから、あたしはビスナーが苦手。とにかく嫌いなの。あたし、ここに来たらお貴族様と付き合えるって言われたの。でも、あたしが考えていたようなことじゃなかった。全然違ったの。……よく考えたら、最初っからおかしいってわかるんだけど。…あたしなんか、孤児だし」
「君は騙されて、ここに来たの?」
オプスキュリテの言葉に、ミッチがこくりと頷く。
「……バカだから。バカだから騙されたんだ。あたし、いつもそうなんだぁ」
ミッチの目にみるみる涙が溢れる。そして、ゆっくり頬を伝って流れていく。
「お母さんが、孤児院に行けばご飯がたくさん食べられるって、そう言ったの。あたし、食いしん坊だから。……ご飯がいっぱい食べられるなら、孤児院に行ってもいいかなって。だけど、そういうの『口減らし』って言うんだって。主事さまが教えてくれた。あたし、お母さんに騙されたんだってわかった」
オプスキュリテがハンカチを取り出して、ミッチの頬をせっせと拭き始めた。リヒトはその様子を見て、ギョッとする。
オプスキュリテは穢れに敏感なユニコーンだから、まさか娼婦に平気で触れるとは思わなかった。大丈夫なのか? こいつは血の匂いさえダメなほど、神経質なはずだ。
「おい、オプスキュリテ。……お前、触れても…大丈夫なのか?」
リヒトはおろおろする。ミッチの前で〈娼婦〉という言葉は使いたくないが、オプスキュリテが平気なのか心配になる。
リヒトの顔をチラッと見たオプスキュリテが、「私は大丈夫だ」と言う。
「ミッチ、お母さんは騙したつもりはなかったかもしれんぞ? 貧しい家では、何とかみんなが生き延びようとして、いろいろ工夫するものだ。孤児院でご飯が食べられたら、ミッチが幸せになると思ったんじゃないか?」
リヒトはそう言ってみる。ミッチの母親が何を思ったのか、本当のことなんか、誰にもわからない。だったら、信じたいことを信じてもいいはずだ。
「……そうかな?」
「孤児院で、ご飯はたくさん食べられたんだろう?」
リヒトの言葉に、ミッチは少し小首をかしげる。
「…んとね、家だとご飯、取り合いになるんだ。だけど、孤児院はちゃんと取り分けてくれるから…。孤児院のほうがマシかなぁ?」
ミッチの目の周りをハンカチで丁寧に拭っていたオプスキュリテが、
「自分のことをバカだというのはやめなさい。自分のことも他人のことも、バカだなんて言ってはいけない」
と諭し始める。オプスキュリテはミッチの赤毛を軽く撫でている。
〈オプスキュリテが女性にこんなに優しくするのを初めて見たぞ。アルテミスで出会う姫君にさえ、基本的に塩対応の男なのだが…。世の中わからんもんだ…〉
ミッチはオプスキュリテの手を軽く引く。
「……ねぇ、お兄さんはなんて名前?」
「私か? ……オプスキュリテ」
「オプス…?」
「オプスキュリテだ」
「オプス、キュリテ。オプスキュリテね」
ふぅん、とミッチは何度もうなずく。
〈何故ミッチは私には名前を聞かないのだ? 仕方ないので、自分から名乗っておくか!〉
「私はリヒトだ」
ミッチは私の顔を見ると、ちょっと笑う。
「リヒトは負けず嫌いだね」
「そうか?」
私は獅子の化身なので、闘争心は強いかもしれない。べつに悪いことではない。どんな時でも勇猛果敢なのだ。
「オプスキュリテは、ビスナーのことが知りたいの?」
オプスキュリテが頷くと、ミッチもうなずく。私だってビスナーのことを知りたいのだが、ミッチが答える気満々になっているようなので、まぁいいか。
「ビスナーは貴族だから、いつも威張ってるの。露店の人にケンカを吹っかけて、お金を取るんだよ。露店で買った果物が傷んでいたとかさぁ。だけど、毎回『言いがかり』ばっかりなんだって。お客さんが言ってたから、ホントのことだよ! あたしのお客さん、露店で働いてるから」
ミッチはちょっとあやふやな口調になる。
「オプスキュリテは、カードゲームって知ってる? ビスナーはお金や懐中時計を賭けるって言ってた。なんかね、カードを…入れ替えるらしい?」
「カードを入れ替える? それは…」
「うん、『イカサマ』っていうんでしょう? だけど、このあいだイカサマがばれちゃって。ビスナーは体が大きくて、ムキムキなのにさ。みんなに棒で殴られたんだって…」
「棒で殴られた?」
「うん、そうだよ。ムキムキでも、さすがに怪我してた」
「……イカサマがばれて、殴られてそれで終わりか?」
リヒトが思わず口を出すと、ミッチは振り向いて答える。
「ショウモンだよ! ショウモンを書かせられたって」
ショウモン?
「……証文か。どうやらビスナーは借金を負ったな?」
「それで、借金返済のためにグレイスさまに求婚か…」
私とオプスキュリテは顔を見合わせる。とんでもない男だ。最悪の求婚者だな、ズーク男爵家のビスナー!
「ここまで事情がわかれば、もうお断りして良いだろう? ビスナーは『行跡宜しからず』だ」
オプスキュリテが不愉快そうに鼻を鳴らす。たしかにビスナーは最低な男だ。
「オプスキュリテ、グレイスさまって誰?」
ミッチがオプスキュリテの腕をグイグイ引っぱる。そんなに引っぱるとオプスキュリテの腕が取れるぞ!
「ねぇ、グレイスさまって、オプスキュリテの恋人?」
オプスキュリテはびっくりしたような顔でミッチを見る。リヒトは取りなすように答える。
「グレイスさまは、私たちふたりの主だ!」
せっかく取りなしたのに、ミッチはリヒトの言葉にはさほど関心を示さなかった。なんなんだ! くそっ!
「ねぇ、オプスキュリテ。あたし、役に立ったでしょ? マスク取って顔を見せて!」
ミッチがオプスキュリテにおねだりを始めた。オプスキュリテは少し考えて、
「……そうだな。確かに世話になったのだし、顔を見せないのも失礼か…」
そう言って、マスクを剥いでミッチに向き合った。
ミッチはオプスキュリテを見つめると、思わず半歩後ろに下がった。ハッと息を飲んだのがわかる。それから、小さな声でつぶやく。
「……なんだ、本当に綺麗な顔だったんだぁ……」
ミッチのそっと伏せた目には、微かに悲しみが漂っていた。




