012 兄上の親友②
「オリバーに縁談が持ち込まれているのを、ソフィアは知っているか?」
イサキオスが鼻をヒクヒクさせながら、紅茶の香りを確認している。とうもろこしのヒゲのように艶のない髪と、痩せこけた頬をみていると(まるで老人みたい)と呆れてしまう。
「…オリバー様は女性に人気がありますから」
お兄様と違って…という言葉を、ぐっと喉の奥に押し込む。
「お相手はクロフツ伯爵家のコンスタンツェさまだ」
「えっ、伯爵令嬢ですか⁉」
思わず声が大きくなる。手にしていた茶器が、カチャンと鳴ってしまった。わたくしとしたことが…。
「ドイル家は男爵でしょう? クロフツとは家格が釣り合いませんわ」
「そこがオリバーのすごいところだ!」
何故かイサキオス兄様が自慢げにしている。どうせこの情報だって、親友のオリバー様ご本人ではなく、探偵か何かを使って手に入れたものでしょう。
(まるでオリバー様のストーカーね!)
イサキオス兄様の、オリバー様への執着にめまいを感じます。
「女性が家格の上の者に嫁ぐことは珍しくもありませんけれど…。伯爵家から男爵家に嫁ぐなんて、わたくしの周囲では聞いたことがありません」
だって、身分が下がってしまいますもの。
「別に、ないわけではないだろう?」
兄はいまだに紅茶をクンクン嗅ぎながら、「いつもと匂いが違うな?」とこちらをチラッと見やる。
「わたくし、お兄様の命なんか狙っておりませんから、毒など盛りませんことよ?」
イサキオスを安心させようと、紅茶をひとくち飲んで見せる。こうすれば疑い深い兄も手をつけるでしょう。わたくしの様子をじっと観察していた兄が、恐る恐る自分の紅茶を口に運ぶ。
「没落した貴族が家格の下の貴族に嫁ぐことは、普通にあるではないか?」
イサキオスは長身をソファにあずけて、だらりと力を抜く。背は高いものの、筋肉がついていない身体は覇気がない。
「クロフツ伯爵家は、再開発地域に土地をたくさん持っています。没落どころか、むしろ爆上げ中ですわ!」
ソフィアは眉を上げ、目じりを怒らせた。イサキオスは探偵にクロフツ伯爵家の経済状況までは調べさせていないのでしょうか? あきらかに調査不足です。
「ほぅ…。コンスタンツェさまのところは絶賛爆上げ中か」
「貴族街の再開発は、百年に一度の都市計画といわれていますでしょう?」
「あぁ、私もだいぶ土地を購入したよ!」
イサキオスがティーカップを片手に何度も頷く。お母様のお気に入りの菫のカップだわ、落とさないといいけれど…。
「……土地を購入? お兄様が?」
「ああ」
ソフィアはゆっくりと首を傾げる。……イサキオス兄様が不動産売買に興味を持つなんて? そんな馬鹿な⁉ 再開発で高騰しそうな不動産を購入しておくなどと、そんな常人のような行動をするはずがないわ!
「……もしや、希少な昆虫の生息地でもありまして?」
「そうなんだ、我が妹よ‼ 再開発で自然が失われてしまうと、昆虫たちの憩いの場が失われてしまうんだ。一度自然環境が破壊されてしまうと、回復するまでには長い時間が必要だ。…大変な損失だと思ってね!」
イサキオスは興奮した口調で喚き散らす。目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。
(根っからの虫好き男、一ミリたりともブレませんわね)
「貴族街の中心部を買い占めるのはさすがに大変だったが、財産の三分の二ほどつぎ込んで、買いまくったよ!」
イサキオスの言葉を聞いて、紅茶を吹き出しそうになりました。財産の三分の二ですって?
「お、お兄様……」
「安心しろ、ソフィア。土地が高騰して、今は買値の十倍くらいになっている。だがあそこは昆虫たちのパラダイスだから、私は死ぬまで絶対に売らないぞ‼」
「………」
(昆虫たちのパラダイスを守る…。これは美談なのでしょうか?)
部屋中に飾られている昆虫標本を眺めながら、わたくしは思わず額を押さえます。コレクションの中でも、ひときわ大きな標本ケース。美しい木彫りの昆虫がデザインされたもの、それがドイル兄弟からイサキオスに贈られた卒業プレゼントです。
「素晴らしい標本ケースだろう? 昆虫好きの私でも、こんな珍しい物は見たことがないよ!」
わたくしの視線に気がついたのか、兄はお気に入りの品の自慢を始めます。確かに、こんな細密な昆虫レリーフの入った品物は見たことがありません。多分、アルテミスでも扱っていないでしょう。これがドイル兄弟ふたりの手作りだと知った時の驚きときたら!
壊れかけのカカシのようなお兄様でも、公爵家の「お世継ぎ様」です。三年前に貴族学院を卒業する際には、(それなりに)盛大なパーティーを催しました。家名に合わせたお祝いをしなければならないのです。
まことに不本意ながら、我が家は教科書に載るような功績を上げた名家ですから…。ほとんどの同級生は、お義理で参加していたに違いありませんけれど。
「ゲストをもてなすなんて、私にはできないぞ? どうする、どうする?」
ブツブツ呟く兄の隣で、わたくしは冷や汗を掻いていました。主役の兄に代わって、妹であるわたくしがパーティー会場を仕切らなくてはなりません。
わなわなと青くなっているわたくしを救ってくれたのが、ドイル家のオリバー様とサイラス様です。
卒業祝いと称してイサキオスに珍しい標本ケースをプレゼントしてくれ、社交嫌いの兄を引き立てながら、実に上手く立ち回ってくれました。
「弟のサイラスは手先が器用なんです。不器用な僕は、おもに彩色を担当しました!」
にっこりと笑うオリバー様の爽やかさ。女性に人気があるので、同級生たちとダンスをしたりして、場を盛り上げてもくれます。弟のサイラス様も素直で礼儀正しく、あっという間にみんなに可愛がられていました。
ドイル兄弟、只者ではありません! しかも素晴らしいことに、彼らは計算ずくではなく友情から行動してくれているのです。イサキオス兄様の友達とは思えない、素敵な方たちです。
お陰で兄の卒業パーティーは皆様にご好評をいただき、アシモフ家の家名を辱めることなく無事に終わりました。この一件以来、わたくしはオリバー様とサイラス様が大のお気に入りなのです。
「クロフツの財政が潤沢ならば、なおのことドイル家と釣り合わないのではございません?」
「……実は、コンスタンツェさまが伯爵家の爵位を継ぐという話もある」
兄はぐびっと紅茶を飲み干します。わたくしは少し身を乗り出しました。
「えぇっ? オリバー様を、婿に取るのですか?」
コンスタンツェさまは三女だし、そもそもお世継ぎ様である兄がいらっしゃるのでは? わたくしは軽く眉を上げます。
「…おかしな話ではございませんか?」
「……お前はアシモフ家が公爵家になる前の話を知っているだろう?」
「カビ男爵の逸話ですか?」
わたくしは眉根を顰めました。イサキオスは何の話を始めるのでしょう。わたくし、カビ男爵の話題はあまり好きではないのですが…。
「我がアシモフ家はもともとは男爵でしたが、ご先祖様がカビから病気の特効薬を生み出した功績で、当時の王から公爵の位を賜りました……」
世間がどう思っているか知らないけれど、アシモフ家ではこのカビ男爵はあまり好かれておりません。
「しかし我が家は、男爵の爵位自体はミニヨン王にお返ししていないのだ」
「……そうなのですか?」
男爵の位を返していない、だから何だというのだろう?
「コンスタンツェさまのクロフツ家も同じらしい。どうやら、クロフツ伯爵家には伯爵の位がふたつあるんだ」
「伯爵位がふたつ、ですか?」
「どういう経緯で伯爵の位をふたつ持っているのか、もう昔のことなのでよくわからないらしい……」
「…はぁ、そうですか……」
「………」
イサキオス兄様とわたくしは少し沈黙する。
(どういう経緯で持っているかわからない伯爵位…ねぇ)
ソフィアは苦笑しつつ、紅茶を啜った。
クロフツ伯爵家が伯爵の位をふたつ持っている理由は、おそらく簒奪だとか何か後ろ暗いことでしょう。
誇らしい理由ならば、子孫に向けて輝かしい功績の記録を残すはずだし、今までに一度や二度はその爵位を継ぐ者が出ていたはずです。
貴族は次男以下は婿に出なければならないのだし、男子がいない場合でも、長女以外は他家に嫁に行くのです。もし伯爵位がふたつあるならば、わざわざ他家に婿入りする必要などないではありませんか。
(今まで封印されていた伯爵位を引っぱり出してくるほど、コンスタンツェさまはオリバー様と結婚したいのですね…)
「封印されていた伯爵位か…」
「オリバー様はどうなさるのでしょうね?」
「伯爵になれるのなら、なった方が良いのではないか? …貴族は身分社会だからな」
「そもそも、オリバー様はコンスタンツェさまがお好きですの?」
「さぁ…? しかし、コンスタンツェさまは美しい女性だから、条件としては悪くないと思うぞ?」
普段から女性とは縁遠い兄が、実にざっくりした適当な感想を述べています。兄は人間界より昆虫の世界に興味のある人なので、オリバー様の話題でなかったら、もっと投げやりでいい加減な意見になっているかもしれません。
「もしオリバー様が伯爵になられたら、サイラス様がドイル男爵家を継ぐことになりますね?」
わたくしはサイラス様の水色のサラサラの髪を思い出します。三年前の記憶ですが、彼も今年成人式を迎えているはず…。オリバー様と同じ、綺麗なエメラルドの瞳を持つ少年でした。
「まぁ、そうだな。しかし、まだ決定事項ではないだろう」
「……どこの探偵に探らせた情報ですの? オリバー様から直接お聞きになったお話ではないのでしょう?」
「お前は毎回そうやって私を馬鹿にするが、貴族社会では情報が大切なのだぞ?」
貴族社会で情報が大切なことは否定しませんが、イサキオス兄様が入手しようとなさるのは、いつもオリバー様絡みの情報ばかりです。偏りすぎなのですよ! わたくしは紅茶をぐびっと飲み干して、小さく溜息を漏らします。
お兄様がチョコレート菓子を口に入れるのを見て、わたくしはドレスのポケットから懐中時計を引っ張り出しました。
これは貴族学院の卒業式で、成績優秀者に下賜されるものです。わたくしは昨年貴族学院を卒業する際に、表彰と共にこの懐中時計をいただいたのです。当然、兄のイサキオスも同じものを持っています。
わたくしたちは〈変わり者公爵家〉だけあって、研究関係の成績はとても優秀です。まぁ、そのせいで変わり者扱いをされてしまうのですけれど…。
「そのチョコレート菓子はいかがです? アルテミスで新しく発売されたお菓子なのですよ」
「ふぅん、少し苦いような…。変わった風味のものだな」
「原材料はカカオという豆を使用しているそうです。滋養強壮に効果があるもので、身体を強化するそうです!」
「この菓子で体が強くなるだと…? いくらなんでも眉唾物だろう?」
イサキオスは肩を揺らして、盛大に笑っています。
「そういえば、お前に関する妙な噂を聞いたぞ」
「噂?」
「お前が『あのミーガン』と、アルテミスの用人を取り合いしている、と」
ミーガンというのは、数年前に男爵位を下賜された平民出身の女性です。ミニヨンでは平民でも「著しい功績の認められた者」は一代限りの男爵位を認められるのです。
「アルテミスの用人というのは、オプスキュリテという見目の良い男ですね?」
「まさか、本当にお前のお気に入りなのか?」
兄がからかうような目つきになる。そんなわけないでしょう、バカバカしい! たかが面の皮一枚のことで、何故そこまで大騒ぎするのでしょう?
「いいえ。ただ、オプスキュリテは薬草に詳しいのですよ」
「あぁ…」
イサキオスが納得するように頷く。わたくしの専門は薬草学なのです。子供の頃から植物が大好きで、貴族学院に入学してからは、主として薬草を研究しています。オプスキュリテの顔よりも、わたくしは彼の薬草の知識が気になります。
「ミーガンと揉めたというのも、ただの噂か?」
「……そうですねぇ。わたくしたちが揉めたというよりも、ミーガンとオプスキュリテがトラブルになっているのではないかしら? ミーガンはオプスキュリテにべったりくっついていますわ!」
わたくしは軽く首を振りました。ミーガンはずいぶんとオプスキュリテに入れ込んでいるようです。けれども、(わたくしの見たところ)オプスキュリテはミーガンを全く相手にしていません。
その事実がミーガンをより苛立たせ、おかしな行動に追い込んでいるように思えます。ミーガンは典型的なシュガーベイビーです。社会的地位やお金を持っている年上の男性に甘やかされ、これまで自信満々に生きてきたに違いありません。
「まぁ、巻き込まれるのは甚だ不本意で、迷惑千万なのですが…」
「………」
黙って話を聞いていたお兄様が、むっつりとした口調でいいました。
「……ソフィア、お前、まさか……」
兄の顔からは、大量の汗が流れ出ています。わたくしはゆっくりと、懐中時計の刻みを確認しました。
「先ほどお兄様がチョコレート菓子を口にしてから、十五分ほど経っておりますね……大量の発汗、と」
わたくしはイサキオスお兄様の症状を、小さなノートにさらさらとメモしていきます。
「ま、また毒草を……盛ったのか…?」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないで下さい! 毒など盛っておりませんし、そもそも毒というのは、使い方によっては薬にもなるのですよ!」
あ、お母様のお気に入りの菫のティーカップを割ってしまうといけませんね。わたくしはイサキオスの手から、注意深く紅茶のカップをもぎ取ります。
「お、お前……ふざけ…る…」
「お兄様、舌の状態はどうですか? 痺れますか? 四肢の痺れはどうでしょう?」
「……し、し……し…」
「イサキオス兄様、ちゃんと答えてくださいませ。死にたいのですか? きちんと症状を答えて下さらなければ、わたくし適切な処置ができないかもしれませんわ!」
わたくしがたびたびお茶に薬草を盛るので、イサキオスは警戒して、一緒にお茶を飲むのを嫌がるのです。けれども薬学の進歩のために、兄には理解と協力をいただきたいです。
お兄様はしょっちゅう、「ソフィア、お前はカビ男爵にそっくりだな! 血は争えん!」と悪態をつくのですが、あんな狂人と一緒にされたくありません!
わたくしは純粋に、病気で苦しんでいる世の人びとの役に立ちたいのです。そのためには、もっともっとイサキオス兄様に協力してもらわなくてはなりません。




