011 兄上の親友
グレイスは真っ先に下船して、船から下りてくるアルテミスの常連客を見送ろうとしていた。
(最後まで気を抜いてはいけない。お客様をしっかりお見送りしなければ…)
既に暗くなっているので、グレイスの周囲に立っているメイドたちが、魔石の入った小さなカンテラで足元を照らしている。
「きみ、さっき意地悪された船に乗っていたね?」
背後から若い男がグレイスに声を掛けてきた。振り向くと、中肉中背の青年が笑顔で立っている。
(えっ、この方は誰…?)
金髪を短く切り揃え、服装は派手ではないが身ぎれいで感じがいい。彼はグレイスの目線に合わせて、少し腰を落とす。瞳の色が澄んだ緑色で、エメラルドのようにきらきらしている。
「嫌な思いをしたね、大丈夫だった?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
グレイスは少し緊張しながら、丁寧に応える。(もしかして、先ほど船争いを仕掛けてきた貴族では…?)と警戒心もある。
ワガママな貴族の中には、身分差を笠に着て商人に無理難題を押しつけてくる者がいる。初対面の貴族には注意が必要だ。
「ああいう馬鹿なことをする人間がいるから、貴族の評判が悪くなるんだ。せっかくの舟遊びなのに、無粋なやつらだよね! そう思わない?」
彼はグレイスに肩をすくめて見せる。なんと答えたらいいのかわからなくて、グレイスは目をぱちくりさせた。
(えーと、この方はどなた…?)
「おい、オリバー⁉ すぐに迎えの馬車がくるぞ!」
少し離れたところに立っている黒髪で大柄な男性が、彼に声を掛けてきた。
「叔父上が呼んでる! じゃあね、気をつけて…」
金髪の青年はにっこり笑うと、グレイスに手を振って足早に去っていく。
(あの黒髪で大柄な男性……クリスティ公爵の船で花火を上げていた人じゃない? それじゃ今の「オリバー様」は、きっとクリスティ家の大型船に乗っていたのね?)
グレイスは見知らぬ貴族が自分に声を掛けてきたことに驚いた。アルテミス商会で貴族との「お付き合い」はたくさんある。けれども身分差と立場の違いがあるので、彼らは別にグレイスのお友達ではない。
先ほどの青年は、単純にグレイスを心配して声を掛けてきたのだ。ずいぶん貴族らしくない、フレンドリーな人だと思う。
オプスキュリテが焦った様子で、セカセカこちらに歩いてくる。彼も手に小さなカンテラを持っている。
「…グレイスさま、(今の男に)何かされましたか?」
お得意様に挨拶をしていて、こちらにすぐ来られなかったらしい。心配そうな表情で顔を覗きこまれた。
「いいえ、大丈夫よ。今の方は…大型船に乗っていたご貴族のようです」
「大型船だろうと中型船だろうと、不逞の輩は排除しませんと」
オプスキュリテが薄く笑う。オプスキュリテの笑顔を見ながら、グレイスは先ほどのオリバーが、大型船の甲板で中型船を指さして何やら文句を言っていた少年だと今さらながら気がついた。
陸上で近い距離で見ると、彼は少年ではなく成人した青年だったのだとグレイスは納得する。
馬車を待っているオリバーの隣に、同じ年頃の水色の髪の青年が立っていた。グレイスからは顔が陰になって見えないけれど、背格好に見覚えがある。
(あの水色の髪は……もしかして、アトス寺院のサイラス様?)
やがて彼らは迎えにきた二頭立ての馬車に乗り込んでいく。馬車につけられた紋章は、ドイル男爵家のものだった。
(ドイル男爵家…。やっぱりサイラス様だわ)
見知らぬオリバーが心配して声を掛けにきてくれたのだ。それなのに、(いちおう)面識のあるサイラスは自分を無視したのか…。何だかちょっぴりモヤモヤする。オリバーと一緒に声を掛けに来てくれてもいいのに。
(…別にお友達ではないけれど…)
リヒトがディクスン伯爵令嬢をエスコートしながら、ゆっくり下船してきた。周囲を女性客に囲まれながら、ジョークを飛ばしている。
リヒト派の執事とメイドがカンテラを掲げて、お客様の足元を明るくしていた。リヒトの言葉にみんながワッと沸き立つように笑っている。
本当にリヒトは女性の扱いが上手い。誰一人不快な気持ちにさせずに、女性客を上手に捌いている。
「グレイスさま、美しい皆様がお帰りになるというので、私は大変不幸な気分です。楽しい時間が永遠に続けばよいのですが!」
「楽しい時間は、あっという間に過ぎるものですよ」
…リヒトのことだから、半分以上は本気で言っているのでしょう。
「またリヒトのところにお買い物に伺いますわ」
「わたくし、新しい夏のドレスを仕立てたいと思っております。相談に乗ってくださいね!」
「わたくしも!」
女性客が口ぐちにリヒトと「次の約束」を結び始める。
「リヒトに相談してデザインした冬のケープは、夫にとても褒められましたのよ」
「お願いですから、私の前でご主人や恋人のお話をなさらないでください。悔しくて、二日は食事が喉を通らなくなります!」
(みんな笑っているけれど、リヒトのことだから完全に本気で言っているのでしょう。……アレは間違いなく本気の目だわ)
グレイスは引きつった笑顔のまま、少しの間だけ固まった。
(…そ、それはそうと、オプスキュリテはアシモフ公爵令嬢と上手くやっているかしら?)
お別れの挨拶をしているオプスキュリテの表情は、ここからだと見えない。アシモフ公爵家はオプスキュリテが長く担当している名門貴族だ。この公爵令嬢とミーガンという女男爵が、オプスキュリテを巡って争っている。
正確にいうと、争っているのは女男爵ひとりかもしれない。彼女はオプスキュリテを独占したくて、他の女性客に嫌がらせをしているのだ。
公爵令嬢ともなると、仕立てるドレスの枚数も多く、品質も高いものを求める。ドレスにはアクセサリーやバッグ、靴なども合わせることになるので、オプスキュリテが商談する時間も回数も多い。ミーガンはこれが許せないらしい。
(困るわ、恋人を探しているならそういうお店を当たってほしい)
グレイスはこの女男爵・ミーガンに頭を悩ませている。どうにも一筋縄ではいかない人で、オプスキュリテが自分の恋人だと信じ込んでいる。信じ込んでいるだけでなく、ご丁寧に吹聴もしているらしい。迷惑この上ない。
貴族が妻や夫以外の愛人を欲しがるのはよく知っている。そういうゴシップはいくらでも耳に入る。実際に綺麗な顔の男性を集めて、お金持ち相手に商売をする店もあるのだ。でも、アルテミスはそういうお店ではないし、そんな風に思われたくもない。
グレイスがくよくよ悩んでいるところに、オプスキュリテがアシモフ公爵令嬢ソフィアをエスコートしてやってくる。彼女は去年アルテミスで仕立てた春物のドレスを身に着けていた。白い光沢のあるドレスに、ベールのような虹色のレースを重ねて襞にしている。
「…グレイス、今日はありがとう。アルテミスのお花見はいつも素晴らしいわ」
「ソフィアさま、お褒めにあずかりありがとうございます」
「グレイスはオリバー様とお知り合いなのね?」
「えっ…」
「先ほど、オリバー様に声を掛けられてお話していなかった?」
「あっ、先ほどの船争いの件でご心配いただいたようで、声を掛けてくださったんです」
「あら、オリバー様らしいわ!」
公爵令嬢が声をあげて、楽しそうに笑った。ソフィアのこんな打ち解けた笑顔は初めてだとグレイスは驚く。
「わたくし、オリバー様よりふたつ下のクラスだったのだけれど、学校でそれは人気があったのよ。オリバー様は男性にも女性にも人気でした」
「…そうなのですか?」
「ええ。すごく優しくて、下級生で庇ってもらったことのある子は多いんじゃないかしら? わたくしたちの学校って、すごく上下関係が厳しいの。下級生の頃はみんなびくびくしているのよ」
グレイス自身は家庭教師が雇われているので、学校に通ったことがないのだ。貴族の学校はそんなに厳しいのかと驚いた。庶民とはまた違う大変さがあるのかもしれない…。
「我が家は家庭教師なので、わたくしは学校に通ったことがないのです」
「貴族もだいたい家庭教師をつけているのだけれど、学校では人間関係や社交を学ぶのですよ。これは貴族にはとても大切なことなの」
「…人間関係ですか」
「ええ、人間関係。それにしても、わたくしもオリバー様にご挨拶できればよかったわ。オリバー様を素通りしたなんて、イサキオス兄様に叱られてしまう」
「イサキオス様も…オリバー様とお知り合いなのでしょうか?」
「お兄様とオリバー様は同窓生なのです。うちの兄は引っ込み思案で、学生時代にオリバー様にずいぶん助けていただきました。おかげで今では多少社交が身について、両親はオリバー様に感謝しております。兄とご一緒すると、今でもオリバー様の話題が出るのです」
(貴族同士の関係というのは、ゴシップ以外にもいろいろあるのだわ)
グレイスは目から鱗の思いでソフィアの話を聞いていた。公爵の方がはるかに身分が上なのに、彼女やイサキオスは男爵家のオリバーに憧れに近い思いを抱いているのだ。
身分社会の貴族でも、身分だけでは語れない人間関係がたしかに存在する。
(当たり前だけど、貴族も人間なのね……)
しかし、オプスキュリテが上手く公爵令嬢のご機嫌を取れるか気を揉んでいたところ、偶然にもオリバーに救われた。とにかくソフィアが機嫌よく帰路についてくれて、グレイスはほっとする。
アシモフ公爵家は学者肌で気難しいと噂されている。古くからの名家なので、グレイスも気が抜けない。
ソフィア嬢の乗った大型馬車を見送りながら、グレイスは
「……オリバー様をあれだけお好きならば、ソフィアさまはオプスキュリテよりもリヒト向きのお客様かしら?」
と考えた。
少しおしゃべりしただけだが、オリバーはオプスキュリテよりも、リヒト寄りの人だと思う。ただアルテミスでは、よほどのことがなければ担当替えはしないのだけれど。
★
小姓に手を取られて大型馬車を降りると、庭師に整えられた木々の間からぬうっと男が顔を覗かせた。同じ金髪でも、オリバー様のサラサラの金髪とは艶が違う。
ボロボロのとうもろこしのヒゲに似た疲れた金髪に、何故か麦わら帽子を被っている。
わざわざカンテラを灯してまで、趣味の虫捕りをしているのだろう。棒の先に虫捕り網を括り付けたものを持っている。
…これが次期公爵となる男だとは、誰も思うまい。
「あら、お兄様? お久しぶりです。四ケ月ぶりくらいかしら?」
「冬の間は隣国に転地していたんだ。私は寒さが苦手だから」
兄は虫捕り網を振り回しながら応える。嘘おっしゃい、冬は昆虫採集ができないから、暖かい国に行っていただけでしょう?
「まぁ、羨ましいことね」
「寒いと気が塞ぐから、私は冬が苦手だ」
…これは本音ね。
「……今日、わたくし懐かしい方をお見掛けしましたわ。ドイル家のオリバー様…」
「オリバーか! 元気そうだったかい?」
珍しくイサキオスが目を輝かせる。ドイル家のオリバー様は学生時代からの兄の友人だ。学者肌で人の好き嫌いがはっきりしているイサキオスの、唯一の友人といってもよい。
「遠かったので、残念ながら声は掛けませんでした。今日はアルテミスで舟遊びがあって、アルテミスの船が『どこぞのクソ貴族』に嫌がらせを受けましたのよ!」
「…あぁ、だから私は花祭りが苦手なんだよ! 必ず喧嘩沙汰が起きるだろう? 少しばかり良い場所で花見をするために、場所取りの喧嘩だぞ? 本当に信じがたいよ」
暴力沙汰が苦手といえば聞こえがいいのですが、兄はとにかく気が小さいのです。まぁ、わたくしだって同様ですが。
「それで、下船した時にオリバー様がグレイスに声を掛けていたんですの」
「……グレイス? たしかアルテミスの『子供主人』だろう?」
「それを言うならば、『女主人』ですよ。お兄様」
「どっちでもいいだろ。それよりも、ドイル家の御用達はアルテミスではないだろう? たしかタイタンだ」
わたくしも兄も小さいことが気になるタイプなので、どうでもいいことで言い争ってしまいます。お互い争いを嫌う人間なのに、おかしなこと。
「お兄様は本当にドイル家のことにお詳しいこと! ドイルの御用達でなくても、オリバー様は貴族に嫌がらせを受けたアルテミスに同情したのでしょう」
「なるほど、オリバーらしいなぁ!」
「オリバー様は貴族には珍しく、性格の良い方ですもの」
「…お前、身も蓋もないなぁ」
兄のイサキオスは、まるでわたくしが非常識な女のように言いますが、お兄様にだけは言われたくありません!
大きな声ではいえないけれど、アシモフ家の人間は変わり者揃いなのです。そもそも我が一族が公爵の身分になれたのは、ご先祖様が変わり者だったからですもの。
その昔、ミニヨンで大きな疫病が流行りました。その疫病に効く特効薬を生み出したのが、わたくしたちのご先祖様です。ええ、その素晴らしい偉業は教科書にも載っております。
ご先祖様が「国民を救いたい! 領民たちの命を守りたい!」などという高尚な気持ちから研究に没頭したのなら素晴らしいのですが、もちろんそうではありません。
「どうせいつ死ぬかわからんのだから、好きなことをやって死にたい‼」
ご先祖様の研究日誌には、堂々と書いてあります。むろん、一族の者以外には伏せられていますが。こんな恥ずかしい話、世間に公表できませんわ。貴族としての矜持がなさすぎます!
疫病の流行でバタバタと人が倒れていく中で、「もうどうにでもなれ!」とばかりに研究漬けの毎日を送り、その結果たまたま、本当に運よく…瓢箪から駒、棚から牡丹餅で特効薬が生まれたのです。
わたくしたちのご先祖は、カビが大好きだったんです。兄が昆虫を愛するように、ご先祖様もカビを愛していたようです。そのお陰で疫病に効く特効薬を生み出すことができたのですから、文句は申しません……申しませんが。
結局、ご先祖様はカビで健康を害して亡くなりました。当時住んでいたお屋敷はカビだらけで、引っ越しせざるを得なかったようです。父からこの昔話を聞いて、「…イサキオス兄様の昆虫の方がまだマシ!」と子供心に思いましたよ。
イサキオスは子供の頃から筋金入りの昆虫好きだったので、わたくしはおぞましい虫に囲まれて、たびたび悲鳴をあげながら成長したのですけれど…。
「イサキオス兄様、四ケ月ぶりなのですから、お茶くらいご一緒しませんか?」
玄関口でいつまでも立ち話を続けるのは、さすがに勘弁して欲しいわ。わたくしも貴族の端くれなのだから、カンテラを灯しながら夜間の昆虫採集にはお付き合いできません。いくら〈変わり者公爵家〉の一員でも…。




