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第10話 蔵の声 8

 蔵の中は、ひんやりとしていた。


 外では、夏の名残がまだ粘つくように空気に残り、蝉の声が遠くで途切れ途切れに聞こえている。


 それなのに、分厚い土壁に囲まれたこの空間だけは、まるで別の季節に取り残されたかのように冷たい。


 土壁は、幾度も塗り直された痕を残し、ところどころに細かなひびが走っている。


 そこに指を当てると、昼でも夜でも変わらぬ冷えが、皮膚を通してじわりと伝わってきた。


 時間そのものが、ここではゆっくりと沈殿しているようだった。


 埃が舞い、光に照らされては落ち、また積もる。


 それを、誰かが急いで払うことは、もう何年もなかったのだろう。


 鼻をくすぐるのは、埃と、古い木の匂い。


 乾いた土と、長く使われてきた油の混じった匂い。


 そして、結にはうまく言葉にできない、胸の奥をそわそわと撫でるような匂い。


 それは、怖い、とは少し違った。


 何かが潜んでいる気配はある。


 けれど、それがすぐに牙を剥くわけでも、叫び声を上げるわけでもない。


 ただ、こちらを見ている。


 黙って、ずっと。


 安心、とも言えなかった。


 まだ小さな結は、着物の裾を踏まないように、両手で端をつまみ、慎重に歩いた。


 普段は走り回って叱られてばかりなのに、この場所では、自然と足音を殺してしまう。


 蔵の床板はところどころ軋み、足を置くたびに、きゅ、とか、みし、という小さな音を立てた。


 そのたびに、結の肩がわずかに跳ねる。


「おじいちゃん」


 声が、思ったよりも小さく響いた。


「ここ、暗いよ」


 鹿倉扇は、結の少し前を歩きながら、振り返りもせずに答えた。


「暗いな」


 短く、ぶっきらぼうな返事。


 けれど、その声は、どこか楽しげでもあった。


 扇は、腰に提げていたランタンを持ち上げ、芯を少しだけ強めた。


 じゅっと小さな音がして、橙色の光がふわりと広がる。


 闇は一気に消えない。


 光の届くところだけが、ゆっくりと形を持つ。


 棚に並ぶ刀や面、甲冑の影が、壁に長く伸びた。


 それらは揺れ、歪み、まるで生き物のように動く。


 人の形にも、獣の形にも見える影。


 角が生えたようにも、口を開いているようにも見える。


 結は、思わず祖父の着物の袖を掴んだ。


「怖いか?」


 からかうような声。


 だが、その声音には、はっきりとした気遣いが混じっている。


 結の小さな変化を、見逃さない声だった。


 結は、少し考えてから、首を振った。


「……ちょっとだけ」


 一瞬、嘘をつこうとして、やめた。


「正直でよろしい」


 扇は、くっと喉を鳴らして笑った。


「でもな、怖いというのは、悪いことではない」


 結は、近くの棚に置かれた古い面を見上げる。


 木彫りの面は、表情が柔らかく、しかしどこか歪んでいる。


 笑っているようで、泣いている。


 泣いているようで、何かを必死に堪えている。


「このお面……」


 結は、しばらく見つめてから言った。


「泣いてるみたい」


 その言葉に、扇は、はっきりと目を細めた。


 驚きと、わずかな満足が、そこにあった。


「泣いていた、が正しい」


 扇は、そっとその面を手に取った。


 扱いは、武器というよりも、古い人形のようだった。


 語られる過去。


 祭りの夜、笑顔を求められた役目。


 守るために仮面を被り、泣くことを許されなかった人間の話。


 奪われたもの。


 失われた家族。


 それでも、笑っていなければならなかった理由。


 結は、黙って聞いていた。


「かわいそう」


 ぽつりと、こぼれる。


 扇は、その言葉を否定しない。


「だから、この面には、まだ気持ちが残ってる」


 ランタンの光の中で、面の影が揺れた。


「それが、呪い?」


「半分は、そうだ」


 呪いとは、感情の行き場を失ったもの。


 怒りも、悲しみも、願いも、どこにも行けず、形を持ってしまったもの。


「斬れば、消える」


 扇は、淡々と続ける。


「だが、救われはしない」


 結は、面を見つめながら、胸が少し苦しくなるのを感じた。


「じゃあ……どうするの?」


「話を聞くんだ」


 面と。


 呪いと。


 人の心に。


「嫌じゃないの?」


 扇は、少しだけ視線を逸らした。


「嫌だとも」


 即答だった。


 それでもやる理由を、扇は静かに語る。


「それでも、誰かがやらなくはならないことだ」


 結は、その背中を、幼いなりに焼き付けた。


 広くはない背中。


 だが、蔵の中では、誰よりも大きく見えた。


 後に、祖父のやり方が否定され、家が傾き、剣だけが残されたとき。


 結は、この蔵の冷たさと、ランタンの光を、はっきりと思い出す。


 怖さと、温かさが、同時にあったこと。


 斬らないという選択が、弱さではなかったと知っていること。


 だからこそ。


 祖父のやり方を、否定されるわけには、いかなかった。

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