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第10話 蔵の声 9

 雨の音が、蔵の屋根を叩いていた。


 ぽつ、ぽつ、ではない。


 最初から、はっきりとした雨だった。


 一定のリズムで、しかし確実に、重く。


 木と土を叩くその音は、蔵全体を包み込み、外界を遮断しているようにも思えた。


 外は夕暮れで、空気は湿り、冷たかった。


 昼の名残の明るさは、雲に吸われ、すでに影の方が多い。


 庭の土は黒く濡れ、草の匂いが濃く立ち上っている。


 雨に打たれた葉が揺れ、時折、水滴が弾ける。


 結は、縁側に座り、足をぶらぶらさせていた。


 雨粒が跳ねるのを、ぼんやりと眺めている。


 何度も見てきた景色なのに、今日は、なぜか落ち着かなかった。


 蔵の戸は、半分だけ開いている。


 普段なら、雨の日は閉められているはずだった。


 その隙間から、微かな咳の音が聞こえた。


「おじいちゃん?」


 呼びかけると、雨音に吸われるように、返事はなかった。


 結は、草履を揃え、胸の奥に嫌な予感を抱えながら、そっと中を覗いた。


 鹿倉扇は、いつもの棚の前に腰を下ろし、古い刀を膝に置いていた。


 刀身は布に包まれ、柄だけが見えている。


 背中は丸く、肩が少し落ちている。


 いつもより、ずっと小さく見えた。


「風邪?」


 結が近づいて声をかける。


「……いや」


 扇は、短く答えた。


「少し、古いものに当てられただけだ」


 それが、どういう意味か。


 結には、まだ完全にはわからない。


 結は近づき、膝を抱えるようにして座る。


「また、無理したんでしょ」


「叱られる歳でもないがな」


 扇は、苦笑した。


 だが、その笑いは浅く、すぐに消えた。


 雨音だけが続く。


 長い沈黙のあと、扇が、ぽつりと口を開いた。


「なあ、結」


「なに?」


「もしな……」


 言葉が、そこで途切れた。


 扇は、刀から視線を外し、蔵の奥を見つめる。


 そこには、結が子どものころに見た、あの面が、変わらず置かれている。


「もし、私が、もっと剣を振っていたら」


 結は、驚いて顔を上げた。


「え?」


「もっと、早く斬っていれば、楽になったものも、あったかもしれない」


 結は、慌てて首を振る。


「そんなことない! おじいちゃんは、間違ってない!」


 声が、思ったより大きくなった。


 扇は、その反応を見て、少しだけ笑った。


 だが、その笑みは、ひどく寂しい。


「そう言ってくれるのは、ありがたいな」


 彼は、しばらく刀の柄を見つめてから、続けた。


「だがな、正しいことと、間違わないことは、違う」


 結は、何も言えなかった。


「私は、斬らないことを選び続けた。それは、逃げではなかったと、今でも思っている」


 扇は、柄にそっと触れる。


「だが、その選択が誰かを救う前に、鹿倉という家をすり減らしてしまったのも、事実だ」


 結の胸が、ざわつく。


「……それって」


「間違っていたかもしれないな」


 その言葉は、雨音に紛れて、ひどく小さかった。


 結は、思わず立ち上がった。


「そんなこと言わないで!」


「結」


 扇は、穏やかな声で呼び止める。


「間違いを認めるのは、敗北じゃない」


 ゆっくりと、結を見る。


「私は、自分が正しいと信じたまま、周りと戦い続けてしまった」


 結は、唇を噛む。


「お前には、同じことをしてほしくない」


「……どういうこと?」


「誰かのやり方を、否定するな」


「……」


「自分のやり方も、絶対だと思うな」


 扇は、深く息を吐いた。


「もし、剣が必要なら、使え。もし、斬るしかないなら、斬れ」


 結の目が、揺れる。


「でも……おじいちゃんは、斬らなかった」


「ああ」


 扇は、はっきりと頷いた。


「それは、私が選んだ、限界、だ」


 結は、その言葉を、理解できなかった。


 いや、理解したくなかった。


「おじいちゃん」


 声が、震える。


「おじいちゃんは、すごいよ」


 扇は、結の頭に手を置いた。


 その手は、ひどく温かくて、少し震えていた。


「……ありがとう」


 そして、低く、付け加える。


「だがな、結。私のやり方を、そのまま正解にしてはいけない」


 雨音が、さらに強くなる。


 その言葉の重さを、結は、そのとき、まだ知らなかった。


 ただ、この人の生き方を、否定されたくない。


 この蔵で見た背中を、無意味にしたくない。


 その想いだけが、胸の奥に、深く、静かに残っていた。







 雨は、その夜のうちに止んだ。


 蔵の屋根を叩いていた重たい音が消え、代わりに、しんとした静けさが降りてきた。


 夜明け前の空気は冷え、湿った木の匂いだけが、名残のように漂っている。


 結は、布団の中で目を覚ました。


 理由は、はっきりしなかった。


 悪い夢を見たわけでも、雷が鳴ったわけでもない。


 ただ、胸の奥が、微かにざわついていた。


 何か、起きた。


 そう思った。


 家の中は静かで、柱時計の音だけが規則正しく響いている。


 扇の部屋からも、物音はしない。


 結は、ゆっくりと息を吐き、もう一度目を閉じた。


 あの雨の中で交わした言葉が、頭の中を巡る。


 正しいことと、間違わないことは、違う。


 祖父の声は、低く、穏やかだった。


 けれど、その奥にあったものを、結は、まだ掴みきれていなかった。


 その日から、蔵は、少しだけ変わった。


 見た目は、何も変わらない。


 戸はいつも通りに開き、埃の積もり方も、棚の並びも、昨日と同じだ。


 けれど、結が中に入ると、空気が、わずかに「遅れる」。


 一歩踏み込んだ瞬間、外よりも半拍遅れて、音が届く。


 自分の足音が、ほんの少しだけ、後を引く。


 最初は、気のせいだと思った。


 しかし、二度、三度と続くうちに、無視できなくなった。


 結は、蔵の中央で立ち止まり、周囲を見回す。


 棚に並ぶ品々は、黙っている。


 壺も、箱も、布に包まれた刃物も、何ひとつ動かない。


 それなのに、


「……なんか、見られてる気がする」


 呟いた声が、いつもより低く、深く響いた。


 返事はない。


 空気が、わずかに張り詰めた気がした。


 結は、無意識のうちに、扇の言葉を思い出していた。


 怖いと思えるなら、近づくな。


 その基準が、少しずつ、曖昧になっていることに、まだ気づいていなかった。


 扇も、変わっていった。


 以前より、蔵にいる時間が長くなった。


 夜遅くまで灯りが消えない日も、珍しくない。


 結が声をかけると、必ず返事はする。


 けれど、その声は、どこか遠い。


「おじいちゃん、休まなくていいの?」


「大丈夫だ」


 そう言って笑うが、その笑みは、以前より硬い。


 結は、それ以上、踏み込めなかった。


 雨の日のことが、二人の間に、薄い膜のように残っていた。


 触れれば破れそうで、触れなければ、ずっとそこにある。


 ある午後、結は、蔵の掃除を任された。


 扇は、奥の部屋で、帳面を広げている。


「封じ札が古くなってるの、替えておいてくれ」


「はーい」


 いつも通りのやり取り。


 結は、軽い気持ちで、札の状態を確認していく。


 そのときだった。


 棚の影で、ふと、空気が沈んだ。


 冷たい、というほどではない。


 ただ、そこだけ、音が吸われるような感覚。


 結は、足を止めた。


「……?」


 目を凝らしても、何も見えない。


 札も、破れていない。


 それでも、胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 ここ、ちがう。


 言葉にならない感覚が、はっきりとあった。


 結は、一歩、下がった。


「……ごめん」


 思わず、そう呟いていた。


 誰に向けたのか、自分でもわからない。


 それでも、その場の重さが、ほんの少し、緩んだ気がした。


 結は、急いでその場を離れた。


 奥の部屋から、扇が、その様子を見ていたことに、気づかないまま。


 その夜、結は、奇妙な夢を見た。


 蔵の中を、一人で歩いている。


 灯りはないのに、暗くはない。


 棚の間を進むたび、背後で、何かが、わずかに動く。


 振り返ると、何もいない。


 それを、何度も繰り返す。


 やがて、蔵の奥に、小さな箱が見えた。


 手を伸ばそうとすると、誰かが、そっと手首を掴む。


 冷たくも、痛くもない。


 ただ、離れがたい。


 目が覚めたとき、結の手は、ぎゅっと握られていた。


 心臓が、早鐘を打つ。


「……夢、だよね」


 そう呟いても、指先に残る感覚は、すぐには消えなかった。


 翌朝。


 蔵の空気が、重かった。


 湿った木の匂いに、鉄と古紙の乾いた気配が混じり、胸の奥に沈殿するようだった。


 結は、理由もわからないまま、胸がざわついていた。


 朝から、何度も名前を呼ばれている気がする。


 振り向いても、誰もいない。


 それなのに、背中だけが、ずっと見られている。

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