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第10話 蔵の声 10

 その日は、蔵の空気が、いつもより重かった。


 湿った木の匂いに、鉄と古紙の乾いた気配が混じり、胸の奥に沈殿するようだった。


 結は、理由もわからないまま、胸がざわついていた。


 朝から、何度も名前を呼ばれている気がする。


 振り向いても、誰もいない。


 それなのに、背中だけが、ずっと見られている。


 棚に並ぶ品々が、ひそひそと囁いているような気がした。


 壺の口が、わずかに鳴った。


 布に包まれた刃物が、微かに震えた気がした。


「……おじいちゃん?」


 声は、蔵の梁に吸い込まれて消える。


 返事は、ない。


 扇は、必ず声を返す人だった。


 忙しくても、


「どうした」


 と、一言だけは言う。


 それがないことが、逆に、胸をざわつかせた。


 蔵の奥。


 普段は封を解かれない一角から、微かな音がした。


 ぎ、と、音がした。


 金属が、無理に動かされたような、嫌な音。


 結は、息を詰めた。


 足音を立てないよう、草履を脱ぎ、裸足で床を踏む。


 冷たい板が、足裏に吸いついた。


 そこには、古い小箱が落ちていた。


 棚の端から、ずり落ちたように、斜めに転がっている。


 封じの札が、半分、剥がれている。


 墨の線が、途中で途切れ、力を失っていた。


「……あ」


 気づいた瞬間、空気が冷えた。


 夏のはずなのに、吐く息が白い気がした。


 黒い靄のようなものが、箱の隙間から、じわじわと滲み出していた。


 煙ではない。


 影とも違う。


 ただ、そこにある、という圧だけがあった。


 結は、後ずさる。


 背中が棚に当たり、かたり、と音が鳴った。


「だ、だめ……」


 喉が、ひくりと鳴る。


 扇の言葉が、頭をよぎった。


 怖いと思えるなら、近づくな。


 それは、もう、お前の手に余る。


 だが、その靄の奥に、声があった。


『……いたい』


 小さく、かすれた声。


 怒鳴り声でも、呪詛でもない。


 結の足が、止まる。


『……おいて、いかないで』


 胸の奥を、ぎゅっと掴まれるような声だった。


 それは、怒りでも、憎しみでもなかった。


 ただ、泣き声だった。


「……だれ?」


 問いかけてしまった瞬間、


 靄が、わずかに形を持った。


 折れた槍の穂先。


 欠けた刃。


 血に濡れ、名前すら残らなかった、名もない兵の残滓。


 結は、思わず、胸を押さえた。


 息が、浅くなる。


「……いたい、よね」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。


 ただ、そう言わずにはいられなかった。


 その瞬間、靄が、結の方へ伸びた。


 冷たい腕のように、空気を裂く。


 恐怖で、足がすくむ。


 逃げなきゃいけない。


 頭では、そうわかっている。


 それでも、結は、目を逸らせなかった。


「……おじいちゃんは」


 震える声で、結は言った。


「話を、聞けって、言ってた」


 結は、そっと、小箱に手を伸ばす。


 本来なら、触れてはいけない。


 子どもが、触れていいものじゃない。


 手が、震える。


 それでも、引かなかった。


「……ここは、いやなんだよね」


 靄が、ぴたりと止まった。


 まるで、耳を澄ますように。


 結は、続けた。


「怖くて、苦しくて、終わりたかったんだよね」


 蔵の中が、静まり返る。


 靄は、消えなかった。


 だが、暴れもしなかった。


 結の胸が、じんわりと熱くなる。


「……じゃあ」


 結は、無意識に、そう口にしていた。


「私と、来る?」


 その瞬間。


 靄が、はっきりと、結に絡みついた。


「……っ!」


 冷たい。


 氷水に沈められたような感覚。


 息が、詰まる。


 視界が、ぐらりと歪む。


 蔵の柱が、遠ざかる。


 だが、結は、振りほどかなかった。


「だいじょうぶ……」


 自分に言い聞かせるように、呟く。


「ここにいたら、ずっと、苦しいままだよ」


 靄が、ゆっくりと、小箱に戻っていく。


 だが、完全には、収まらない。


 結は、必死に考えた。


 封じるだけじゃ、だめ。


 この人は、動けない。


 ふと、棚の上に置かれた、古い面が目に入った。


 あの、泣いているように見えた面。


「……これなら」


 結は、面を取り、箱の前に置いた。


 どうして、そう思ったのか。


 理由は、わからない。


 ただ、合う、と感じた。


 靄が、面に、すうっと吸い込まれていく。


 抵抗も、悲鳴もない。


 空気が、元に戻る。


 重さが、嘘のように消えた。


 結は、その場に座り込んだ。


 膝が、がくがくと震える。


 できて、しまった。


 そのとき、蔵の入口で、足音がした。


「……結」


 扇の声だった。


 結は、はっと振り返る。


「おじいちゃん……!」


 扇は、状況を一目で理解した。


 剥がれた札。


 面に宿る、微かな気配。


 そして、結の、青い顔。


「……触ったのか」


 結は、泣きそうになりながら、頷いた。


「ごめんなさい……でも、あの人、すごく……」


 扇は、結の前に膝をついた。


 怒鳴りはしなかった。


 ただ、深く、息を吐いた。


「……聞いて、しまったな」


 結は、俯く。


「私……だめなこと、した?」


 扇は、しばらく、答えなかった。


 やがて、静かに言った。


「間違いではない」


 結の顔が、上がる。


「だが……」


 扇の声が、かすれた。


「まだ、早すぎた」


 彼は、面に手を伸ばし、慎重に封を施す。


「結」


「……なに?」


「今、お前は、理解した、だけではない」


 扇は、結を見た。


「呪いを、動かした」


 結の胸が、どくん、と鳴る。


「それはな」


 扇は、苦しそうに目を閉じた。


「私でも、避け続けてきた一線だ」


 結は、その意味を、完全には理解できなかった。


 ただ。


 自分は、祖父がしなかったことを、してしまった。


 その事実だけが、静かに、深く、胸に沈んだ。


 そして、その日を境に、蔵の中の声は、結にだけ、はっきりと聞こえるようになった。

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