第11話 一振りの一言 1
それから、蔵の時間は、少しだけ狂った。
大きく何かが変わったわけではない。
戸は、これまで通り朝に開き、夕方に閉じられる。
棚の配置も、道具の数も、昨日と変わらない。
それでも、結には、はっきりとわかった。
ここは、前と同じ場所ではない。
声が、ある。
以前から、気配のようなものは、感じていた。
重たい、とか。
冷たい、とか。
近づきたくない、とか。
でも、今は、違う。
言葉にならないはずのものが、言葉として、胸に落ちてくる。
『……そこ、いたい』
『……それ、さわらないで』
『……まだ、だめ』
はっきりした声ではない。
夢の中で聞く独り言に、よく似ている。
意味を理解しようとした瞬間に、すっと溶けて消える。
それでも、確かに、誰かが、いる。
結は、無意識のうちに、足を止めていた。
古い壺の前に、結は、立っていた。
「……」
封じ札は、完璧だ。
破れも、剥がれもない。
それなのに、壺の内側から、かすかな不快感が滲んでくる。
ここは、違う。
なにか違う。
頭の中に、そんな感覚が浮かぶ。
結は、思わず一歩、下がった。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪か、自分でもわからなかった。
それでも、壺の重さが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
その様子を、梁の影から、扇が、見ていた。
何も言わない。
ただ、目を細め、結の仕草を、見ていた。
結は、その視線に気づいていなかった。
それどころでは、なかった。
蔵にいると、時間の感覚が、曖昧になる。
気づけば、昼を過ぎている。
気づけば、陽が傾いている。
結は、以前なら考えもしなかった場所に、自然と足を運んでいた。
蔵の奥。
封を重ねた、そのさらに奥。
扇が、
「触れるな」
と、言ったものたち。
理由は、聞いていない。
聞かなくても、わかっていたからだ。
怖い。
危ない。
手に余る。
それでも。
今は、違う声がする。
『……まって』
『……ひとりは、いやだ』
結は、立ち尽くした。
胸の奥が、きしむ。
この声を、無視していいのか。
聞こえているのに。
聞いてしまったのに。
結は、唇を噛んだ。
扇の言葉が、脳裏をよぎる。
怖いと思えるなら、近づくな。
それは、お前の手に余る。
結は、小さく、
「……聞くだけ、なら」
自分に言い訳するように、呟く。
手は、伸ばさなかった。
ただ、座り込んで、耳を澄ませた。
『……いたい』
『……ながい』
『……だれも、こない』
断片的な言葉。
それが、胸に積もる。
結の呼吸が、浅くなる。
これは、今までの声の残滓とは、違う。
もっと、古い。
もっと、歪んでいる。
それは、怒りも、悲しみも、形を失ったまま、ここに留まり続けたものである。
それが、結には、わかった。
そうとわかっていた。
そして、
「……もう、終わってるんだよ」
と、結は、小さく言った。
それは、その言葉は、何なのか、何だったのか。
慰めだったのか。
拒絶だったのか。
自分でも、わからない。
わからなかった。
自然、そう口をついて出ただけだった。
その瞬間。
空気が、ぴん、と張り詰めた。
視界の端で、封が、わずかに揺れた。
「……え?」
嫌な予感が、背骨を走る。
結が立ち上がろうとした、その時だった。
封じ札の一枚だった。
それが、音もなく、床に落ちた。
落ちた、のではない。
引き剥がされた。
「……え?」
息が、詰まる。
黒い気配が、隙間から溢れ出す。
さっきまでの、弱々しい声ではない。
形を持たない圧が、結に向かって、のしかかる。
『……みつけた』
低い声。
ぞっとするほど、はっきりした言葉。
結は、後ずさる。
足がもつれ、床に手をついていた。
(逃げなきゃ)
頭では、わかっている。
しかし、駄目だった。
体が、動かない。
その時。
鋭い音が、空気を裂いた。
ぱん、と、乾いた破裂音。
視界に、符の光が走る。
結の前に、扇が立っていた。
「下がれ!」
初めて聞く、怒声だった。
扇の符が、次々と打たれる。
床、柱、空中。
封じが、無理やり押し戻されていく。
黒い気配が、歯噛みするように、軋む。
『……じゃま、を……』
「黙れ」
扇の声は、低く、冷たかった。
「ここは、お前の居場所ではない!」
最後の符が、叩き込まれる。
空気が、弾けるように静まった。
結は、その場にへたり込んだ。
心臓が、暴れる。
やがて、
「……ごめん、なさい……」
と、震える声で、そう言うのが、精一杯だった。
扇は、しばらく、何も言わなかった。
封を確認し、札を貼り直し、深く息を吐く。
それから、ようやく、結を見た。
その目にあったのは、怒りではない。
恐怖だった。
「……聞こえるんだな」
結は、頷いた。
「声も……気持ちも……」
扇の拳が、きゅっと握られる。
「どこまでだ」
「……わからない」
正直に、そう答えた。
「でも……放っておけない、って思う」
扇は、目を閉じた。
長い沈黙。
蔵の中の、すべての物が、息を潜めているようだった。
「結」
扇は、低く言った。
「それは、力じゃない」
結は、顔を上げる。
「呪いに、手を伸ばされている状態だ」
胸が、冷たくなる。
「選んでいるつもりで、選ばされている」
「……」
結は、何も言えなかった。
反論できない。
さっきの感覚が、まだ、体に残っている。
「……私は」
扇は、ぽつりと続けた。
「それを、一度、経験している」
結は、息を呑んだ。
「だから、わかる」
視線が、結に向く。
「ここまで来たら、戻るのは、難しい」
その言葉が、重く、胸に落ちた。
結は、初めて、はっきりと理解した。
自分は、ただ、見えるだけではない。
ここにあるものと、繋がってしまっている。
扇は、結の肩に、そっと手を置いた。
「……まだ、間に合う」
その声は、震えていた。
結は、何も答えられなかった。
ただ、蔵の奥から、微かに、別の声が聞こえた気がした。
『……また、くる』
それは、約束のようにも、警告のようにも聞こえた。
「……」
結は、その声を、聞かなかったふりをした。
しかし、その選択がもうできなくなる日が近いことを、なんとなくわかってしまってもいた。





