↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/151

第11話 一振りの一言 1

 それから、蔵の時間は、少しだけ狂った。


 大きく何かが変わったわけではない。


 戸は、これまで通り朝に開き、夕方に閉じられる。


 棚の配置も、道具の数も、昨日と変わらない。


 それでも、結には、はっきりとわかった。


 ここは、前と同じ場所ではない。


 声が、ある。


 以前から、気配のようなものは、感じていた。


 重たい、とか。


 冷たい、とか。


 近づきたくない、とか。


 でも、今は、違う。


 言葉にならないはずのものが、言葉として、胸に落ちてくる。


『……そこ、いたい』


『……それ、さわらないで』


『……まだ、だめ』


 はっきりした声ではない。


 夢の中で聞く独り言に、よく似ている。


 意味を理解しようとした瞬間に、すっと溶けて消える。


 それでも、確かに、誰かが、いる。


 結は、無意識のうちに、足を止めていた。


 古い壺の前に、結は、立っていた。


「……」


 封じ札は、完璧だ。


 破れも、剥がれもない。


 それなのに、壺の内側から、かすかな不快感が滲んでくる。


 ここは、違う。


 なにか違う。


 頭の中に、そんな感覚が浮かぶ。


 結は、思わず一歩、下がった。


「……ごめん」


 誰に向けた謝罪か、自分でもわからなかった。


 それでも、壺の重さが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。


 その様子を、梁の影から、扇が、見ていた。


 何も言わない。


 ただ、目を細め、結の仕草を、見ていた。


 結は、その視線に気づいていなかった。


 それどころでは、なかった。


 蔵にいると、時間の感覚が、曖昧になる。


 気づけば、昼を過ぎている。


 気づけば、陽が傾いている。


 結は、以前なら考えもしなかった場所に、自然と足を運んでいた。


 蔵の奥。


 封を重ねた、そのさらに奥。


 扇が、


「触れるな」


 と、言ったものたち。


 理由は、聞いていない。


 聞かなくても、わかっていたからだ。


 怖い。


 危ない。


 手に余る。


 それでも。


 今は、違う声がする。


『……まって』


『……ひとりは、いやだ』


 結は、立ち尽くした。


 胸の奥が、きしむ。


 この声を、無視していいのか。


 聞こえているのに。


 聞いてしまったのに。


 結は、唇を噛んだ。


 扇の言葉が、脳裏をよぎる。


 怖いと思えるなら、近づくな。


 それは、お前の手に余る。


 結は、小さく、


「……聞くだけ、なら」


 自分に言い訳するように、呟く。


 手は、伸ばさなかった。


 ただ、座り込んで、耳を澄ませた。


『……いたい』


『……ながい』


『……だれも、こない』


 断片的な言葉。


 それが、胸に積もる。


 結の呼吸が、浅くなる。


 これは、今までの声の残滓とは、違う。


 もっと、古い。


 もっと、歪んでいる。


 それは、怒りも、悲しみも、形を失ったまま、ここに留まり続けたものである。


 それが、結には、わかった。


 そうとわかっていた。


 そして、


「……もう、終わってるんだよ」


 と、結は、小さく言った。


 それは、その言葉は、何なのか、何だったのか。


 慰めだったのか。


 拒絶だったのか。


 自分でも、わからない。


 わからなかった。


 自然、そう口をついて出ただけだった。


 その瞬間。


 空気が、ぴん、と張り詰めた。


 視界の端で、封が、わずかに揺れた。


「……え?」


 嫌な予感が、背骨を走る。


 結が立ち上がろうとした、その時だった。


 封じ札の一枚だった。


 それが、音もなく、床に落ちた。


 落ちた、のではない。


 引き剥がされた。


「……え?」


 息が、詰まる。


 黒い気配が、隙間から溢れ出す。


 さっきまでの、弱々しい声ではない。


 形を持たない圧が、結に向かって、のしかかる。


『……みつけた』


 低い声。


 ぞっとするほど、はっきりした言葉。


 結は、後ずさる。


 足がもつれ、床に手をついていた。


(逃げなきゃ)


 頭では、わかっている。


 しかし、駄目だった。


 体が、動かない。


 その時。


 鋭い音が、空気を裂いた。


 ぱん、と、乾いた破裂音。


 視界に、符の光が走る。


 結の前に、扇が立っていた。


「下がれ!」


 初めて聞く、怒声だった。


 扇の符が、次々と打たれる。


 床、柱、空中。


 封じが、無理やり押し戻されていく。


 黒い気配が、歯噛みするように、軋む。


『……じゃま、を……』


「黙れ」


 扇の声は、低く、冷たかった。


「ここは、お前の居場所ではない!」


 最後の符が、叩き込まれる。


 空気が、弾けるように静まった。


 結は、その場にへたり込んだ。


 心臓が、暴れる。


 やがて、


「……ごめん、なさい……」


 と、震える声で、そう言うのが、精一杯だった。


 扇は、しばらく、何も言わなかった。


 封を確認し、札を貼り直し、深く息を吐く。


 それから、ようやく、結を見た。


 その目にあったのは、怒りではない。


 恐怖だった。


「……聞こえるんだな」


 結は、頷いた。


「声も……気持ちも……」


 扇の拳が、きゅっと握られる。


「どこまでだ」


「……わからない」


 正直に、そう答えた。


「でも……放っておけない、って思う」


 扇は、目を閉じた。


 長い沈黙。


 蔵の中の、すべての物が、息を潜めているようだった。


「結」


 扇は、低く言った。


「それは、力じゃない」


 結は、顔を上げる。


「呪いに、手を伸ばされている状態だ」


 胸が、冷たくなる。


「選んでいるつもりで、選ばされている」


「……」


 結は、何も言えなかった。


 反論できない。


 さっきの感覚が、まだ、体に残っている。


「……私は」


 扇は、ぽつりと続けた。


「それを、一度、経験している」


 結は、息を呑んだ。


「だから、わかる」


 視線が、結に向く。


「ここまで来たら、戻るのは、難しい」


 その言葉が、重く、胸に落ちた。


 結は、初めて、はっきりと理解した。


 自分は、ただ、見えるだけではない。


 ここにあるものと、繋がってしまっている。


 扇は、結の肩に、そっと手を置いた。


「……まだ、間に合う」


 その声は、震えていた。


 結は、何も答えられなかった。


 ただ、蔵の奥から、微かに、別の声が聞こえた気がした。


『……また、くる』


 それは、約束のようにも、警告のようにも聞こえた。


「……」


 結は、その声を、聞かなかったふりをした。


 しかし、その選択がもうできなくなる日が近いことを、なんとなくわかってしまってもいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42bpk4s771sz1iupmgjda531438n_aix_5k_8c_2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。