↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/151

第11話 一振りの一言 2

 その日は、蔵の戸が、最初から閉じられていた。


「あ……れ?」


 結は、朝の空気の冷たさを感じながら、足を止めた。


 いつもなら、まだ薄暗いうちに、木の戸がきしむ音がしている。


 扇が、朝一番に蔵を開ける音だ。


 それが、鹿倉の一日の始まりだった。


 だが今日は、違った。


 戸は、ぴたりと閉ざされている。


 隙間から差し込むはずの朝の光が、ない。


 蔵は、影の塊のように、沈黙していた。


 結は、一歩、近づいてから、動けなくなった。


 胸の奥で、何かが小さく軋む。


 言葉になる前の違和感が、あった。


 まだ形を持たない、不安である。


「……おじいちゃん?」


 声は、思ったよりも細く、蔵の前で吸い込まれるように消えた。


 返事はない。


 その沈黙が、結の胸を、ひやりと冷やす。


 嫌な予感が、はっきりとした輪郭を持ち始める、その直前、


「結」


 母屋の方から、声がした。


「こっちへ来なさい」


 父でも、母でもない。


 祖父、鹿倉扇の声だった。


 いつもより、少し硬く、距離のある声だった。


 結は、蔵の戸に背を向けるまでに、ほんの一瞬、ためらった。


 触れれば、いつもの感触が返ってくる気がした。


 だが、結局、何も触れずに、母屋へ向かった。


 座敷に入った瞬間、違和感は、確信に変わった。


 珍しく、何も置かれていない。


 呪具もない。


 帳簿もない。


 いつもなら、必ずある茶菓子さえない。


 空っぽの畳が、やけに広く、冷たく見えた。


 扇は、正座したまま、結を待っていた。


 背筋は伸びていて、どこか、決意のようなものが、張り付いている。


「……なに?」


 結は、自然と、構えていた。


 距離を取っていた。


 怒られるときの距離。


 叱責から逃げるための、無意識の間合い。


 結は、意図的に、口をすぼませて、


「叱るなら、蔵でしてよ」


 と、言った。


 軽口のつもりだった。


 だが、扇は、静かに首を振った。


「今日は、叱る話じゃない」


 それが、余計に、怖かった。


 叱られない。


 いつもなら、安心するはずだった。


 それなのに、こんなにも空気は、冷えている。


 結の指先が、冷えていく。


「結」


 扇は、ゆっくりと、言葉を選ぶように口を開いた。


「お前は、鹿倉の蔵に、もう入るな」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「……え?」


 聞き返す声が、間抜けに響く。


「今後、呪具に触れることも、封に関わることも、許さない」


 言葉が、胸に落ちる前に、冷気だけが広がった。


 結は、扇を見た。


 どんな表情で祖父を見ているのだろうか。


 結自身にも、わからなかった。


 ただ、


「どうして?」


 声が、思ったより大きくなる。


「私、ちゃんとできるよ。あの時だって……」


 声が大きくなるのは、何の感情のせいなのか。


 結自身にも、よくわからなかった。


「だからだ」


 扇の声が、結を遮った。


「お前は、できてしまう」


「……え?」


 結は、息を呑んだ。


「できる者ほど、危うい」


 扇は、畳に手をつき、深く頭を下げた。


「すまない」


 その姿が、信じられなかった。


「……なんで、謝るの?」


 問いかけても、扇は顔を上げない。


「私は、お前を、後継にはしない」


 はっきりと、言い切った。


「鹿倉の蔵は、ここで終わる」


 世界が、音を立てて傾いた。


「……嘘」


 結は、立ち上がっていた。


「……嘘だよ」


 結は、きゅっと拳を握って、


「だって、私しかいないじゃん!」


「それでいい」


「よくない!」


 声が、震える。


「おじいちゃんのやり方、私が続けるんでしょ?」


 結は、畳みかけるように言葉を繋いで、


「呪いを、ちゃんと理解して、守って……」


「結」


 扇は、初めて、強い声を出した。


 結は、反射的に口を閉じる。


「お前は、理解するだけでは、終わらない」


 扇は、ゆっくりと顔を上げた。


 その目にあったのは、恐れだった。


 孫に向けるものとは思えないほど、深い恐れだった。


 そんな表情の祖父を見るのは、初めてだった。


「お前は、呪いを、動かす」


 結の喉が、詰まる。


「あれは……助けただけで……」


「結果がどうであれ、だ」


 扇は、首を振る。


「呪いは、使われた瞬間に、応える」


「……」


「応えた力は、必ず、使い手を試す」


 低く、重い声。


「お前は、優しすぎる」


「……」


「そして、呪いは、優しさにつけ込む」


 結は、叫びたい衝動を、必死に飲み込んだ。


「……じゃあ、おじいちゃんは、私が怖いの?」


 その問いに、扇は答えなかった。


 代わりに、ぽつりと漏らす。


「……羨ましい」


 結は、目を見開いた。


「私にはできなかったことを、お前は、迷いなくやった」


 拳が、震える。


「だからこそ、だ」


 扇は、はっきりと言った。


「鹿倉は、お前を喰う」


「……!」


「この家は、重すぎる。呪いも、後悔も、全部、背負わせるには」


 結は、いつの間にか、泣いていた。


「じゃあ……私は、どうすればいいの?」


 扇は、ほんの少しだけ、表情を緩めた。


「普通に、生きろ」


 それは、結にとって、いちばん残酷な言葉だった。


「学校へ行け。友だちを作れ。この蔵の声を、忘れろ」


「……無理だよ」


 結は、絞り出すように言った。


「もう、聞こえちゃうのに?」


 扇は、目を閉じる。


「だから、封じる」


 彼は、泣き顔の結の額に、そっと手を当てた。


「……え?」


「許せ」


 淡い符の気配。


 痛みも、衝撃もない。


 ただ、遠くなる。


 感覚が、曖昧なものになる。


「完全ではない。だが、お前が、ここから離れる時間は稼げる」


 結は、その意味を、すぐには理解できなかった。


 ただ。


 自分は、選ばれなかった。


 拒まれた。


 そう、感じてしまった。


「おじいちゃん……」


 扇は、最後に、静かに言った。


「お前は、鹿倉にならなくていい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42bpk4s771sz1iupmgjda531438n_aix_5k_8c_2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。