第11話 一振りの一言 2
その日は、蔵の戸が、最初から閉じられていた。
「あ……れ?」
結は、朝の空気の冷たさを感じながら、足を止めた。
いつもなら、まだ薄暗いうちに、木の戸がきしむ音がしている。
扇が、朝一番に蔵を開ける音だ。
それが、鹿倉の一日の始まりだった。
だが今日は、違った。
戸は、ぴたりと閉ざされている。
隙間から差し込むはずの朝の光が、ない。
蔵は、影の塊のように、沈黙していた。
結は、一歩、近づいてから、動けなくなった。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
言葉になる前の違和感が、あった。
まだ形を持たない、不安である。
「……おじいちゃん?」
声は、思ったよりも細く、蔵の前で吸い込まれるように消えた。
返事はない。
その沈黙が、結の胸を、ひやりと冷やす。
嫌な予感が、はっきりとした輪郭を持ち始める、その直前、
「結」
母屋の方から、声がした。
「こっちへ来なさい」
父でも、母でもない。
祖父、鹿倉扇の声だった。
いつもより、少し硬く、距離のある声だった。
結は、蔵の戸に背を向けるまでに、ほんの一瞬、ためらった。
触れれば、いつもの感触が返ってくる気がした。
だが、結局、何も触れずに、母屋へ向かった。
座敷に入った瞬間、違和感は、確信に変わった。
珍しく、何も置かれていない。
呪具もない。
帳簿もない。
いつもなら、必ずある茶菓子さえない。
空っぽの畳が、やけに広く、冷たく見えた。
扇は、正座したまま、結を待っていた。
背筋は伸びていて、どこか、決意のようなものが、張り付いている。
「……なに?」
結は、自然と、構えていた。
距離を取っていた。
怒られるときの距離。
叱責から逃げるための、無意識の間合い。
結は、意図的に、口をすぼませて、
「叱るなら、蔵でしてよ」
と、言った。
軽口のつもりだった。
だが、扇は、静かに首を振った。
「今日は、叱る話じゃない」
それが、余計に、怖かった。
叱られない。
いつもなら、安心するはずだった。
それなのに、こんなにも空気は、冷えている。
結の指先が、冷えていく。
「結」
扇は、ゆっくりと、言葉を選ぶように口を開いた。
「お前は、鹿倉の蔵に、もう入るな」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
聞き返す声が、間抜けに響く。
「今後、呪具に触れることも、封に関わることも、許さない」
言葉が、胸に落ちる前に、冷気だけが広がった。
結は、扇を見た。
どんな表情で祖父を見ているのだろうか。
結自身にも、わからなかった。
ただ、
「どうして?」
声が、思ったより大きくなる。
「私、ちゃんとできるよ。あの時だって……」
声が大きくなるのは、何の感情のせいなのか。
結自身にも、よくわからなかった。
「だからだ」
扇の声が、結を遮った。
「お前は、できてしまう」
「……え?」
結は、息を呑んだ。
「できる者ほど、危うい」
扇は、畳に手をつき、深く頭を下げた。
「すまない」
その姿が、信じられなかった。
「……なんで、謝るの?」
問いかけても、扇は顔を上げない。
「私は、お前を、後継にはしない」
はっきりと、言い切った。
「鹿倉の蔵は、ここで終わる」
世界が、音を立てて傾いた。
「……嘘」
結は、立ち上がっていた。
「……嘘だよ」
結は、きゅっと拳を握って、
「だって、私しかいないじゃん!」
「それでいい」
「よくない!」
声が、震える。
「おじいちゃんのやり方、私が続けるんでしょ?」
結は、畳みかけるように言葉を繋いで、
「呪いを、ちゃんと理解して、守って……」
「結」
扇は、初めて、強い声を出した。
結は、反射的に口を閉じる。
「お前は、理解するだけでは、終わらない」
扇は、ゆっくりと顔を上げた。
その目にあったのは、恐れだった。
孫に向けるものとは思えないほど、深い恐れだった。
そんな表情の祖父を見るのは、初めてだった。
「お前は、呪いを、動かす」
結の喉が、詰まる。
「あれは……助けただけで……」
「結果がどうであれ、だ」
扇は、首を振る。
「呪いは、使われた瞬間に、応える」
「……」
「応えた力は、必ず、使い手を試す」
低く、重い声。
「お前は、優しすぎる」
「……」
「そして、呪いは、優しさにつけ込む」
結は、叫びたい衝動を、必死に飲み込んだ。
「……じゃあ、おじいちゃんは、私が怖いの?」
その問いに、扇は答えなかった。
代わりに、ぽつりと漏らす。
「……羨ましい」
結は、目を見開いた。
「私にはできなかったことを、お前は、迷いなくやった」
拳が、震える。
「だからこそ、だ」
扇は、はっきりと言った。
「鹿倉は、お前を喰う」
「……!」
「この家は、重すぎる。呪いも、後悔も、全部、背負わせるには」
結は、いつの間にか、泣いていた。
「じゃあ……私は、どうすればいいの?」
扇は、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「普通に、生きろ」
それは、結にとって、いちばん残酷な言葉だった。
「学校へ行け。友だちを作れ。この蔵の声を、忘れろ」
「……無理だよ」
結は、絞り出すように言った。
「もう、聞こえちゃうのに?」
扇は、目を閉じる。
「だから、封じる」
彼は、泣き顔の結の額に、そっと手を当てた。
「……え?」
「許せ」
淡い符の気配。
痛みも、衝撃もない。
ただ、遠くなる。
感覚が、曖昧なものになる。
「完全ではない。だが、お前が、ここから離れる時間は稼げる」
結は、その意味を、すぐには理解できなかった。
ただ。
自分は、選ばれなかった。
拒まれた。
そう、感じてしまった。
「おじいちゃん……」
扇は、最後に、静かに言った。
「お前は、鹿倉にならなくていい」





