第10話 蔵の声 5
竹同士が擦れ合い、まるで誰かの囁きのような音を立てる。
風が吹くたびに、青々とした竹林がざわめく。
その音は、人の声にも、獣の吐息にも聞こえた。
まるで方向感覚を失わせるように、音が反響し、溶け合う。
桶野川駅から、さほど離れていない場所だ。
それにもかかわらず、この一帯だけは時間の流れが異なっているようにも感じる。
彼方は、無意識に背筋を伸ばしていた。
「……」
スマートフォンの時計を見ても、意味を成さない気がして、確認する気にもならない。
“戻らずの杜”。
そう呼ばれる理由を、肌で理解させられる。
足を踏み入れた瞬間から、外界との距離が引き伸ばされていくような気がした。
そういう感覚である。
正確には、その最奥に鎮座する“戻らずの杜”は、桶野川市の古い記録にもわずかに名を残す場所だった。
今でこそ、地図からも半ば消えかけ、竹林に紛れて存在を曖昧にしているが、かつては明確に、禁足地として扱われていた土地である。
理由は、単純で、そして曖昧だった。
入った者が戻らない。
あるいは、戻ってきても、以前のその人ではなくなる。
そんな言い伝えが、代々、口伝えで残されてきたからだ。
社が祀られた年代も、祭神の名も、はっきりとは伝わっていない。
古文書には、
「境を守るもの」
とか、
「返さぬもの」
といった抽象的な記述が、散見されるだけである。
具体的な神名は、意図的に伏せられているかのようだった。
だから、この社は願いを叶える場ではなく、むしろ、
「踏み越えてはならない境界を示すためのものだったのではないか」
と、郷土史家の間では、そのように考えられている。
禁足地と呼ばれていた頃、この竹林には、明確な掟があった。
日没後に立ち入らないこと。
社に近づかないこと。
音を立てないこと。
そして何より、振り返らないこと。
最後の掟だけは、理由が記されていない。
ただ、
「振り返った者は戻らず」
とだけ、簡素に書かれている。
時代が下り、迷信として片付けられるようになると、禁足の札は撤去され、立ち入りを制限する理由も、失われた。
だが、それと同時に、この場所を訪れる人間そのものが減っていった。
理由を説明できる者は、誰もいない。
ただ、近づこうとすると無意識に足が止まり、気づけば別の道を選んでいる。
そんな感覚だけが、人々の間に残った。
“戻らずの杜”は、今もそこにある。
誰かを拒むわけでも、招くわけでもなく、ただ、それとして、静かに在り続けている。
「ここだ」
短く告げた千弦の声は、竹林のざわめきに埋もれることなく、鋭く通った。
堂は、竹林の奥まった場所にひっそりと建っていた。
屋根は苔むし、瓦の隙間には、草が根を張っている。
柱は傾き、注連縄は朽ち、紙垂は風に晒されて形を失っていた。
かつては、信仰の場であったのだろうが、今では訪れる者もなく、半ば自然に飲み込まれかけていた。
彼方は、無意識に七色の横顔を盗み見た。
「……」
七色は、周囲に満ちる気配を感じ取っているのだろうか、口数が少ない。
唇を引き結び、視線は、堂から逸らさない。
その静けさが、かえって胸をざわつかせた。
「終わりにしよう」
千弦は、一歩前に出ると、躊躇なく言い切った。
それは推測ではなく、確信に基づく宣告だった。
扉を押し開けると、堂内の空気が一変した。
長年閉ざされていた扉が軋み、腐った木材の匂いが立ち上る。
埃が舞い、月明かりに照らされて白く浮かび上がった。
同時に、外とは明らかに異なる冷気が肌を撫でた。
湿り気を帯びた空気の中に、異様な気配が満ちている。
目に見えないはずのものが、確かにそこに、在る、と主張していた。
堂の中にいたのは、人である。
「え……?」
彼方の喉から、間の抜けた声が漏れた。
一瞬、状況を理解できなかった。
脳が、目の前の光景を拒絶している。
言葉が欠ける。
視界に映る人物と、ここにいるはずのない理由。
その二つが、噛み合わない。
知った顔だった。
それも、つい先日まで、他愛ない会話を交わしていた相手。
結だった。
同じクラスの少女、鹿倉結だった。





