第10話 蔵の声 4
なんとか、討ち果たした。
その事実だけが、胸の奥で鈍く鳴っている。
勝利と呼ぶには、あまりにも頼りなくもあった。
それがどれほど危うい勝利だったか、振り返る余裕もない。
「……はぁっ」
息を吸うたびに肺の奥が痛み、吐くたびに喉が焼ける。
腕は震え、指先の感覚が曖昧だった。
剣を握っていたはずなのに、今はその重みすら思い出せない。
次の瞬間、ばらばらと音が響いた。
金属同士が擦れ合い、跳ね、地面に叩きつけられる乾いた音。
夜気に不釣り合いなその騒音は、短く、しかし妙に印象深く耳に残った。
甲冑が、空っぽの殻となって地面に崩れ落ちる。
中にあったはずの、何か、は、最初から存在しなかったかのように消えていた。
血も、肉も、魂すらも残していない。
あるのは、役目を終えた器だけだった。
甲冑が、その場に散らばっているだけだった。
静かだった。
まるで戦いそのものが幻だったかのように、夜の空気は元に戻っていく。
激しい気配が引き潮のように遠ざかり、代わりに、竹林本来の呼吸が戻ってくる。
竹の葉が揺れる音だけが、静かに響く。
重なり合う葉擦れは、波のように一定で、どこか眠気を誘うほど穏やかだった。
その静寂の中で、彼方は、まるで時間が止まったかのような感覚にとらわれていた。
(まただ……)
終わったはずなのに、終わっていない感覚。
戦いの終わりと、何か別の始まりが、同時に存在しているような違和感。
彼方は、地面を見渡した。
刃痕の残る地面。
砕けた甲冑の縁。
叩き割られ、捻じ曲がり、歪んだ鉄片。
歪んだ関節部。
肩を守る大袖。
腰から太ももを守る草摺。
膝から脛を守る臑当。
太もも全体を守る佩楯。
小札。
組紐。
それらは、今そこにあった戦闘を、物語っていた。
人の形をした何かが、確かにここで暴れ、斬り、斬られたことを物語っていた。
それと同時に、どこか空虚な印象も漂わせていた。
中身のない器だけが、出来の悪い置物のように散乱している。
竹林の間を通る風が、衣服や、落ちた葉を揺らす。
七色の髪先も、彼方の前髪も、同時に揺れた。
「終わり、ましたね……」
「なんとか、ね」
「でも……」
七色は、言葉を選ぶように一拍置いてから、彼方へ視線を向けた。
彼方の肩は、まだわずかに強張っている。
呼吸も、完全には整っていない。
胸の奥に残るざらついた感覚が、戦闘の終わりを否定している。
「うん。これじゃ、この前と同じだ」
彼方の言葉は、半ば自嘲に近かった。
倒したはずなのに、何も解決していない。
「いえ」
七色は、即座に首を横に振った。
否定する必要があると、直感的に思った。
「正確には、この前と同じではなかったです」
「え?」
短く問い返す彼方を見て、七色は、自身の思考を整理する。
感情ではなく、事実として伝えなければならない。
「明らかに、この前よりも、強かったです」
声は落ち着いていたが、内心では焦りが滲んでいた。
あれは偶然ではない。
たまたま手強かった、というレベルではなかった。
「攻撃。防御。反応。そのすべてにおいて、前回戦った時よりも、数段上でした」
七色は、記憶をなぞる。
振り下ろされた刃の速度。
受け止めた際の衝撃。
間合いを詰めた瞬間の、あの不自然な反応速度。
「こちらの動きを、学習したような剣裁きでした」
そう言いながら、七色は視線を落とす。
地面に散らばる甲冑の残骸。
「防御の重点が変わっていました。前回弱点だった部位が、今回は重点的に補強されていたようです」
七色は、淡々と言った。
自分でも嫌になるほど冷静な分析だと、そう思う。
だが、感情に流されれば、見誤る。
「でも、理由はわかりません」
七色は、正直にそう付け加えた。
推測はできる。
だが、確証はない。
そんな曖昧さが、まとわりついていた。
「そう……」
彼方の声は低く、どこか遠かった。
七色は、それ以上言葉を重ねなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この怪異は、単なる繰り返しではない。
強くなっている。
そして、そこには、意思を感じる。
しかし、それが何なのか、わからない。
判然としすぎていた。
七色は、甲冑の残骸から目を離し、夜の竹林を見渡した。
静けさの裏側で、何かがこちらを見ているような気配が、消えずに残っていた。
やがて、姿を現したのは、一人の少女だった。
凛とした佇まい。
背筋を自然に伸ばした姿勢。
静かにこちらを見つめる、澄んだ瞳。
綺麗な少女だった。
かわいいというよりは、綺麗という言葉が似合っていた。
それでいて、凛とした雰囲気である。
大和撫子。
自然、そんな言葉が頭に浮かんでいた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな言葉も想起された。
制服は、同じ葉坂学園のものだ。
だが、胸元のリボンの色が違う。
一学年上の生徒である。
冷泉寺千弦。
彼方が初めて見たときの印象そのままだった。
凛とした立ち姿に、深い瞳。
その姿勢は、まるで剣士そのものである。
「……」
いつの間にそこにいたのか、気配すら感じさせない立ち姿である。
闇に溶け込むように立ちながら、その存在感だけは、際立っていた。
肩で息している七色に、
「随分と苦戦したようだな」
と、言った。
その声音は淡々としていて、労わりとも叱責ともつかない。
「でも、また……」
声をかすれさせながら、七色は、地面に散らばった甲冑に視線を落とす。
それ以上、言葉が続かない。
「問題ない」
千弦の声は、低く、揺らぎがない。
続けて、まるで答え合わせをするかのように告げる。
「種はわれている」
「え?」
千弦の言葉に、彼方は、目を丸くした。
七色もまた、小さく息を呑む。
「この怪異を、終わらせる」
それは、言いきりだった。
宣言だった。
千弦は、踵を返した。
「付いてきてくれ」
その言葉には、確信の響きがあった。
彼方と七色は、目を合わせた。
「……」
断るという選択肢が、最初から存在しない声音だった。
千弦は、崩れた甲冑から視線を外すと、静かに歩き出した。
行き先を告げることもなく、振り返ることもない。
彼方と七色は、互いに顔を見合わせ、無言で後を追った。
足を踏み出すたび、身体のあちこちが遅れて痛みを訴える。
戦いは終わったはずだった。
それなのに、緊張だけが、抜け落ちない。
甲冑武者は、今はもういない。
だから、剣を振るう必要はもうない。
そう頭では理解している。
それなのに、指先は、まだ微かに震えていた。
夜の竹林は、先ほどよりも静かだった。
音が整理されているように、感じられる。
風の音も、葉擦れも、虫の声も、必要な分だけが、適切な距離で鳴っている。
不自然なほどに、整っていた。
「……千弦さん」
彼方は、背中に向かって声をかけた。
「さっきの……あれで本当に終わりなんですか」
少し間を置いて、千弦は答える。
「終わった部分と、終わっていない部分がある」
曖昧な言い方だった。
「君たちは、あれを倒した」
と、千弦は、続けた。
「だが、あれがすべてだったかどうかは、別の話だ」
彼方が、小さく眉を寄せる。
終わった部分と、終わっていない部分。
その表現に、
「……残っている、ということですか?」
と、聞いていた。
「残っている、というより」
千弦は言葉を探すように、ほんの一瞬だけ歩調を緩めた。
「形を変えて、まだここにある。そう表現した方が、近いかもしれないな」
それ以上の説明はなかった。
問いを重ねても、答えが返ってこないことは、声色で分かる。
彼方は、それ以上踏み込むのをやめた。
竹林を抜けるにつれ、空気がわずかに変わっていく。
冷えるわけでも、重くなるわけでもない。
ただ、どこか、古い匂いが混じり始めた。
湿った土。
朽ちた木。
長く人に顧みられなかった場所特有の、時間の澱。
三人は、進んでいった。





