第10話 蔵の声 3
甲冑武者との戦闘がはじまった。
甲冑武者が、低く軋む音を立てて動いた。
竹林の静寂を破り、朱色の鎧が、一歩、また一歩と前へ進む。
その足取りは重いはずなのに、間合いは異様なほど速く詰まっていく。
骸骨の面の奥、空洞であるはずの眼窩が、確かに七色を捉えていた。
七色は、彼方の前に一歩出る。
次の瞬間、腰元から二振りの剣を抜き放った。
月光を映すような淡い光沢を持つ双剣。
刃は細身で、過度な装飾はない。
だが、その佇まいには、研ぎ澄まされた実戦の気配が宿っている。
甲冑武者が、地を蹴る。
重装の身体から放たれたとは思えない突進だった。
風を割る音とともに、武者の腕が振り上げられ、刃が七色へと叩きつけられる。
七色は、真正面から受けない。
半身でかわし、右手の剣で刃を逸らし、左手の剣で甲冑の脇を浅く斬る。
金属音が弾け、火花が散った。
だが、手応えは薄い。
「この前よりも……っ」
七色の呼吸が、乱れる。
「……速いっ?」
甲冑の内側から、黒い気配が滲み出る。
七色は、即座に距離を取った。
足運びは軽く、地面を蹴る音すら最小限に抑えられている。
その動きに、彼方は、息を呑んだ。
剣道で見てきたどんな上級者とも違う。
無駄がなく、それでいて人の域を越えている。
甲冑武者が、七色を追う。
横薙ぎ。
突き。
振り下ろし。
単調だが、一撃一撃が致命的だ。
七色はそれらを紙一重で避け、双剣で弾き、削り、確実に装甲の継ぎ目を狙っていく。
しかし、決定打にはならない。
決定打にならないまま、数合が過ぎた。
七色の息は、乱れていない。
「……」
だが、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
一方の甲冑武者は、傷を負っているはずなのに、動きが鈍らない。
むしろ、斬られるたびに、内部から黒い靄が濃くなっていく。
(やっぱり、何も、気配を感じない……)
七色は瞬時に悟る。
目の前の何かは、鎧を媒体にしているだけだ。
核は、別にある。
だが、それがどこにあるのか、見えない。
その瞬間。
甲冑武者の動きが、変わった。
今までの単調な斬撃ではない。
踏み込みと同時に、刃が連続して振るわれる。
一太刀、二太刀、三太刀。
重さを感じさせない、理不尽な速さだった。
七色は、双剣で受け流すが、衝撃が腕に響く。
「……!」
金属同士が擦れ合い、火花が散る。
足元の竹が、衝撃で折れた。
七色は後退しながら、距離を取る。
だが、武者は追撃を止めない。
間合いが、詰まる。
「御月さん!」
叫んだのは、彼方だった。
彼方は歯を食いしばり、木刀を強く握る。
逃げたい。
足はすくんでいる。
それでも、前に進んだ。
(ここで、何もしなかったら……!)
彼方は、武者の側面へ駆けた。
真正面からではない。
剣道で習った、打突の基本すら忘れた、無様な突進。
だが、武者の注意が、わずかに彼方へ向いた。
その刹那。
七色は、踏み込んだ。
右の剣で、武者の刃を弾き、左の剣で関節部を狙う。
肘の装甲に、確かな手応え。
金属が歪む。
だが、同時に、武者の兜が彼方を向いた。
骸骨の面の奥、空虚な眼窩が、彼方を射抜く。
(まずい……!)
七色が叫ぶより早く、武者の刃が振り下ろされた。
「朝川さんっ!」
彼方は、反射的に、木刀を構える。
受ける、いや、受けきれない。
衝撃が来る。
覚悟した瞬間。
甲冑武者の刃が、わずかに軌道を逸れた。
七色の剣が、横から打ち込まれていた。
完全には止められない。
だが、角度は変わった。
刃は彼方の肩をかすめ、地面に叩きつけられる。
土と竹葉が舞った。
「大丈夫ですか……!」
「……なんとか……!」
彼方は、息を荒くしながら答える。
腕が痺れている。
だが、まだ立てる。
武者は、再び構え直す。
その動きに、一瞬の遅れがあった。
七色は、それを見逃さない。
(今の……朝川さんに反応した)
七色の脳裏で、点と点が繋がる。
(なにか、人の意識に引きずられてる……)
完全な自律行動ではない。
近くの対象を、自動的に標的にしている。
(違う。これは……)
七色は、はっとした。
「朝川さん!」
「……え!」
「私が合図したら、思い切り、音を立ててください!」
「音……?」
説明する時間はない。
七色は、武者と正面から対峙する。
強く地面を踏みしめた。
武者が反応する。
刃が、七色へ向く。
「……今!」
彼方は、木刀を地面に叩きつけた。
乾いた音が、竹林に響く。
同時に、彼方は叫ぶ。
「こっちだ!」
無茶苦茶な挑発。
だが、効果はあった。
甲冑武者の動きが、完全に彼方へ向いた。
その背中が、無防備に晒される。
「……っ!」
七色は、全力で地を蹴った。
双剣が閃く。
狙いは、背中。
装甲の中心、脊椎にあたる部分。
剣が、深く食い込む。
だが、甲冑武者の身体が、異様に歪んだ。
内部から、黒い靄が噴き出す。
鎧が、軋む。
まるで、中身が逃げようとしているかのようにである。
「……捉えた!」
七色は、歯を食いしばる。
「朝川さん! もう一度です!」
(そうか……っ!)
この時、彼方は、理解した。
理解は、理屈ではなく、感覚として落ちてきた。
甲冑武者の動きが、彼方の木刀が地面を打った瞬間、ほんの僅かに速くなったこと。
七色が踏み鳴らした足音に、刃の向きが即座に修正されたこと。
そして、自分が叫んだ声に、あの骸骨の面が、迷いなくこちらを向いたこと。
(……音だ)
彼方の脳裏に、剣道場の記憶が閃いた。
面を打つ前、床を擦る足音。
相手の呼吸。
竹刀が風を切る、かすかな唸り。
上級者ほど、目ではなく、気配で相手を捉えていた。
視界の外にいても、打ち込まれる前に察知する。
音と、空気の揺れと、人がそこに、いる、という圧。
(この甲冑武者も……同じだ)
違うのは、人ではないということだ。
感情も、判断もない。
ただ、入力された刺激に、最短で反応するだけの型。
だからこそ、反応は異様なほど正確で、異様なほど速い。
七色が斬りかかるとき、必ず刃が合わされる。
彼方が不用意に動いた瞬間、間合いの外からでも、ぴたりと標的を変える。
(七色さんの剣裁きが、読まれてるんじゃない……)
彼方は、唇を噛みしめた。
(読んでるのは、剣、じゃない)
音。
気配。
存在を示す、すべての揺らぎ。
甲冑武者は、周囲の世界を、音で切り取っている。
だから七色の剣がいくら速くても、いくら正確でも、完全には捉えきれない。
斬撃の直前に生まれる、わずかな空気の震え。
踏み込みの足音。
衣擦れ。
それらすべてに、即座に反応している。
(……こちらの攻撃の意図が、見透かされてるんだ)
彼方は、息を呑んだ。
七色が背後から斬りつけた瞬間、甲冑武者の中身が逃げるように歪んだのも、偶然ではない。
あれは、背後に生まれた攻撃の音を、確かに捉えていた。
だから、完全に断ち切れなかった。
(だったら……)
彼方の胸に、恐怖と同時に、ひとつの確信が生まれる。
(音を、意図的に乱せばいい)
剣道では、無駄な音は命取りだと教わった。
足音を殺し、呼吸を整え、気配を消す。
でも、今の相手は逆だ。
静寂を前提にしている。
世界を、整然とした情報として捉えている。
(なら、それを壊せばいい)
彼方は、歯を食いしばりながら走った。
わざと、竹を踏み折る。
わざと、呼吸を荒くする。
わざと、木刀を振り回し、風を切らせる。
甲冑武者の動きが、明らかに乱れた。
刃が、どちらを向くべきか、一瞬、迷う。
音が多すぎる。
標的が、ひとつに定まらない。
(御月さん……!)
彼方は、七色の背中を見る。
双剣を構える、その姿。
無駄のない姿勢。
どこか、探っているようにも見える。
彼方は、息を吐いた。
この甲冑武者は、剣の技量で倒す相手ではない。
意図を悟らせない剣ではなく、意図を誤認させる剣が必要だ。
七色の剣は、正確すぎる。
だから、読まれる。
彼方は、木刀を地面に叩きつけた。
今度は、間を空けず、連続で、音を作り続ける。
乾いた音。
鈍い音。
竹に当たる音。
さらに、叫ぶ。
「今度は、後ろです!」
「わかった!」
言葉に意味はない。
方向も、関係ない。
関係しているのは、対峙している甲冑武者に、
「意識がそこにある」
と、誤認させることだ。
甲冑武者が、完全にこちらを向いた。
刃が、彼方を狙う。
だが、その動きは、先ほどより遅い。
こちらの攻撃の意図を、処理しきれていない。
意図的に作り出した意図が、甲冑武者の反応速度を乱す。
(……っ!)
彼方の中で、七色の意図が、はっきりと形を持った。
敵の感覚を読み、利用し、追い込む。
(御月さんは……この瞬間を、待っていたのか)
彼方は、全力で走り、さらに音を撒き散らす。
背後。
側面。
高低差。
存在を、あらゆる方向に散らす。
甲冑武者は、完全に混乱していた。
刃が空を切り、地面を叩き、竹を薙ぐ。
標的が、定まらない。
その中心で、七色の気配が、ふっと消えた。
(……そうか)
彼方は、息を呑んだ。
(音の外に出たんだ)
意図を持たない。
殺気を漏らさない。
ただ、斬る結果だけを置きに行く。
だからこそ、次の瞬間、七色は背後にいた。
双剣が交差し、光が走るのを見たとき、彼方は確信した。
甲冑武者は、もはや七色を捉えられない。
音に縛られ、意識に引きずられ、世界を誤認している。
彼方は、最後にもう一度、木刀を強く打ち鳴らした。
それは、七色への合図だった。
(ここだ)
七色の一閃が、黒い気配を断ち切る未来が、はっきりと見えた。
彼方は、震える手を握りしめながら、静かに息を吐いた。
(……僕は、囮でいい)
彼方は、そう理解した。
彼方は、走った。
音。
気配。
人の存在。
武者の動きが、完全に乱れる。
標的が、定まらない。
七色は、その隙を逃さない。
双剣を、柄尻まで深く握り直す。
そして。
刃を、交差させた。
双剣が、共鳴する。
月光のような光が、刃を走る。
「……さがってくださいっ!」
「ああっ!」
次の瞬間、七色の背に、淡い光が広がった。
桜色に透ける半透明の翼“透色の翼”だ。
空気を震わせることなく、翼は静かに形を成す。
だが、その出現と同時に、七色の気配が一段階、鋭く変わった。
彼方は、視界が追いつかない感覚を覚える。
七色が、消えた。
正確には、消えたように見えた。
次の瞬間には、甲冑武者の背後に回り込んでいる。
双剣が閃き、連続して斬撃が叩き込まれる。
装甲が歪み、関節部に亀裂が走る。
甲冑武者が振り向きざまに刃を振るうが、七色はすでにその射程外だ。
加速した動きは、常識を置き去りにしていた。
七色は、双剣の柄尻を合わせる。
機構が噛み合い、二振りの剣が一瞬で一本の長剣へと変形する。
連結剣。
その刃は先ほどよりも長く、しなやかさを帯びていた。
甲冑武者が、最後のように踏み込む。
真正面からの衝突。
七色は、逃げない。
翼を大きく打ち、加速したまま、正面から間合いに入る。
「このまま……っ!」
連結剣が円を描き、甲冑武者の刃を絡め取るように弾いた。
七色は、自身の身体を、瞬間、沈み込ませ、独楽のように、回転させた。
次の瞬間、七色は踏み込み、渾身の一閃を放つ。
「"ハウリングストライク"……っ!」
その回転による勢いのまま、七色は、真上に跳躍し、斬りあげの剣撃を、放った。
風が裂け、刃が遠吠えのように唸り、縦に走った斬撃は、光の狼が、駆け上るかのようだった。
刃は甲冑の胸元を深く断ち、内部に巣食っていた黒い気配を引き裂いた。
甲冑武者の動きが止まり、金属が悲鳴のような音を立てる。
黒い靄が噴き出し、空気に溶けるように消えていく。
七色は、剣を振り抜いたまま、静かに着地した。
透色の翼が、光の粒となって消える。
次の瞬間、甲冑武者は崩れ落ちた。
中身を失った鎧が地面に散らばり、ただの物体へと成り果てる。
竹林に、静寂が戻る。
彼方は、ようやく詰めていた息を吐き出した。
足が震えているのを自覚しながらも、視線は七色から離れなかった。
彼方は、呆然と立ち尽くしていた。
「……終わった、のか……?」
七色は、顔を上げ、小さく頷いた。
「……おそらくは、です」
竹林に、静寂が戻る。
折れた竹の音だけが、風に揺れていた。
彼方は、震える手で木刀を下ろし、深く息を吐いた。





