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第10話 蔵の声 2

 その日のすべての授業が終わり、放課後になる。


 チャイムの余韻が校舎の廊下に消えていく頃、教室には部活へ急ぐ生徒たちの声と、帰宅する者たちの気配が、入り混じっていた。


 机を引く音。


 笑い声。


 窓から差し込む西日のまぶしさ。


 そのどれもが、いつもと変わらない日常の一部であるはずだった。


「やあ」


「はい」


 彼方は、御月七色(みつきなないろ)と下駄箱で落ち合った。


 同級生の御月七色(みつきなないろ)は、高嶺(たかね)の花と呼ばれていた。


 綺麗に整った顔立ち。


 光を織り込んだような肩までの艶やかな髪。


 雪のように白い肌。


 三拍子どころか四拍子五拍子と揃っていた。


 まぎれもない美少女である。


 その言葉が指し示す通りのその容姿は、人形の端整さをも思わせた。


 また、人形が言葉を発することがないように、寡黙だった。


 表情を変えることも、少なかった。


 結果として、容姿端麗(ようしたんれい)のその少女、御月七色は、他人を寄せ付けない雰囲気を、自然とその身にまとっていた。


 七色は、同級生の少女であり、彼方が、普通の世界とそうでない世界の境目を知るきっかけになった存在だ。


「……」


「……」


 彼方と七色は、学園の喧騒から自然と距離を置くように、校門を抜けていた。


 彼方と七色は、再び、噂の竹林“戻らずの杜”に向かっていた。


 それは、偶然知ってしまった場所である。


 だが、今となっては、避けて通れない場所、そんな場所だった。


 町外れの住宅地を歩くにつれ、空気がひんやりと冷たく感じられる。


 つい先ほどまで感じていたやんわりとした空気が、少しずつ薄れていく。


 道沿いの家々はどれも人の気配があり、洗濯物が揺れ、夕食の匂いが漂っている。


 それなのに、進めば進むほど、周囲から色が抜け落ちていくような錯覚に陥る。


 桶野川市の郊外に位置するその竹林は、普段は静けさが支配する場所である。


 昼間であれば、散歩をする人や、近道として通り抜ける学生もいる。


 だが、夕方以降、この場所に足を踏み入れる者は少ない。


 理由を問われれば、誰もが曖昧に笑って答えるだけだった。


「なんとなく」


「気味が悪い」


「昔からそう言われている」


 そんな感じである。


 だが、今日の彼方たちにとっては一歩踏み入れるだけでも、どこか重苦しい予感が漂っていた。


 胸の奥に、鉛のような重さが、沈んでいく。


 理屈では説明できない感覚である。


 それが、皮膚の内側からじわじわと広がっていく。


 それを、彼方は、はっきりと自覚していた。


「……相変わらず、静かだな」


 彼方が、ぽつりと呟く。


 言葉にしたのは、沈黙に耐えきれなかったからかもしれない。


 自分の声が、ちゃんとこの世界というと大げさだが、少なくともこの竹林に、存在していることを確かめるためだった。


 そんなことをしたくなるくらいには、静かすぎる空気が漂っている。


 何もないはずの竹林に、足音ひとつ聞こえてこない。


 地面を踏みしめる自分たちの音さえ、どこか遠くで鳴っているように感じられる。


 音が吸い込まれていく感覚が、異様だった。


 風に揺れる竹の音もない。


 葉と葉が擦れる、乾いた音がしない。


 今日は、それさえも、静寂に包まれている。


 すべての気配が、意図的に消し去られているかのようだった。


 七色は、答えず、黙々と歩き続ける。


 その横顔は、影に沈み、表情を読み取ることができない。


 ただ、その背筋が張りつめていることだけは、彼方にもわかった。







 この前の時とは、うってかわっていた。


 空気が違う。


 温度ではない。


 湿度でもない。


 言葉にしづらい、だが確実に、嫌な感じが、竹林全体に、薄く塗り広げられている。


(……なんだ、これ)


 彼方は、無意識に息を浅くしていた。


 肺いっぱいに吸い込むのが、少し怖かった。


 この前、この竹林に入った時のことを思い出す。


 あの時は、まだ余裕があった。


 軽口を叩き、冗談を言い合い、妙に観光気分ですらあった。


(……よく、あんな態度でここに入ってこれたな)


 今となっては、自身が少し信じられない。


 前を歩く七色の後ろ姿が、微かに揺れていた。


 いや、揺れているというより、震えているようにも見える。


 竹林を吹き抜ける風は、ほとんど感じられない。


 それなのに、その背中だけが、小刻みに動いている。


 寒さのせいなのか。


 それとも、別の理由なのか。


 彼方には、判断がつかなかった。


(御月さん……)


 声をかけようとして、やめる。


 余計な刺激は、避けた方がいい。


 そんな気がした。


 気づかれないように、彼方はその背中を見つめる。


 七色は、こちらの視線に気づくことなく、まっすぐに竹林の奥へと向かっていた。


 その足取りには、迷いがない。


 その姿は、迷いがないようでいて、どこか覚悟を固めているようにも見えた。


 その時、


「……あ」


 七色が、急に立ち止まった。


「ど、どうしたの?」


 思わず、声が上擦る。


 自分でも驚くほど、間抜けな声だった。


 七色は振り返らず、ただ静かに前方を指差す。


「前、見てください」


 指差された先。


 竹と竹の隙間、足元の地面。


 そこに、何かが転がっている。


(え……)


 彼方は、反射的に身構えた。


 肩に力が入り、背筋が強張る。


「……まさかっ?」


 一瞬、最悪の想像が脳裏をよぎる。


 血の塊。


 骨。


 あるいは、


「……空き缶です」


「紛らわしい! って、またそれかいっ!」


 思わず、声を張り上げていた。


 静寂を切り裂く自分の声に、遅れて気まずさが襲ってくる。


 だが、それ以上に言わずにはいられなかった。


 前回訪れた時と、ほとんど同じ流れを繰り返している。


「また、それです」


 七色は、どこか真面目な顔で言った。


 それが、なおさら空回り感を加速させている。


「また……って」


 二人の足元に、空の缶が転がっている。


 ラベルには、はっきりと書かれていた。


 濃縮トマトジュース。


「この場所で、トマトジュースは、飲みたくありません。赤……連想されますので」


 淡々とした声で言われると、妙に説得力がある。


「まあ、御月さんが、言いたいことはわかる……」


 赤。


 血の色。


 この竹林で、それを連想するなという方が無理だ。


(……完全に、あてられているな)


 彼方は、無意識に拳を握りなおした。


 缶を蹴飛ばしたい衝動。


 それを、必死に抑える。


 再び、歩き始める。


 静かすぎる空気が、相変わらず漂っている。


 何もないはずの竹林なのに、足音ひとつ、まともに返ってこない。


 地面を踏みしめる自分たちの音さえ、どこか遠くで鳴っているように感じられる。


 音が、吸い込まれていく。


 そう表現するのが、一番しっくりきた。


 風に揺れる竹の音もない。


 葉と葉が擦れる、あの乾いた音がしない。


 今日は、それさえも静寂に包まれている。


 まるで、この場所そのものが、息を潜めているようだった。


 あるいは、こちらを、待っているかのように、


「……え」


 七色が、また立ち止まった。


(いや、ちょっと待って)


 嫌な予感が、背中を駆け上がる。


「ど、どうしたの?」


 また同じ台詞を言っている自分に、内心ツッコミを入れつつ、


「前、見てください」


 まったく同じ返答。


 指差された先。


 地面。


 そこに、何かが転がっている。


 彼方は、反射的に身構えた。


 もはや条件反射だった。


「……まさかっ?」


「……また空き缶です」


「紛らわしい! って、またそれっ!」


 ほぼ反射でツッコんでいた。


 自分でも驚くほど、ノータイムだった。


 前回訪れた時と、ほとんど同じ流れ、あるいは、先程と同じ流れである。


 いや、もはやデジャヴの域を超えている。


「また、それです」


 七色も、相変わらず謎のボケを繰り返す。


 二人の足元にあったのは、コーラの缶だった。


 赤いデザインが、やけに目につく。


「缶のデザインが、赤いです……」


「……御月さんが、言いたいことは、ほんとによくわかるよ」


 納得せざるを得ないのが、悔しい。


 再び歩き始める。


 静かすぎる空気。


 吸い込まれる音。


 揺れない竹。


 先程と、何ひとつ変わっていない。


 変わっていないからこそ、不気味だった。


 その時、


「……あ」


 七色が、三度目の立ち止まりだった。


(さすがに、これは……)


 流れが、見えていた。


 二度あることは三度あるともいう。


「ど、どうしたの?」


 言いながら、心の中で数を数える。


 一。


 二。


 三。


「前、見てください」


 視線を落とす。


 地面に、何かが転がっている。


 彼方は、もう身構えなかった。


「……また空き缶でしょ?」


 半ば投げやりに言う。


「……いえ、タバスコです」


「……って、なんでっ?」


 思考が一瞬、完全に停止した。


 二人の足元には、タバスコの瓶が転がっていた。


 しかも、若干中身が残っている。


(誰だよ、ここでタバスコ落としたの……)


 と、返事なし確定のツッコみを、心の中でしている。


「この場所で、タバスコは……赤……連想されますので」


「御月さんが、言いたいことはわかる」


 彼方は、半ば諦めたように頷いた。


 再び、歩く。


 相変わらず、静かすぎる空気。


 異様なほど、音を拒絶する竹林。


 だが、その沈黙の奥に、何かが潜んでいることを、二人とも無意識に感じ取っていた。


 先程までの、空き缶だのタバスコだのという妙な間抜けさが、少しずつ、確実に、影を潜めていく。


 何もないはずの竹林に、足音ひとつ聞こえてこない。


 地面を踏みしめる自分たちの音さえ、どこか遠くで鳴っているように感じられる。


 音が吸い込まれていく感覚が、異様だった。


 風に揺れる竹の音もない。


 葉と葉が擦れる、乾いた音がしない。


 今日は、それさえも静寂に包まれている。


 すべての気配が、意図的に消し去られているかのようだった。 







「……」


 竹林の端に差し掛かったところで、七色が、立ち止まる。


「御月さん?」


 急に止まったため、彼方は一瞬、距離を詰めすぎそうになり、慌てて足を止めた。


 霧のように漂う薄曇りの空から差し込む光が、竹の葉をすり抜けて地面に斑点を作っている。


 その光景は、美しいと感じるには、あまりにも冷たかった。


 光と影の境界が曖昧で、現実と異界の境目に立たされているような錯覚を覚える。


 その瞬間、背筋を走る一筋の冷たい風である。


 風は一方向からではなく、内側から吹き抜けたように感じられた。


 思わず、肩をすくめる。


 彼方は、その異常な空気を感じ取って、思わず足を止めた。


 理屈ではなく、本能が、警鐘を鳴らしていた。


 竹の奥から、金属の擦れる音が、徐々に聞こえてきた。


 最初は小さく、聞き間違いかと思うほどだった。


 それが、次第に、確かな音として耳に届いてくる。


「……音……」


 彼方の言葉が終わる前に、竹林の奥から、まるで鎧を鳴らすような甲高い音が響いてきた。


 金属同士がぶつかり合う、不快な響き。


 生身の人間が立てる音ではない。


 最初は風の音かと思ったが、それにしては規則的すぎる。


 耳をつんざく金属音。


 一定の間隔で、確実に近づいてくる気配があった。


 その音に引き寄せられるように、二人は、足を踏み出す。


 逃げるという選択肢が、最初から存在しないかのようだった。


 そして、目の前に現れたものを見て、彼方の心臓が一瞬止まった。


 赤い甲冑をまとった武者が、竹の間に立っている。


 光を受けて、朱色の鎧が鈍く光る。


 その姿は、生きている人間のものではなかった。


 その鎧は、古めかしく、朱色に染まった鋼鉄でできていた。


 長い年月を経たかのような傷と歪みが刻まれている。


 目に見える骨格に合わせて造られた骸骨の面が、まるで人間の死者のような印象を与える。


 空洞の眼窩の奥に、何かが宿っているように見えた。


 その武者は、動かずに竹の間に立ち、ただひたすらに彼方たちを見据えていた。


「……甲冑武者……」


 二度目の遭遇だった。


 予感は、あった。


 噂は、消えていない。


 ならば、この竹林に足を踏み入れるということは、どういうことか。


 そういうことだ。


 その予感は、そのようにはまった。


 そういう話だった。


 記憶が、一気に蘇る。


 初めてこの異形と対峙した時の恐怖と混乱。


 骸骨の面をしている。


 同じ面だ。


 しかし、同時に、違和感を覚える。


(甲冑が……?)


 甲冑が、違う。


 同じ朱色である。


 しかし、その形状が、若干異なっている。


 細部が、違う。


 装飾の位置も、異なる。


(別の種類の甲冑……?)


 それと、先日とは大きく状況が異なっている点がある。


 それは、千弦がその場にいない、ということだ。


 七色が、


「……来ます」


 と、小さく言った。


 甲冑武者が、足を踏み出す。


 竹が激しく揺れる。


 周囲の空気が、一瞬で変わった。

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