第10話 蔵の声 1
桶野川市は、中規模の都市である。
人口十五万人。
新興住宅街を擁する市街地と、そのまわりを囲うように点在するのどかな田園風景とが、まだらに混在している。
春の風が吹くと、住宅地にまで田の土の匂いが運ばれ、夕暮れ時には農道のほうからカエルの声が聞こえてくる、そんなところだ。
都心から近いということもあり、市役所のある中心市街地は、オフィス街と商業施設もそれなりに活気づいている。
バスロータリーには人が絶えず行き交い、休日には、若い家族連れが、駅前のモールに吸い込まれていく。
桶野川市は、近年、ほどよい暮らしやすさ、を掲げたまちづくりを推し進めている。
市の中央を流れる桶野川沿いには、長く続く桜並木があり、春には、薄桃色のアーチが川に沿って伸びる。
川べりの遊歩道を歩く人々の姿は途切れず、花見の季節には屋台も出て、小さな祭りのようなにぎわいを見せる。
北部の桶野台には、新興住宅街が広がり、若い世帯の流入で活気を帯びている。
夕方になると、保育園帰りの親子が、手をつないで歩く様子が、目につく。
一方、郊外には、稲作や梨の栽培が盛んな田園が、まだ残っている。
夏には、青々とした稲が揺れ、秋になると黄金色に染まる風景が広がる。
特産の桶野梨は、有名である。
みずみずしく、甘みが強い梨として、近隣の町まで、名が通っている。
南部の工業団地では、中小企業が集まり、環境技術や精密機械産業の拠点として地域経済を支えている。
通勤時間帯になると、工業団地へ向かう車列が、ゆっくりと続く。
交通面では、鉄道で都心まで約四十分と利便性が高い。
駅前の再開発で、行政、商業、文化機能が集約している。
新市庁舎や図書館、カフェなどが入る複合施設は、市民の憩いの場となっており、放課後になると学生の姿も多い。
また、桶野川市立文化ホールでは、定期的に音楽会や演劇などが開かれ、市民文化の拠点として親しまれている。
そんな桶野川市では、奇妙な噂が囁かれ始めていた。
“戻らずの杜”。
桶野川市の郊外にある竹林である。
その竹林が、最近では、奇妙な話題で持ちきりだった。
夜、誰かがその竹林に近づくと、突然、どこからともなく甲高い金属音が、響いてくるという。
それは、まるで戦国時代の武者が鎧を鳴らしながら歩いているかのような、耳をつんざく音だったという。
その足音の主は、はたして甲冑武者であるという噂だ。
身にまとっているのは、朱色に染まった甲冑だという。
骸骨の面をかぶっているともいう。
幽霊なのか。
亡霊なのか。
「甲冑武者か……」
葉坂学園は、桶野川市の市街地の外れにある、閑静な住宅街の中に位置する学校である。
地域に根ざした教育を掲げ、学力と人間力の両立を重視している。
校舎は、桶野川駅から徒歩十分ほどの高台にある。
ガラス張りの校舎と整備された中庭が印象的で、晴れた日は、中庭の噴水が、光を弾いてきらめく。
昼休みの終わりを告げる予鈴まで、まだ少し時間があった。
教室の中は、弁当箱を片付ける音や、友人同士の他愛ない会話で、ほどよくざわついている。
自分の席で英語のノートを開いていた彼方は、ふと、窓の外に目をやった。
ガラス越しに見えるのは、校舎裏手の住宅街の向こうに連なる、わずかな緑だ。
(……あの先、だったかな)
そんなふうに、考えていた。
桶野川市郊外の竹林。
“戻らずの杜”。
朝川彼方は、その言葉を、頭の中で反芻した。
甲冑武者の噂は消えることなく、人々の間で囁かれ続けている。
彼方の通う葉坂学園も、例外ではなかった。
「なあ彼方」
突然、机を軽く叩く音とともに、級友の乃木新谷の声がした。
新谷は、長めの髪をオールバックふうにしている。
顔立ちは、いわゆるイケメンふうの美男子である。
ただし、軽薄そうな態度が外見のプラス要素をマイナスしてしまっている、そういうタイプでもある。
彼方と新谷とは十年来の付き合いで、言わば悪友である。
彼方と新谷とは、良くも悪くも、本音で言い合える仲である。
顔を上げると、新谷が、椅子を逆向きにしてまたがりながら、こちらを見ている。
「知ってるか?」
と、新谷が、言った。
唐突な問いかけだった。
もっとも、新谷は、いつもこのような調子である。
彼方としても、慣れっこだった。
「何を?」
彼方は、ノートから視線を戻さずに、答えた。
新谷は、思いきり不満そうに、
「相変わらずの淡白さだな」
と、言った。
「新谷と僕との仲だろう、今さらでしょ」
言いながら、彼方は、件の竹林のことを考えていた。
「……怪しいな」
「何が?」
「お前、今なにか考え事してただろ?」
新谷は、じっと彼方の顔を覗き込み、
「さては、御月さんのことか?」
と、聞いた。
「違う」
即答だった。
「違わないだろう。お前が、最近、御月さんと一緒にいるの、偶に見るぜ」
「偶に、でしょ」
彼方は、ノートから視線を戻さずに、答えた。
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、そういうことで」
「えー。じゃあ何だよ」
新谷が口を尖らせた、その時、
「乃木君、席の向きが逆よ」
立海凛架の声が、後ろから飛んできた。
振り返ると、クラス委員長である凛架は、腕を組んだまま、呆れたように立っている。
「休み時間とはいえ、次は授業なんだから」
と、凛架は、新谷に向かって、そう言った。
「はいはい、わかっていますって、委員長」
新谷は、形ばかり椅子を元に戻しながらも、すぐに体を彼方のほうへ傾けた。
凛架は、そんな新谷の態度に、はあと肩をすくめた。
新谷は、彼方と凛架に向かって、
「だからさ、例の噂の話だって」
と、言った。
「だから、例のって言われても、困るのよ」
と、凛架が、応じた。
「あれだよ、駅の向こうの竹林」
その言葉に、彼方の肩が、わずかに揺れた。
(……)
彼方は、黙っていた。
「竹林?」
凛架が、眉をひそめる。
「最近、下級生が騒いでるやつ?」
「そうそれ。“戻らずの杜”」
新谷は、面白そうに笑った。
「夜に行くと、戻ってこないって話」
「ちょっと、不謹慎じゃない?」
「いやいや、なんかの誰かの事件簿みたいで、面白そうじゃん」
「事件簿?」
「やはり、事件。事件がすべてを解決する」
「え? 解決するのは、警察とか探偵とかでしょ?」
「いいんだよ。勢いで言いたかっただけ」
「……意味がわからないわ」
呆れたように言いながらも、凛架は、否定しきれない様子で、顎に手を当てた。
「でも……金属音の話もあるわね」
「出た。そうそれ」
彼方は、思わずノートに視線を落とした。
会話に入るつもりはなかった。
正直、聞きたくもなかった。
「なあ、彼方」
突然、名前を呼ばれ、内心でとまどう。
「……何」
「お前、あの辺詳しかったよな?」
「詳しくない」
即答だった。
新谷は一瞬きょとんとしたが、すぐににやつく。
「即否定。怪しいな」
「乃木君、そういう決めつけはよくないわ」
凛架は、そう言いながらも、視線は彼方に向いていた。
「でも、朝川君。何か聞いたことない?」
彼方は、少しだけ間を置いた。
言わない。
それだけは、決めていた。
「……噂なら、誰でも知っていることしか」
自ずと、当たり障りのない答えかたになる。
「ほら、やっぱり何かあるじゃん」
「乃木君、静かに」
凛架が制し、彼方に向き直る。
「それで?」
彼方は、短く息を吐いた。
なにもしゃべらないというのも、かえって不自然である。
(……最低限だけだ)
と、彼方は、考えて、
「夜、近づくと音がするって話」
と、言った。
「音?」
「金属が擦れるみたいな」
新谷の表情が、さっと変わる。
「それ、鎧ってやつだろ」
「らしいね」
「赤い甲冑で、骸骨の面……ってやつね」
凛架の声は、低かった。
「実際、聞いたって人が複数いるらしいわ」
「うわ……」
新谷は、腕をさすった。
「なあ、それガチでやばくない?」
「落ち着いて。噂よ」
凛架はそう言いつつも、言葉を選んでいた。
「ただ、夜に近づいた人が、家に戻った形跡がない、って話もある」
「それ、事件じゃん!」
教室のざわめきに紛れて、新谷の声が少し大きくなる。
「警察は?」
「調べてはいるみたい。でも、それも、噂の話だけど」
「……胡散臭いな」
新谷は、唸る。
「誰かの悪戯だろ?」
「そうだといいけれど」
凛架は、窓の外を一瞥した。
「でも、その竹林、昔から曰くがあるのよ」
「やめろって」
新谷は、即座に反応した。
「どうせなんか物騒なやつだろ」
「あくまで可能性の話よ」
「可能性が一番怖いんだよ!」
凛架は、小首を傾げつつ、
「戦国時代に、落ち武者が逃げ込んだとか?」
「うわ、やめろって」
新谷は、腕をさすった。
「そういうの、ガチで苦手なんだよ」
「乃木君、さっきまであんなに元気だったのに?」
凛架が、皮肉っぽく言って、
「意外と怖がり?」
と、にやっとした。
「いいんだよ!」
と、新谷は、開き直ったように、そう言った。
「誰だって、苦手分野はあるだろ?」
「乃木君の場合、体育以外の教科は全部苦手分野でしょ?」
「う……」
「そっかー。お化けとか苦手なんだー」
「『いい話聞いちゃったー』みたいな言いかたは、やめろっ」
「いい話聞いちゃったー」
「実際言ってるし!」
新谷は、くっとうめきながら、
「とにかく、お化けとか幽霊とかそういうのは、得意じゃない!」
「おおー。開き直った」
「悪いか?」
「別に。可愛いと思っただけ」
「……く」
「でも、幽霊と決まったわけじゃないわ」
凛架は、そんなふうに言った。
「むしろ、幽霊みたいに実体がないならどうしようもないけれでも、誰かのいたずらで実体があるなら、対処のしようもあるかも」
すらっとそう言い放つ。
「実力行使、とか?」
新谷いわく、立海凛架は空手の有段者である。
新谷は、これも当人談ではあるが、彼女と死闘を繰広げたことがあるらしい。
もっとも、その武勇伝を語った時の新谷は、震え声だった。
そういう経緯があるせいか、ぼやきつつも、新谷は、委員長には頭があがらない様子だった。
新谷は今でこそ落ち着いているが、かつて悪かった時期がありめっぽう喧嘩が強いことは、彼方も知っていた。
その新谷が、敵わないという様子なのだ。
だから、凛架の力は相当なのだろう。
「……委員長、それ、怖い発言だからな?」
新谷は、引きつった笑みを浮かべた。
彼方は、二人の様子を見ながら、静かに思った。
(やっぱりもう一度、確かめるしかない、か)





