第10話 願望の行方 3
「……ちょっと、あんた、少し変じゃない? この前会った時と雰囲気が違う」
宵が言うと、小鳩は肩をすくめて失笑した。
「石上さん。あなたに、会ったのは、あの時の一回きりだ。一回しか会っていないあなたに、俺の何がわかると、言うんですかね」
宵も、肩をすくめて、
「そんなのは、お互いさまじゃない。あんたも、私のこと、たいしてわかっていないでしょ? もっとも、皮肉屋なのは、この前会った時と全然変わっていないみたいだけど」
と、言い返した。
宵は、心中、ため息をついた。
(……心配して、損した)
と、宵は、思った。
宵は、学生鞄の中から、黒い手帳を取り出した。
何の変哲もない普通の手帳である。
(早くこいつにこれを返しちゃおう)
少し事情が特殊なのは、その手帳が宵自身のものではなく、小鳩の落とし物だということである。
「その手帳は……」
なぜか小鳩は、疎ましそうに手帳を見すえた。
「中身は、見ていないよ。そのぐらいの配慮はできているから、心配しないで」
と、宵は、言った。
「そうですか」
小鳩の返事は、素っ気なかった。
「あんた、あの時、これを落としたでしょう?」
「なるほど。あの時、あの場所で、落としていたんですね。でも、俺には、もう必要ないものなんです」
と、小鳩が、言った。
「はあ?」
小鳩の身勝手な言い分に、宵は、少しイラっときていた。
「ちょっと。何を、言ってんの。私だって、あんたの手帳なんて興味ないから。要らないなら、自分で処分して」
小鳩は、手帳を頑なに受け取ろうとはしなかった。
「そいつに触れると、頭がおかしくなるんです」
と、小鳩は、言った。
「はあ?」
路地裏の汚れた壁に背中を預けたままの、小鳩は、
「家出してから、何にも、お腹に入れちゃいないんです。お金は、あり過ぎるほど、持っているんですよ」
と、言った。
その言葉通り、物憂げな動作で見せられた小鳩の財布には、札がぎっしりと入っていた。
「……」
無言の宵に対して、小鳩は、にやっとして、
「学生にしては、お金持ちでしょう?」
と、言った。
「持ち過ぎだと、思うけど」
と、宵は、率直な感想を、言った。
小鳩は、肩をすくめて、
「秋口さんの言う通りだ。分不相応だ。あぶく銭なんです。アルバイトをしましてね、そのお金なんです」
と、言った。
「アルバイトって、そんなに稼ぐほど、長い間、やってたの?」
「違いますよ。一週間分です」
と、小鳩が、言った。
宵は、驚いて、
「そんなバイト、あるわけないでしょ」
と、言った。
「それが、あるんですよ。世の中、よくわかりませんね」
小鳩が、宵に、財布の中身を近付けて見せた。
札は何十枚かあり、その全てが万札なのが妙であったのと同時に、重ねて宵を驚かせた。
それから、小鳩は、話を続けた。
「ホテルや旅館を、渡り歩きましたが、ホテルのチェックインのシステムは、素晴らしいですよね」
と、小鳩は、言って、
「何しろ、名前を書かなくては、部屋にも入れやしないんですからね。わかりますか? 本人確認が、必要なんですよ」
と、続けた。
「当たり前のことじゃん」
宵は、ため息をついた。
「それが、重要なんです。他の誰でもない、俺が泊まるには、俺の本人確認が、必要なんです」
と、小鳩は、言った。
「あんた、さっきから、何を、言ってるの……」
宵の言葉を、遮って、小鳩は、
「それと、電話というのは気味が悪くて、始末に負えないとは、思いませんか?」
と、言った。
「はぁ?」
と、宵は、呆れた声を、あげた。
「相手がたが本当に、自分が想定している人物かどうかなんて、確かめようがないですからね。何にも増して駄目なのは、自身をが相手に認識してもらう方法が、声と名前だけに限られていることです」
と、小鳩は、熱をこめて、言った。
(個性も、度が過ぎると、単なるマイペースになる、典型だな)
と、宵は、思った。
酷く、一方的な会話が、続いていた。
(しかも、意味不明)
まさに、火を見るよりも、明らかだった。
小鳩は、どうやら、少しばかり、心に異常をきたしているように、宵には、感じられた。
宵は、正直に言って、これ以上、関わり合いに、なりたくなかった。
それでも、宵は、小鳩を、そのまま放っておくわけにはいかなかった。
細かいいきさつは、わからないが、一目で、小鳩の身体が、かなり衰弱しているのが、わかったからである。
そうだとすれば、小鳩のこの奇妙な言動も、説明がつくような気がした。
(何で、関わっちゃったんだか)
と、宵は、思って、小鳩を、見た。
(……なるようにしか、ならない、か……)
と、宵は、自身に、言いきかせた。
(さすがに、病人を、置き去りにはできない)
宵から見て、小鳩は、聞き手の様子を窺いながら話を進めることには、さっぱり興味がないらしかった。
「審査不要というATMも、気に入らないですね」
と、小鳩は、喚いた。
「利息を払うのなら、金を上乗せして献上するのなら、誰でも良いって、言うのか!」
小鳩は、拳を振るって、熱弁して、
「奴らには、ポリシーとかドグマという観念は、通用しない。そういうのを、埋没主義っていうんだ」
と、続けた。
小鳩の調子に、宵は、辟易した。
「秋口さん。身元不明の犠牲者への対応は、いつでも、後手に回るんですよ」
思考回路の、沈黙もしくは沈没を、宵は、味わっていた。
宵は、押し黙るしかなかった。
脈略のあまりになさ過ぎる、一方的な会話である。
そして、全ての話の意図が、少しも、読み取れない。
(でも)
と、宵は、そう思いつつも、同時に、小鳩の目に、知性の光を、見出していた。
それは、宵にとって、歓迎し難いパラドックスだった。
宵は、何だか妙な気分に、毒されつつあった。
「真理というものは、やっぱり、近くにあるものなのかもしれませんねえ」
と、小鳩が、言った。
一通りの暴言を吐き出し終えた感じの、小鳩は、息も切れ切れに、言った。
その表情は先程よりも青ざめていて、やはり、身体が、弱っているに違いなかった。
「死ぬっていうのはやっぱり、どうしても怖い。人は、必ず、何時か、死ななければならない」
と、小鳩は、先程のまでの調子とは違う声で、淡々と言った。
「……え?」
「そんなことは、みんな誰もが承知していること。ある種、自明の理です」
と、小鳩は、小さく笑って、
「けれども、わかっていても、その理屈で、そう捉えていても、やっぱり、恐いものは、恐い。死との邂逅の恐怖。人である以上は、いや人であるが故の、絶対の不可避的な命題です」
と、言った。
「小鳩。あんた……」
小鳩は、寂しげに、静かに、笑いながら、
「無論、答えなんか、初めから、用意されてはいないんですけどね」
と、言った。
(あれっ)
と、宵は、思った。
小鳩の調子が、少し、変わったように、思えたのである。
「すみません。色々と、変なことを、言ってしまいました。自分でも変だなというのは、わかっているんです。なぜか、自分の名前と死について、考えなければならない気持ちに、時々、不意に、襲われるんです。脅迫観念と言ったら、良いんでしょうか。自分でも、良くわからないんです」
「……ごめん。小鳩の言ってる意味が、良くわからない」
「そう、でしょうね。俺のつまらない話に、付き合ってもらって、すみませんでした」
小鳩は、頭を下げた。
(この感じだ。皮肉屋だけど、素直な感じ。この前会った時の小鳩、かも)
と、宵は、思った。
「大体、小鳩。すごく調子悪そうだけど」
と、宵は、言った。
それが、宵の本心だった。
「少し、休もう。病院に、行く?急患とか、捜せば、あるだろうし」
「ビョウイン?」
余韻ある声の変化だった。
「病院!」
小鳩は、目を見開いて、
「病院!冗談じゃないっ」
と、叫んだ。
突然の、罵声にも通じる大声だった。
明確すぎる、非衝動的な拒絶反応だった。
予想外の小鳩の激昂に、宵は、驚いて、そして戸惑って、二三歩後ずさった。
「俺は、せっかく、真理を掴みかけているんです。それを、邪魔するって言うんですか?」
と、小鳩が、言った。
「……小鳩。ちょっと……」
小鳩は、両手を大きく広げて、
「どうあっても、阻止しようというんですか。そんなことは、させませんよ!」
と、強い調子で、言った。
「病院は駄目だ、絶対に駄目だ。嫌だ、病院は要らない、聞きたくない!」
疑いようのない、病院という一単語に対する、異常なまでの拒否反応だった。
「病院なんて、必要あるわけないじゃないですか。ねえそうでしょう! 石上さん。しつこいようですが、俺には、今すごく近いところに、真理があるのが、わかるんです、そう感じるんだ。素晴らしい、この真理なるものとの親近感! 真理とは答えで、答えとは悠久なのです!」




