第10話 願望の行方 1
雲があまり出ていない、月が綺麗な夜である。
石上宵は、まっすぐ家に帰るつもりはなかった。
「マンションに帰っても、母さん、どーせまだ帰ってきていないだろうし……」
宵は、誰にというわけでもなく、言った。
夜風に、宵の少しウェーブのかかった綺麗な髪と小ぶりなピアスが、さらさらと揺れた。
極端に短めのスカートには、風が入り込むものだから、太ももが冷たかった。
「……寒いな。そろそろストッキング履こうかな……でも、すぐ伝線するし面倒だし……」
ぼやきながら、宵は、歩いた。
宵は学生である。
桶野川市にある三条学園に、通っている。
三条学園は、レベルの測定基準の一つである偏差値で言えば、市内では中堅どころであるし、進学率も就職率も決して悪くない。
可もなく不可もなくというのがネットでの評価で、それも間違いではないと、宵は、考えていた。
ただし、三条学園が中堅どころというのは、あくまで学園全体の話で、個々の話となると別である。
全国模試で高順位を取る学生もいれば、スポーツ万能の学生だっているし、それらの逆も然りだ。
宵は、大まかなカテゴライズで言えば、素行不良であり、問題児だった。
出席日数は留年しない程度にぎりぎりであり、定期テストの成績も赤点すれすれである。
しかし、それを、悪いことであるとか引け目に感じることは、宵はなかった。
(なるようにしかならない)
それが、宵の口癖だった。
宵の両親は、すでに離婚している。
離婚の原因は、性格の不一致だと母親は教えてくれたが、直接の原因は、父親の女性関係である。
それを宵は知っていたが、あえて口にすることもなかった。
すでに終わっていることで、今更どうこう言ったところで、何かが変わるとは思えないからだ。
達観と言ってしまえばそれまでだが、宵はそれで納得していた。
今は、母親と宵の二人暮らしである。
(マンションに帰ったところで、誰も、いないし……)
と、宵は、思った。
宵の母親は仕事が忙しくて、毎晩帰りが遅く、夕食も別々である。
夕食を作るのは、宵と母親の二人の当番制である。
今日は、母親が当番の日だったが、昼頃に今晩はどこかで夕食をとるようにとの連絡があった。
こういうことは、珍しくなかった。
「夜ご飯、どうしよっかな」
と、宵は、夜の街を歩きながら、独り言ちた。
平日の夜の樋野川駅前は、人で溢れていた。
仕事帰りのサラリーマンが、多い。
桶野川駅の改札は、北口と南口の二箇所である。
駅前ロータリーは、二層構造になっている。
下の層は、タクシー乗り場とバスの停留所があり、上の層が、デパートなどの商業施設やオフィス街に、繋がっている。
宵は、星空を見上げながら、ゆっくりと、歩きながら、
(気分的にはパスタかな。それとも、お蕎麦か。とにかく、麺類の気分)
と、漠然と思った。
夕食は、宵自身で、簡単なものを作ることもあるし、コンビニエンスストアの弁当で済ませることもあった。
ようは、その時の気分次第だった。
夜の街は、まだ明るかった。
「……もう、こんな時間、か」
何となく、家に帰る気も起こらなくて、ウィンドウショッピングやら何やらで、気付いてみれば、十時近かった。
(いつものこと、だよね)
と、宵は、思った。
そういうふうに自分に言い聞かせて納得させるのが、宵は、たまらなく嫌いだった。
「……だっる」
宵は、いたたまれない気持ちになりながら、夜の街を歩いた。
宵が、ふと目をやると、黒ずんで錆びついた看板が、道の端にうち捨てられていた。
濃い赤色の献血の文字が書かれている看板に気を取られていて、宵は誰かの肩とぶつかった。
宵の視界に、サラリーマンふうの中年達の姿が入ってきた。
それと同時に、彼らを取り囲む隠微な酒の臭気が、鼻についた。
どうやら、酔っぱらいのようである。
(……かっこわる)
と、宵は、思った。
宵が、黙ったまま通り過ぎようとすると、
「馬鹿野郎!」
と、中年の一人が、いきなり怒鳴った。
「気を付けろってんだ!」
と、男性は、叫んだ。
「酒くさ……」
と、宵は、顔を歪めた。
「何だ、その顔はぁ? ぶつかってきたんだから、謝れよ」
と、男性が、言ったので、宵は頭を下げて、
「すみませんでした」
と、言って、再び歩き出した。
宵の口から出た、謝罪の言葉には、何の感情も込められていなかった。
事実、宵自身、面倒ごとを避けたいから、形式上謝っただけだった。
「おい、ちょっと待て!」
と、言った男性に、宵は肩をつかまれた。
「何で? 謝ったんだから、良いじゃん」
と、宵が、言った。
「謝って済むなら、警察なんかいらないだろうが」
宵は、男性の手を振り払って、
「そっちが謝れって言うから、謝ったんだよ。何か問題あるの?」
と、言った。
「そうだ。そういう態度が、問題あるんだよ。最近の若いやつは、年長者に対する礼儀というものを知らないから困るんだ」
と、もう一人のサラリーマンが、息まいた。
「成績不振のカドで地方に飛ばしてやっても良いんだぞ? ええ、おい!」
息のあがっている、最年長らしい人物を支えている二人組が、愛想笑いを飛ばした。
「左遷ですかねえ! うまい!」
「さすが部長! 一本とられましたなあ!」
取りつくろうように、部長と呼ばれた人物を持ち上げる声があがった。
(……ばかみたい)
と、宵は、思った。
宵は、中年たちのやり取りにそれ以外の感想が、思いつかなかった。
(あからさまに、酔っ払いじゃん。それに、あからさまに、へつらっちゃって)
宵の脳裏に、父親のご機嫌取りに腐心している頃の母親の姿が、よぎった。
(……くだらない)
さしづめ、上司と部下とか何か、その類だろう。
ふと、その時、
(あれっ)
と、宵は、思った。
宵の視界に、知っている人物の影が、よぎったのである。
それは、手帳を預かったままである、手帳の持ち主の小鳩小太郎だった。
(見間違え……じゃない!)
と、宵は、確信した。
頼りない足取りの小鳩の姿は、雑踏の波に、消えかけた。
(あいつ。こんなところにいたの。それに、こんな時間に……)
と、思った宵は、勢いよくお辞儀をした。
「ごめんなさい」
自身でも感心するほどの素早さで、サラリーマン達に対して、燻る苛立ちを鎮火した宵は、謝った。
「今日は残業があるので、失礼します」
改めて、もう一度頭を下げて、宵は、その場を立ち去った。
「おい! 話は、まだ、済んでいないぞ」
「まあまあ。部長、ああして、謝っているわけですから……」
「残業と言っていますし、勤勉な若人ということで、おおめにみてやりましょう!」
「いいや! だから、お前らは駄目なんだよ。若いからって、甘やかすとだな。おい、こら!」
宵は、自然と走っていた。
後方から届いてくる罵声は、直ぐに遠退いた。
「……ばーか」
宵は、呆れたようにそう言って、呼吸を整えながら走った。




