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第9話 竹林の亡霊 9

 一週間後も、"戻らずの杜"の甲冑武者の噂は、消えていなかった。


 桶野川市の外れにあるその竹林は、昼間はただ風に葉を鳴らすだけの、どこにでもある里山の一角にすぎない。


 それでも一度、夜の噂が立ってしまえば、人々の意識は容易にそこから離れなくなる。


 噂は人から人へ、尾ひれをつけながら広がり、いつしか事実と虚構の境界を曖昧にしていった。


 夜、誰かがその竹林に近づくと、突然、どこからともなく甲高い金属音が響いてくるという。


 それは静寂に満ちた夜気を切り裂くような、不調和な音だったと語られている。


 竹と竹が擦れる音でも、獣の気配でもない。


 耳に残るのは、冷たく硬質な、金属特有の反響。


 それは、まるで戦国時代の武者が鎧を鳴らしながら歩いているかのような、耳をつんざく音だったという。


 聞いた者は皆、同じような表現を用いた。


 規則的で、重く、しかし人の歩調とは微妙にずれた、不自然な足運び。


 音だけが先行し、姿を捉える前に恐怖が膨らむ。


 そんな甲冑武者が現れるという噂だ。


 身にまとっているのは、朱色に染まった甲冑。


 夜目にも鮮やかに浮かび上がるその色は、暗闇に紛れることを拒むかのようで、かえって異様さを際立たせていた。


 赤ではなく朱色、血や炎を連想させる色合いが、見る者の想像力を刺激する。


 骸骨の面をかぶっている。


 人の顔を模したものではなく、死そのものを象徴するような面。


 虚ろな眼窩と歯を剥いた口元は、生者と死者の境界を踏み越えた存在を思わせた。


 幽霊なのか。


 亡霊なのか。


 そういう噂である。


(……)


 噂話としては、あまりに出来すぎている。


 それでも、人々は口にしながらも、完全には笑い飛ばせずにいた。


 昼休み、渡り廊下近くのベンチで、彼方はスマートフォンを眺めながらため息をつく。


 校舎の外では、光が眩しく、グラウンドからは運動部の掛け声がかすかに届いてくる。


 そんな日常の只中にありながら、彼方の意識は、画面の中に縫い止められていた。


 画面には、SNSに断片的に流れる目撃情報が並んでいた。


 日時も場所も曖昧で、信憑性に欠けるものばかりだ。


 それでも、共通して語られる朱色の甲冑と金属音が、彼方の胸をざわつかせる。


「……やっぱり、まだ消えていないな」


 無意識にこぼれた言葉は、独り言のようでいて、隣にいる存在に向けられていた。


「そうですね」


 静かな相槌だった。


 七色は、ちょこんと姿勢正しく座りながら、彼方のスマートフォンにちらりと視線をやる。


 その表情は平静を装っているが、どこか思案の色を帯びている。


 彼方は、ベンチの端を軽くとんとんと叩きながら考え込む。


 指先に伝わる木の感触が、現実へと意識を引き戻す。


 それでも、頭の中では、あの竹林の闇が広がっていた。


「まだ、あの竹林でなにかが……」


 言葉を最後まで続ける前に、声が近づいてくる。


 鹿倉結が、いつもの気さくな笑みを浮かべながら話に加わった。


 明るく、屈託のないその雰囲気は、その場の空気を少しだけ軽くする。


「あ、それ、この前の骸骨面の甲冑武者のやつでしょ?」


「あ、うん」


 と、彼方が、頷く。


「うーん」


 眉根を潜めた結の視線は、ただの噂話として片付けていないことを示していた。


「でも、あの竹林で見たっていう目撃者の話、本当に信じていいのかなあ」


 軽い調子とは裏腹に、言葉選びは、慎重だった。


 空を見上げた結は、


「まあ、夜の竹林ってだけでも、人の想像力が働いちゃうよね」


 と、言って、


「でも鎧や面の話なら、少し納得かな」


 彼方は、その言葉に眉を上げる。


「どういうこと?」


 問いかける声には、無意識の緊張が滲んでいた。


「ほら、この前、言ったでしょ。鎧は朱色って噂じゃん」


「そうだね」


 彼方は頷く。


 噂の中でも、その点だけは、妙に具体的だった。


「朱色は派手だから、大名クラスとか、目立ちたがりの旗本が戦場で使ったことが多いよ。あとは識別用ね……って、このへんの話は、この前話したっけ」


 結は、手を唇の下あたりに当てて、考えるふうにした。


「まあとにかく、夜の竹林で見るには普通じゃない色だよ」


「それは……そうですね」


「それって、逆に考えるとさ、わざと派手にしてるんじゃないかあって、そう思うんだよね」


「どういうこと?」


「だから、夜の藪の中だったら、黒とか藍とか、そういう色のほうが全然目立たないじゃん」


 結は、自身の考えをまとめるように続けて、


「そうすると、目立っていいってことじゃないの。むしろ目立ちたい」


「目立ちたい……」


「そ。目立ちたがりの武者」


 結の説明は、実家が骨董を扱っているからこその知識に裏打ちされていた。


 戦国の実物を、ガラス越しではなく日常の延長として見てきた者の言葉だった。


 結は、肩をすくめる。


「面も骸骨のようだと聞いています」


 と、七色が、言う。


 淡々とした声の裏に、彼女自身の記憶が重なっていることを、彼方は感じ取った。


 実際のところ、七色と彼方は、甲冑武者と戦闘した。


 噂ではなく、現実として。


 あの夜、竹林で対峙した存在は、確かにそこにいた。


 その時の光景が、脳裏をよぎる。


 闇に浮かぶ朱色。


 響く金属音。


 七色の振るう力。


 理解の及ばない歪み。


 千弦の圧倒的な太刀筋。


 しかし、それを結に話すわけにもいかなかった。


 知らない者を、これ以上巻き込むわけにはいかない。


「だから、それもとも、繋がってくるんだよ。その面は、装飾面。威圧感を出すためのもので、戦うためのものじゃない。幽霊とか亡霊っぽく見えるのも、演出の一種ってことかな」


 結は、あくまで現実的な線で話をまとめる。


 彼方は、


「演出……」


 と、つぶやくように応じた。


 結は、にやっとして頷いた。


「誰かがいたずらで、そんなことをしてるんだよ、きっと」


「いたずら、ですか?」


 と、七色が、聞く。


「そう。いたずらだったら、みんなに怖がってもらわないとしょうがないじゃん。だから、目立つ色の甲冑着込んで怖い骸骨のお面かぶって、わざわざ人前に出てきてるんだよ」


 その態度は、過剰に恐れず、かといって軽視もしない。


 そんな結らしい距離感だった。


 そして、結の話は、筋が通っている。


 ありえそうな話だ。


 だが、彼方は、そうは思えない。


 現実に、件の甲冑武者と遭遇してしまっている。


 あれは、いたずらでもなんでもない。


 あの場にそうとたしかに存在していた。


「……」


 七色は、少し地面に目を落として、考えるようにしていた。

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