第9話 竹林の亡霊 8
冷泉寺千弦という人物は、学内で少し浮いた存在だった。
成績は常に上位。
学年順位表で、その名を探す必要はない。
探す前から、そこにあると分かっている。
授業態度は、教科書に載せられそうなほど模範的。
教師の質問に即答し、板書を漏らさず写し、無駄な私語は一切しない。
廊下ですれ違えば、後輩は自然と背筋を伸ばす。
挨拶の声は、意識せずとも一段階フォーマルになる。
無口。
冷静。
隙がない。
それが、彼方と七色がこれまでに集めた、冷泉寺千弦という人物像だった。
「……やっぱり、雰囲気ありますよね」
昼休み前、移動教室へ向かう途中、七色が、周囲に聞こえない程度の声で言った。
「あるねえ。『話しかけるなら覚悟しろ』って感じの」
彼方も同意する。
昨晩の出来事。
戦いの中で見せた、完璧すぎる判断力と冷静さ。
それを思い出すたびに、千弦という人間がますます分からなくなる。
(あの人、普段なに考えて生きてるんだ……)
そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。
「通路の中央で立ち止まるな」
背後から、低く抑えた声。
二人は、同時に振り向く。
そこにいたのは、冷泉寺千弦本人だった。
「す、すみません、冷泉寺先輩!」
彼方が、慌てて背筋を伸ばす。
七色も、反射的に姿勢を正した。
「通路だ。塞ぐな」
それだけ言って、千弦は、二人の横を通り過ぎようとする。
その瞬間。
彼方の視界に、異様な存在感が飛び込んできた。
千弦の腕に抱えられた、一冊の本。
いや、一冊というには、あまりにも分厚い。
辞書に近い厚み。
ハードカバー。
背表紙には、縦書きでぎっしりと文字が並んでいる。
『超上級日本語クロスワード語彙・熟語・多重テーマ集~この高みを超えてみせろ編』。
「……え?」
思わず、声が漏れた。
七色も気づいたらしく、目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってください……」
二人の視線が、本に釘付けになる。
「……?」
千弦は、数歩進んでから立ち止まり、振り返った。
「何だ」
「その……」
七色が、指を差す。
「その本、です」
千弦は、一瞬だけ視線を落とし、表紙を確認する。
「ああ」
極めて自然な反応だった。
「それがどうした」
「い、いや……」
彼方は、言葉を選びながら、続ける。
「それ、普通のクロスワードじゃ……ないですよね?」
沈黙。
千弦の眉が、ほんのわずかに動いた。
「よく分かったな」
「え?」
「これは一般向けではない」
千弦は、淡々と説明を始めた。
「日本語クロスワードの中でも、語彙難度・熟語密度・テーマ構造を極限まで高めた編集だ」
「単なる言葉遊びでは解けない。漢字の成り立ち、同音異義、慣用句、四字熟語……場合によっては、出題者の思考傾向まで読む必要がある」
「……」
二人は、完全に固まった。
「特にこの章」
千弦は、迷いなくページを開く。
「“多重テーマ交差型”は秀逸だ。タテは熟語、ヨコは慣用句。中央では、同じ漢字が意味を変えて交差する」
「……ちょっと待ってください」
彼方が、震える声で言う。
「それ、クロスワードってレベルじゃなくないですか」
「正統進化だ」
即答だった。
「限られたマス数で、読みと意味の両立を崩さず配置する。黒マスの置き方は、ほぼ設計図だ」
「冷泉寺先輩……」
七色が、そっと聞く。
「もしかして……クロスワード、好きなんですか?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、千弦の呼吸が止まった。
「……好き、という表現は適切ではない」
千弦が、目を細めて、
「日本語クロスワードは、知識量の誇示ではない。限られたヒントから、最も自然で、無理のない語を選び取る作業だ」
と、言った。
「例えば“こうしょう”が『交渉』『高尚』『鉱床』のどれか分からないとき、交差する一字で意味を確定させる……その瞬間に、美しさが生まれる」
「……」
七色が、黙っていた。
「それ、完全に上級者どころじゃないですよね?」
「この本は、作問者向けに近い」
千弦は、当然のように続ける。
「初級者が手を出せば、最初の五マスで止まるだろう」
「それを……昼休みに?」
「集中力維持の訓練になる」
「完全にガチ勢じゃないですか!」
彼方が、叫ぶ。
「ガチ勢というのは、いささか俗な言い回しだな」
「じゃあ、オタク、ですか?」
七色の切れ味のある指摘に、
「オタクではない」
と、即否定が返ってくる。
「送り仮名の揺れや常用外漢字の扱いを理解しているだけだ」
「……」
七色は、真顔のまま、
「冷泉寺先輩、ずっと完璧で怖い人だと思ってましたけど……」
「まさか、日本語クロスワード超上級者だとは思いませんでした」
千弦は、少しだけ視線を逸らす。
「無駄な趣味ではない」
「無駄どころか、戦い方と完全につながってますよね」
彼方が、言う。
「状況をマス目みたいに整理して、情報を拾って、一番矛盾のない答えを入れていく」
「……否定はしない」
千弦は、本を抱え直した。
その仕草は、驚くほど大切そうだった。
「……先輩」
七色が、柔らかい声で言う。
「なんか、すごく親近感わきました」
「なぜだ」
「言葉を考えるのが好きな人、なんだって分かったからです」
千弦は一瞬、言葉に詰まり、それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……理解されるとは思っていなかった」
千弦がそう言った、その直後だった。
「じゃあ」
と、まるで思い出したかのように、千弦は、本を少し持ち上げた。
「確認しよう」
嫌な予感しかしなかった。
「か、確認って……」
彼方が、一歩、後ずさる。
「理論と実践は別だ」
千弦は、淡々と続ける。
「日本語クロスワードを理解しているかどうかは、三文字熟語を見れば分かる」
「三文字……」
七色が、首を傾げる。
「四字熟語じゃなくて?」
「四字は逃げだ」
即答。
「三文字は、逃げ場がない」
「今、怖いこと言いましたよね?」
彼方が、訴えるように言う。
千弦は机を見つけると、迷いなく本を開き、一ページをぴたりと指で押さえた。
「ここだ」
二人が覗き込む。
そこには、クロスワードの中央に、異様なほどスカスカなマス配置があった。
「……白マス、多くないですか?」
七色が、言う。
「三文字熟語中心の盤面だ」
千弦は、冷静だった。
「一語一語が短い分、意味の精度が問われる」
「えっと……」
彼方が、ヒント欄を読む。
「ヨコ一。『判断が早いこと』……三文字」
「簡単じゃないですか!」
彼方が、ぱっと顔を明るくする。
「即断即決!」
「四字だ」
「……」
「三文字だ」
「……即断?」
「意味が足りない」
「判断が早い……俊敏?」
「それは人の動きだ」
七色が、慎重に口を挟む。
「迅速……?」
「二文字だ」
「……」
開始三十秒で、沈黙。
「……答えは?」
彼方が、弱々しく聞く。
「即決断」
「そんな言葉、日常で使いませんよ!」
「使わないから価値がある」
「価値観が修羅の国!」
七色が、次のヒントを見る。
「タテ三。『表向きは穏やかだが、内心は激しいこと』……三文字」
「……腹黒?」
「俗語だ」
「温厚?」
「逆だ」
「……え、なに……」
七色の思考が、明らかに迷子になる。
千弦は、助け舟を出さない。
「ヒントは“慣用”だ」
「慣用……?」
「慣用句の一部として使われる」
「……えっと……」
七色の声が、だんだん小さくなる。
「内剛柔」
「知らない!」
「“外柔内剛”の省略形だ」
「そんな省略、聞いたことないです!」
「三文字熟語では常識だ」
彼方は、机に手をついた。
「この世界、常識が違う……」
「次」
千弦は、容赦しない。
「ヨコ五。『物事をいい加減に済ませること』……三文字」
「適当?」
「意味が広すぎる」
「手抜き?」
「感情語だ」
「……雑務?」
「方向は近いが、違う」
七色が、眉をひそめる。
「“きちんとやらない”ってことですよね……?」
「そうだ。だが、“雑”ではなく“扱い”の問題だ」
「……処理?」
「二文字だ」
二人同時に、呻いた。
「……答えは?」
「杜扱為」
「読めません!」
「“杜撰に扱う行為”を指す三文字熟語だ」
「難易度がおかしいです!」
「三文字って、こんなに難しいんですか!?」
「短いからこそ、逃げが効かない」
千弦は、どこか満足そうだった。
「では、応用だ」
「まだ基礎だったんですか!?」
彼方が、叫ぶ。
「では、応用だ」
「まだ基礎だったんですか!?」
彼方が叫ぶ。
千弦はページをめくり、指をあるマスに置いた。
「次は、“意味関連交差型”だ」
「意味関連……?」
七色が、眉を寄せる。
「ヨコはある意味を持つ三文字熟語、タテはその類義や対義の三文字熟語。中央で文字が交差する」
「え、意味を考えながら三文字……!」
千弦は、淡々と続ける。
「ヨコ一。『手早く物事を処理すること』……三文字」
「……迅速?」
「惜しい。三文字だ」
彼方は、考え込む。
「処理早?」
「正解は速攻力だ」
「……そんな熟語、聞いたことないです!」
「使わないから価値がある」
七色は、次のマスに目を向ける。
「ヨコ三。『表向きは穏やかだが、内心は激しいこと』……三文字」
「……腹黒?」
「俗語だ」
「温厚?」
「逆だ」
「……え、何……」
千弦は、助け舟を出さない。
「ヒントは交差するタテだ」
「タテ……三文字で交差して……?」
「意味を絞るために、交差語を読む。慎重になれ」
二人は机の上の三文字熟語マスを見つめ、思考を巡らせる。
「……やっぱり、三文字って、逃げ場がないんですね」
「短いからこそ、精度が求められる」
千弦は、微かに満足そうだった。
彼方は、椅子に崩れ落ちた。
「僕たち……今、知的な拷問を受けてません?」
「訓練だ」
千弦は、きっぱりと言った。
「戦場でも、情報は断片的だ」
「戦場で三文字熟語出てきませんよ!」
「本質は同じだ」
七色は、息を吐いた。
「……でも」
「?」
「ちょっとだけ、分かってきました」
千弦の視線が、七色に向く。
「マスが少ない分、一文字誤ると全部崩れるんですね」
「その通りだ」
千弦は、わずかに頷いた。
「だから、慎重になる」
彼方も、ゆっくりと顔を上げる。
「……さっきから、答えが埋まったとき、ちょっと気持ちよくなってます」
「正常な反応だ」
「正常なんだ……」
こうして昼休みは、三文字熟語という名の地獄に完全に飲み込まれた。
チャイムが鳴ったとき、二人のノートは、マス目と消しゴムの跡で、びっしりだった。
「……先輩」
彼方が、かすれた声で言う。
「これ、抜け出せる日は来ますか?」
千弦は、本を閉じながら答えた。
「三文字を恐れなくなったときだ」
七色は、乾いた笑いを浮かべる。
「……先は長そうですね」
「安心しろ」
千弦は、静かに言った。
「次は、二文字だ」
「悪化してませんっ?」
悲鳴が、空き教室に響いた。
完璧で近寄りがたい先輩は、今日も変わらず冷静だったが、クロスワードの話をしているときだけは、ほんの少し、楽しそうだった。
そして彼方と七色は、まだ知らない。
この三文字熟語地獄が、序章に過ぎないということを。
廊下の窓から差し込む光が、分厚いクロスワード本の金文字を照らす。
完璧で近寄りがたい先輩の腕の中で、その本は今日も、静かに主張していた。
冷泉寺千弦は、日本語という迷宮に答えを埋めることそのものを愛する、筋金入りのクロスワードマニアである、と。





