第9話 竹林の亡霊 7
「状況を整理しよう」
千弦は、散乱した甲冑の破片の間を、ゆっくりと歩いていた。
足元で小さく金属が触れ合う音が鳴るたび、戦いが確かに現実のものだったことを思い知らされる。
冷たい金属の光が、低い位置にある冬の太陽をわずかに反射し、刃が振るわれた軌跡をなぞるように、不規則な影を地面に落としている。
(なんだったんだ……?)
彼方は、地面を見渡した。
刃痕の残る地面。
砕けた甲冑の縁。
歪んだ関節部。
肩を守る大袖。
腰から太ももを守る草摺。
膝から脛を守る臑当。
太もも全体を守る佩楯。
小札。
組紐。
それらは、激しい戦闘を雄弁に物語っていた。
それと同時に、どこか空虚な印象も漂わせていた。
竹林の間を通る風が、衣服や、落ちた葉を揺らす。
その音はかすかなざわめきとなって、三人の耳に届く。
風が吹くたび、場がわずかに動き、まるでこの場所そのものが、まだ戦いの呼吸を続けているかのようだった。
七色は双剣を軽く握り直し、自分の手元に視線を落とす。
指先がわずかに震えているのが、はっきりとわかった。
戦いは終わったはずなのに、身体はまだその事実を受け入れきれていない。
七色は、千弦の戦いが目に焼き付いていて、
(すごい……太刀筋だった)
力を抜こうとすればするほど、逆に指に余計な力がこもってしまう。
心臓の鼓動が、耳の奥で響いている。
呼吸は整えたつもりでも、胸の内側には、戦闘の緊張が、澱のように残っていた。
彼方もまた、地面に片手をつき、ゆっくりと呼吸を整えようとしていた。
肺に空気を送り込むたび、全身の筋肉がじくりと痛む。
疲労のせいだけではない。
戦闘中、限界まで張り詰めていた神経が、まだ緩んでいないのだ。
三人の間に、言葉のない時間が流れる。
静かで、しかし重い空気が、竹林の中に滞留していた。
「はい」
その沈黙を破るように、七色が、小さく返事をした。
声は控えめで、どこか確かめるようでもあった。
七色の視線は、足元に散乱する甲冑の破片と、風に揺れる竹林の奥へと向けられている。
敵の姿は、もうない。
それでも、目の前に広がる静寂が、かえって戦闘の痕跡を、際立たせていた。
「結論から言おう」
千弦は歩みを止め、二人のほうを振り返る。
その言葉には迷いがなく、揺るぎない確信が滲んでいた。
「あの武者は、空だ」
冷徹とも言える千弦の表情には、先ほどまでの戦いの熱は残っていない。
そこにあるのは、感情を削ぎ落とした理知だけだった。
「から……?」
彼方の声は、わずかに震えていた。
恐怖の名残が、まだ喉の奥に引っかかっている。
刃痕の残る地面。
砕けた甲冑の縁。
歪んだ関節部。
肩を守る大袖。
腰から太ももを守る草摺。
膝から脛を守る臑当。
太もも全体を守る佩楯。
小札。
組紐。
目の前の光景が現実なのか。
それとも、戦闘の衝撃が見せている幻影なのか。
どうにも、頭の中で整理が追いつかない。
「ああ、なにもない」
千弦はそう言いながら、屈み込み、指先で地面に散らばる甲冑の破片を軽くなぞった。
金属は冷たく、ずしりとした重みだけを返してくる。
そこには、人間の存在を示すものが何一つない。
血の温もりも、生命の気配も、魂の残滓すら感じられなかった。
ただ、作られた物としての質量だけが、そこにあった。
その感触を確かめるように、千弦は、わずかに唇を噛む。
「どうりで、なんの気配も感じなかったわけです……」
七色はゆっくりと息を吐き、目を大きく見開いた。
戦いの最中、あれほどの力を見せつけられながら、敵から発せられる生命の波動を一切感じなかったことを、今になって思い出す。
気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
あれは、生き物ではなかったのだろうか。
「からくり人形のようなものだな」
千弦の声は低く、静かだった。
「いや、この場合は……からくり武者、と言ったほうがいいか」
その口調は、事実を述べるだけで、余計な感情を挟まない。
「何者かに操られた存在だ」
彼方は、地面に散る破片を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
冷たい金属の感触、無音に近い動き、そして一瞬で繰り出される刃。
そのすべてが、人間の技量や意思ではなく、別の何かによって動かされていた。
そう考えると、言いようのない不安が、胸に広がる。
(……)
彼方は、その感覚を振り払うように首を小さく振った。
敵は、倒れている。
理屈では、理解しているはずだ。
それなのに、身体の奥がそれを拒んでいる。
視線を上げると、砕けた甲冑の向こうに、静まり返った竹林が広がっていた。
竹の幹はどれも細く、真っ直ぐに天へと伸びている。
だが、その整然とした姿が、かえって不気味だった。
どこまでも見通せそうで、どこまでも何かを隠していそうな、そんな矛盾した印象を受ける。
風が吹くたび、竹同士がかすかに擦れ合い、低い音を立てる。
その音に、彼方の肩がわずかに強張った。
敵の足音ではないとわかっていても、反射的に身構えてしまう。
「……」
七色もまた、無言で周囲を見回していた。
双剣の切っ先は下げられているが、完全に油断しているわけではない。
視線は、地面、竹林の奥、空と、一定の順序で巡っている。
戦闘中に染みついた警戒が、まだ解けていなかった。
千弦は、彼方と七色を見て、
「二人とも、緊張は解いていいぞ」
と、苦笑した。
「もう殺気は感じない、一切な」
千弦は二人より少し離れた場所に立ち、場全体を俯瞰するように目を細めていた。
倒すべき相手は消えた。
残されたのは、その結果だけだ。
しかし、その結果が示しているのは終わりではなく、不在だった。
敵の存在がない。
敵の意思がない。
意志がなかったという事実こそが、より大きな違和感を生んでいる。
誰かが、どこかで、この戦いを見ていたのではないか。
そう考えた瞬間、空気が一段、冷たくなったように感じられた。
彼方は、無意識のうちに、拳を握りしめる。
見えない敵、見えない存在。
先が定まらない恐怖が、じわじわと心を侵食していく。
「これで、終わりなのでしょうか?」
七色の声は、揺れていた。
言いながら、七色は、無意識のうちに双剣を握り直し、いつでも構えられるようにしている自身に気づいていた。
「わからない」
千弦は、わずかに眉をひそめ、空を見上げた。
冬の柔らかな光が、竹林の隙間から差し込み、揺れる影が地面に落ちては消える。
その光景は一見穏やかだが、どこか警告のようにも感じられた。
千弦は、目の端に、ほんの一瞬、空気の揺らぎを捉えた気がして、視線を戻す。
「ただ、言えるのは……」
千弦は、静かに言葉を区切る。
「あれを操っていた存在は、まだ健在だということだ」
その言葉は、竹林の空気を冷やすように、三人の間に沈んだ。
再び、三人の視線は散らばる甲冑の破片へと戻る。
そこに形ある敵は、いない。
後日。
千弦の言葉を裏づけるかのように、甲冑武者の噂は消えることなく、人々の間で囁かれ続けることになる。
それは、終わりではなかった。
ただ、幕が一度下りただけだった。





