第9話 手帳の走り書き 8
能登は、社内のパウダールームで、鏡を、見ていた。
「うぅぅ……麻知子ちゃん、目の下のクマが、酷いよ……」
『そうですか。大変ですね。おおかた、寝不足か何かではないのですか』
能登の耳に、小さな菱形の銀色のピアスを通じて、少女の声が、響いてきた。
骨伝導式の、ピアス型の、小型通信機である。
声の主は、麻知子である。
能登は、少しむっとした表情で、
「麻知子ちゃん。何か、冷たくない?」
『冷たいですよ』
と、麻知子の即座の返答が、あった。
『明日は、潜入捜査で出社だということがわかっているのに、録画していたドラマの一気視をしている方が、いたようですよ。もちろん、そのような人に対して、気の毒に思わなければならない要素は、ありませんよね、先輩?』
「……う。そ、それは、あれだよ、ドラマは、社内恋愛ものだったからね。会社の何たるかを知るのに、うん、研究するために視ていたんだもん……!」
と、能登は、上ずった声で、言った。
『まあ、良いですよ。確かに、目の下のクマ、まずいですよ。コンシーラーで、うまくごまかしましょう』
「え?そんなの、使ったことないよ」
『……どうして、そこまで、無頓着なのに、白くて綺麗な肌を保てているのだか、うらやまし……いえ、とにかく……』
麻知子の言葉が、終わらないうちに、女性が、能登の横に、並んだ。
木村という社員だったはずである。
木村は、
「籠原さん。頑張っているわね」
と、話しかけてきた。
「は、はい。ありがとうございます」
と、能登は、緊張しながら、答えた。
木村は、能登の顔を覗き込むようにして、ちょっと待って、と、言った。
「眼鏡、外していい?」
と、木村が、聞いた。
木村は、自身の化粧ポーチから取り出した、コンシーラーで、能登の目の下のクマを、うまく消した。
能登は、感嘆の声を、あげた。
「凄いです。綺麗に、消えちゃいました!ありがとうございます」
「どういたしまして」
と、木村は、言って、微笑んだ。
「職場には、慣れた?」
「実は、あんまり……じゃなくて、台本、欲しいなー」
「台本?」
木村が、小首を、傾げた。
「……い、いえ、何でもないんです!」
通信機越しに、ため息が、聞こえた。
『先輩方のアドバイスで、乗り切れています。まだ不慣れなところも、多いですが、頑張ります、です』
と、麻知子が、通信機越しに言った。
「えと……先輩方のアドバイスで乗っています。まだ、不慣れなところばかりですが、が、頑張ります」
と、能登が、言った。
『先輩。台詞が、微妙に、しかも致命的に、ずれていますよ』
麻知子の指摘に、能登の笑顔は、引きつった。
木村は、一瞬、面食らったような顔をしたが、
「そう。なら、良かった」
と、笑って、言った。
「鈴原編集長が、そろそろ、籠原さんに、お店の取材に行ってもらおうかな、って、言っていたわよ」
「そんな。私には、まだ、早いですよ」
能登が、両手を、左右に振った。
木村は、大丈夫よ、と、言って、
「もちろん、いきなり、あなた一人に、行ってきてもらうなんてことはないわ。多分、あたし辺りと、ペアで、行くことになると思うから、その時は、よろしくね」
「は、はい。入社前から、雑誌、良く見ていました。お店の紹介コーナーが、すごく好きなんです。読者の視点に立ちつつも、プロ目線も常に感じる文章っていうのか、うまく言えないんですけど、そのお店に行ってみようかな、って、そういう気分に、なるんです。渋谷のTというお店も、この前、雑誌を見て、行ってきたばかりなんです」
と、能登が、言った。
「あら、嬉しい。その記事を書いたの、あたしなんだ」
と、木村が、言った。
「そうなんですか」
と、能登は、驚いて、言った。
あなたと取材にいくのを楽しみにしているわ、と、木村が、言った。
『……台本などなくても、そこそこうまくできるじゃないですか』
と、麻知子は、言った。




