第9話 竹林の亡霊 3
白いリムジンのエンジン音が、低く一定の唸りを保ったまま続いていた。
停車してから、すでに一分ほどが経っている。
綺亜は、車窓の外を見つめたまま、身じろぎ一つしていなかった。
倉嶋綺亜は、美しい少女である。
腰までかかる柔らかなブロンドの髪である。
その髪は、陽光を受けるたびに金色の粒を散らしたように輝き、指先で触れれば、絹糸のように滑り落ちそうなほど、しなやかだった。
それは、西洋の赴きを感じさせた。
エメラルドグリーンの瞳である。
光の加減で、深い森の色にも、透き通る湖の色にも見えるその瞳は、幼いながらも、強い意志を宿していた。
端整な顔立ちの中でも、特に印象深い釣り目である。
それは、可憐さを思わせて、同時に、意志が強そうな印象である。
怯えているわけでも、強がっているわけでもない。
ただ、何かを探すように、いつも真っ直ぐに見つめる眼差しだった。
それらがハーフを思わせる、美少女である。
「……時田」
沈黙を破ったのは、綺亜のほうだった。
「はい、お嬢様」
「今、この街で流行っている噂……知ってる?」
時田は、すぐには答えなかった。
ルームミラー越しに、ほんの一瞬、綺亜の横顔を窺う。
「どの噂のことでございましょう」
「とぼけないで」
綺亜は、小さく鼻を鳴らした。
「朱色の甲冑を着た武者が出るっていう話よ。郊外の竹林……“戻らずの杜”」
その言葉に、時田の指先が、ハンドルの上でわずかに動いた。
「ご存じでしたか」
「ええ。思ったよりも、広まっているみたいね」
綺亜は、窓に映る自分の姿を、どこか他人事のように見つめながら続ける。
「甲高い金属音。骸骨の面。近づくほど合ってくる足音のテンポ。ずいぶん、手の込んだ噂じゃない?」
「噂というものは、往々にしてそういう性質を持ちます」
時田の声音は、いつもと変わらず、落ち着いていた。
「恐怖は、具体性を得ることで、共有されやすくなる、とも聞きます」
と、時田は、言って、
「人は、輪郭のあるもののほうが、怖がりやすいのです」
と、続けた。
「ふうん……」
綺亜は、興味なさそうに相槌を打つ。
「でも、ただの怪談にしては、少し妙だわ」
肩をすくめた綺亜は、
「“アカサビ様”なんて、ふざけた名前まで付いているし」
「存じております」
「やっぱり」
綺亜は、ため息をついた。
「ですが、名前が付く、というのは……」
「定着してきている証拠、でしょう?」
時田の言葉を遮って、綺亜が言った。
「はい。その通りでございます」
時田は、否定しなかった。
「呼び名を持つ怪異は、噂の域を越えやすい。人の記憶に、残りやすくなるからです」
「……まるで、専門家みたいな言い方ね」
「伊達に長く生きておりません」
綺亜は、ふっと口元を歪めた。
「ねえ、時田。正直に答えて」
車内の空気が、わずかに張り詰める。
「この噂……本当に、ただの噂なの?」
時田は、数秒、沈黙した。
即答しないこと自体が、ひとつの答えのようでもあった。
「……断定は、いたしかねます」
選ばれた言葉は、慎重そのものだった。
「ですが」
「だけど?」
「近年、この桶野川市周辺で、観測されている揺らぎの数は、増えております」
綺亜の眉が、わずかに動く。
「揺らぎ?」
「人の認識と、現実との齟齬。噂、誤認、集団心理……それらが重なった結果として生じる、境界の歪みです」
「……つまり?」
「この桶野川市という街が、平凡な街、何もない場所、ではなくなりつつある、ということです」
綺亜は、しばらく黙り込んだ。
指先で、スカートの裾を軽くつまむ。
「朱色の甲冑、か」
ぽつりと呟く。
「派手よね。隠れる気が、まるでない」
「朱色は、戦場では識別色でもありました」
時田は、淡々と説明する。
「そうなの?」
「味方に自分の位置を知らせるため、あるいは、敵の目を引くため。目立つこと自体が、役割だったのです」
「……目立つ?」
「はい」
時田は、静かに肯定した。
「もっとも、そのように前に出る者には、それ相応の責務が伴います」
その言葉に、綺亜の表情が、わずかに硬くなる。
「また、そういう話は……」
「旦那様のお言葉ではなく、私個人の見解でございます」
時田は、すぐに付け加えた。
「噂の甲冑武者がもし実在すると仮定した場合ですが、それは、なにかを成すべきべきためにそこにある存在、である可能性も、否定できません」
「……」
「あるいは、守るための存在か」
「守る?」
「竹林、あるいは、その奥にある何かを」
綺亜は、鼻で笑った。
「ずいぶん、都合のいい解釈ね。でも、そのせいで人が近づかなくなったら?」
「それもまた、結果の一つでしょう」
「……迷惑な話」
そう言いながらも、綺亜の声には、どこか引っかかりがあった。
「ねえ、時田」
「はい」
「骸骨の面が、見る人によって違って見えるって話……あれは?」
「人の心を映す、という考えかたがあります」
「心?」
「恐怖、不安、後悔。そうした感情が、像に投影される」
時田は、ルームミラー越しに、綺亜を見る。
「お嬢様は、どのような面をご覧になると、お思いですか?」
「……」
綺亜は、即答しなかった。
「興味ないわ」
きっぱりと言い切る。
「骸骨だろうが、笑い顔だろうが、泣き顔だろうが、どうでもいい。そんなものより……」
そこで、言葉が途切れた。
「……なんでしょう?」
「いいえ」
綺亜は、視線を外す。
「ただの噂話に、深入りする気はないって言いたかっただけ」
「左様でございますか」
時田は、それ以上踏み込まなかった。
再び、短い沈黙が落ちる。
「ねえ、時田。もし、その“アカサビ様”が、本当にいるとしたら……」
「はい」
「私が、この街に来たことと、関係あると思う?」
時田は、即答しなかった。
その代わり、慎重に言葉を選ぶ。
「偶然が重なることは、ございます」
「……答えになってない」
「意図的に結びつけることも、また危険です」
時田は、穏やかに続けた。
「お嬢様は、まだこの街に来られたばかり。噂に振り回される必要は、ございません」
「でも……」
綺亜は、唇を噛み、やがて、ふっと力を抜いた。
「……いいわ。どうせ、明日から嫌でも関わることになるんでしょうし」
「はい」
「学園も、街も、噂も……か」
綺亜は、背もたれに身を預け、目を閉じた。
自然に、顔を思い浮かべていた。
同じ学園の一人の男子生徒と一人の女子生徒である。
「だったら」
一拍。
「少しくらい、面白そうなほうが、ましだわ」
その言葉に、時田は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「では、リムジンを出します」
「ええ」
白いリムジンは、再び静かに走り出した。
「ときにお嬢様」
「なに?」
白いリムジンは、滑るように夜道を進んでいた。
街灯の光が、一定の間隔で車内を横切る。
「ときにお嬢様」
「なに?」
綺亜は、窓の外を見たまま答えた。
声は平静だったが、どこか余韻を引きずっている。
「先日のお出かけの件ですが」
「……ああ」
短く相槌を打ち、綺亜は一度だけ瞬きをする。
「聞きたいの?」
「差し支えなければ」
「報告義務?」
「世間話でございます」
少し間が空いた。
綺亜は、膝の上の紙袋を指先で軽く叩く。
「……大したことじゃないわ」
「承知しております」
「ストロベリー・スイーツ・ストリート」
綺亜は、正確な名称を口にする。
「イチゴ尽くしのイベント。甘い匂いで、頭がどうにかなりそうだったわ」
「相当な賑わいと聞いております」
「人も多かったし、並ぶ時間も長かった」
少し肩をすくめる。
綺亜は、夜景に目を移したまま、
「後は、街を歩いて、ゲームセンターに行って、少し寄り道して……電車で帰った。それだけ」
「はい」
「それで?」
「お嬢様が、どのように感じられたのかを」
綺亜は、ふっと鼻で笑った。
「相変わらず、聞き方が回りくどいわね」
「長年の癖でございます」
「……楽しかったわ」
即答だった。
「思ったよりも、ずっと」
「左様でございますか」
「学園の外で会うと、少し空気が違うのね」
「違う、と申しますと」
「肩書きとか、立場とか、そういうのが薄れる感じ」
時田は、相槌だけを打つ。
「七色は、ずっと遠慮がちだったけど」
「はい」
「それでも、楽しそうだった」
綺亜は、言葉を選ぶように一度止まる。
「……私が、引っ張り回してた気もするけど」
「お嬢様らしいかと」
「それ、褒めてる?」
「評価は控えさせていただきます」
小さく舌打ちしてから、綺亜は続けた。
「クレーンゲーム、初めてだったの」
「初体験、でございましたか」
「そう。意外と難しくて」
「結果は、いかがでしたか」
「取れたわ」
少しだけ、声が弾む。
「七色のおかげで」
「協力されたのですね」
「ええ。あの子、そういうの得意みたい」
ブロンドの髪が、わずかに揺れる。
「……思ったより、嬉しかった」
「何が、でございましょう」
「……誰かと一緒に、ああいうことをするのが」
時田は、あえて言葉を挟まない。
「街を歩いて、くだらないことで笑って」
「はい」
「寄り道して、時間を気にして」
「はい」
「……普通、でしょ」
「左様でございます」
「でも」
綺亜は、少しだけ眉を寄せる。
「その普通が、思ったより……」
「重みが、ございましたか」
「……近いわね」
認めるように、小さく頷く。
「電車では、二人とも寝ちゃって」
「お疲れだったのでしょう」
「そうね」
綺亜は、視線を落とす。
「七色が、寄りかかっていたのよ。彼方に」
「……」
「私も、気付いたら」
一拍。
「……同じことしてた」
車内に、エンジン音だけが残る。
「わざとでは、ございませんね」
「当たり前でしょ」
少しだけ、語気が強くなる。
「歩き通しだったし、座ったら一気に……」
「自然な反応かと」
「……でも」
綺亜は、指先を組み直す。
「目が覚めたとき、ちょっと……変だった」
「変、とは」
「距離感が」
短く、息を吐く。
「学園で見る彼方と、違って見えた」
「それは、場所の影響かもしれません」
「そうかも」
即座に否定はしなかった。
「でも、七色も同じで」
「はい」
「いつもより、近く感じた」
時田は、静かに聞き続ける。
「……私、ああいう状況、慣れてないのよ」
「存じております」
「変に意識する自分がいて」
綺亜は、自嘲気味に笑う。
「馬鹿みたいでしょ」
「感情とは、そのようなものかと」
「……そうね」
しばらく沈黙が落ちる。
「時田」
「はい」
「私、ちゃんと楽しんでいいのよね」
「何を、でございましょう」
「そういう時間」
綺亜は、正面を見据えたまま言う。
「誰かと笑って、遊んで」
「もちろんでございます」
「後で、余計な意味を考えなくても?」
「今は、必要ないかと」
時田は、淡々と答える。
「お嬢様が感じられた、楽しい、は」
「……」
「事実でございます」
綺亜は、少し驚いたように瞬きをした。
「断定するのね」
「お嬢様ご自身のお言葉ですので」
「……ふうん」
綺亜は、そのまま、
「じゃあ」
一拍。
「また、誘われたら、行くわ」
「承知いたしました」
「止めないの?」
「止める理由が、見当たりません」
綺亜は、小さく笑った。
「変な噂より、よっぽど健全ね」
「左様でございます」
リムジンは、静かに夜道を走り続ける。
窓の外で、街の灯りが、一定のリズムで流れていった。
「……ねえ、時田」
「はい」
「この街は」
一瞬、言葉を探してから、
「……相変わらず騒がしい。でも、それだけよ」
時田は、答えなかった。
ただ、ハンドルを握る手に、わずかに力を込めた。
白いリムジンは、変わらぬ速度で、夜の中へと進んでいった。





