第9話 竹林の亡霊 4
その日のすべての授業が終わり、放課後になった。
彼方と七色は、噂の竹林“戻らずの社”に向かっていた。
町外れの住宅地を歩くにつれ、空気がひんやりと冷たく感じられる。
桶野川市の郊外に位置するその竹林は、普段は静けさが支配する場所である。
だが、今日の彼方たちにとっては一歩踏み入れるだけでも、どこか重苦しい予感が漂っていた。
“戻らずの杜”。
正確には、その最奥に鎮座する“戻らずの杜”は、桶野川市の古い記録にもわずかに名を残す場所だった。
今でこそ、地図からも半ば消えかけ、竹林に紛れて存在を曖昧にしているが、
かつては明確に、禁足地として扱われていた土地である。
理由は単純で、そして曖昧だった。
入った者が戻らない。
あるいは、戻ってきても、以前のその人ではなくなる。
そんな言い伝えが、代々、口伝えで残されてきたからだ。
社が祀られた年代も、祭神の名も、はっきりとは伝わっていない。
古文書には、
「境を守るもの」
とか、
「返さぬもの」
といった抽象的な記述が散見されるだけで、具体的な神名は意図的に伏せられているかのようだった。
だから、この社は願いを叶える場ではなく、むしろ、
「踏み越えてはならない境界を示すためのものだったのではないか」
と、郷土史家の間では考えられている。
禁足地と呼ばれていた頃、この竹林には明確な掟があった。
日没後に立ち入らないこと。
社に近づかないこと。
音を立てないこと。
そして何より、振り返らないこと。
最後の掟だけは、理由が記されていない。
ただ、
「振り返った者は戻らず」
とだけ、簡素に書かれている。
時代が下り、迷信として片付けられるようになると、禁足の札は撤去され、立ち入りを制限する理由も失われた。
だが、それと同時に、この場所を訪れる人間そのものが減っていった。
理由を説明できる者は誰もいない。
ただ、近づこうとすると無意識に足が止まり、気づけば別の道を選んでいる。
そんな感覚だけが、人々の間に残った。
“戻らずの杜”は、今もそこにある。
誰かを拒むわけでも、招くわけでもなく、ただ、それとして、静かに在り続けている。
竹林の入り口に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
気温が下がった、というよりも、空気そのものが重くなったような感覚だった。
「……ここ、思ったより普通ですね」
七色が、周囲を見回しながら言う。
「“戻らずの杜”って名前の割には、だな」
彼方も同意しつつ、足元を確かめるように歩く。
(……)
七色は、無言で歩く。
“戻らずの杜”。
七色は、竹林を進みながら、この場所について集めた断片的な情報を、頭の中で組み立てていた。
正式名称よりも通称のほうが先に残った土地は、それだけで異質だ。
“戻らずの杜”あるいは“戻らずの社”。
いずれの呼び名も、戻らず、という結果だけを、強調している。
原因や理由、祀られている存在についての説明が、意図的に欠落している。
郷土資料を調べた限り、この一帯はかつて明確に禁足地として指定されていた。
だが、疫病や戦、あるいは犯罪といった、分かりやすい要因は見当たらない。
あるのは、
「立ち入った者が帰らなかった」
とか、
「帰還後に様子が変わった」
という、具体性に欠ける記録だけだ。
証言はあるが、検証はできない。
だからこそ、迷信として処理された。
興味深いのは、禁足の理由が、危険ではなく、境界と表現されている点だ。
社は、何かを祀るためというより、越えてはならない線を示すために存在していた可能性が高い。
人と人ならざるもの、生と死、日常と異常。
そうした曖昧な境目を、場所として固定する役割を持っていたのだろう。
また、
「振り返るな」
という掟である。
これは、合理的に考えれば、道に迷わないため、あるいは恐怖による錯乱を防ぐための知恵とも取れる。
しかし、同時に、強い象徴性も感じられる。
振り返る行為そのものが、境界を意識し、認識してしまう行為だったのではないか。
人は、名付け、理解しようとした瞬間に、それに引き寄せられる。
“戻らずの杜”が今も曖昧なまま存在しているのは、完全に忘れ去られることも、完全に理解されることも避けてきた結果なのだろう。
七色は、そう考えていた。
この場所は、危険だからではなく、曖昧であるがゆえに、近づくべきではないのだ、という話である。
しかし、今回に限っては、別である。
“戻らずの杜”。
桶野川市の郊外にある竹林が、最近では、奇妙な話題で持ちきりだった。
夜、誰かがその竹林に近づくと、突然、どこからともなく甲高い金属音が、響いてくるという。
それは、まるで戦国時代の武者が鎧を鳴らしながら歩いているかのような、耳をつんざく音だったという。
その足音の主は、はたして甲冑武者であるという噂だ。
身にまとっているのは、朱色に染まった甲冑。
骸骨の面をかぶっているともいう。
幽霊なのか。
亡霊なのか。
この噂を確かめに、来たのだ。
(……)
彼方と七色は、歩く。
何の変哲もない。
いたって、普通だった。
普通の竹林である。
おおよそ、件の噂とは、少しも結びつきもない。
噂を連想させるような、折れた竹も、血痕も、怪しい札もない。
「そうですね」
七色は、いぶかしげに首を傾げた。
「もっとこう……呪われた看板とか、立ち入り禁止のロープとか、そういうのがあるのかと」
「それは自治体案件だろ」
七色は、真顔で、
「肝試し感が足りません」
と、付け加えるように、言った。
「足りなくていいよ」
数歩進むと、背後の住宅地が見えなくなった。
振り返っても、同じような竹の列が続いているだけだ。
「……御月さん」
「はい」
「さっきより、竹、近くない?」
「……そう言われると、確かに」
七色は、立ち止まり、左右の竹を見比べる。
「でも、気のせいの可能性もあります」
「ホラーで一番よく聞くやつだ」
「朝川さん、ホラー映画見すぎです」
「ホラー映画は、苦手だよ」
「そうなんですか? 私は、どちらかというと、好きですが」
会話をしながらも、二人の足取りは慎重になっていく。
「……静かすぎませんか」
七色が、少し声を落とした。
「だよな」
彼方は耳に手を当てる。
風の音がない。
葉擦れの音もない。
虫の声も、遠くの車の音も、何も聞こえない。
「竹林って、もっと騒がしいはずだよな」
「ええ。音が反響しますし……」
「なのに、僕たちの足音だけってのが、逆に怖い」
一歩踏み出すたび、土を踏む音が妙に大きく響く。
「……あ」
七色が、急に立ち止まった。
「ど、どうしたの?」
思わず、声が上擦る。
「前、見てください」
指差された先。
地面に、何かが転がっている。
彼方は、反射的に身構えた。
「……まさか、骨?」
「……空き缶です」
「紛らわしい!」
「朝川さんが過剰反応なだけです」
七色は、空き缶を拾い上げ、軽く振った。
「最近のものですね。錆びてもいません」
「誰か、ここに来てるってことか……」
「肝試しでしょうか」
「ここで肝試しは、チャレンジャーすぎるだろ」
その時。
カン。
乾いた音が、遠くで鳴った。
二人の動きが止まる。
「……今の、聞こえました?」
「うん」
金属同士が、軽くぶつかったような音。
「誰か、いる……?」
「足音ではありません」
カン。
カン。
規則的だ。
「一定のリズムですね」
「なんでホラーって、規則正しく音が鳴るんだろうな……」
「恐怖演出の基本だからでは」
「分析してる場合か」
音は、竹林の奥から聞こえてくる。
「……進みますか?」
「選択肢あるかのかな?」
「戻る、という選択も……」
二人同時に、背後を見る。
そこには、同じような竹林が続いている。
彼方は、うめくように、
「……戻ったら、戻ったで、何か出そうだな」
「同感です」
「じゃあ、進もう」
音が、少しずつ近づいてくる。
竹の影が濃くなり、視界が狭まる。
やがて、何も音がしなくなる。
「おかしいな……」
彼方が、ぽつりと呟く。
何もないはずの竹林に、足音ひとつ聞こえてこない。
風に揺れる竹の音もない。
いつもなら、この時間に人々が歩く音や、遠くのカエルの声が聞こえるはずだが、今日はそれさえも静寂に包まれている。
七色は答えず、黙々と歩き続ける。
七色の後ろ姿が、少し震えているように見えた。
気づかれないように、彼方は、その背中を見つめるが、七色はそのことに気づくことなく、まっすぐに竹林の奥へと向かっていた。
「……着きました」
竹林の端に差し掛かったところで、七色が立ち止まる。
霧のように漂う薄曇りの空から差し込む陽光が、竹の葉をすり抜けて地面に斑点を作っている。
その瞬間、彼方の背筋を走る一筋の冷たい風が、吹いた。
彼方は、その異常な空気を感じ取って、思わず足を止めた。
竹の奥から、金属の擦れる音が徐々に聞こえてきた。
「……あれ、また、音が……」
彼方の言葉が終わる前に、竹林の奥から、まるで鎧を鳴らすような甲高い音が響いてきた。
最初は風の音かと思った。
だが、それにしては規則的すぎる。
耳をつんざく金属音がする。
その音に引き寄せられるように、二人は足を踏み出す。
彼方は、思わず七色の背中に声をかけた。
「御月さん」
「なんですか」
「もし、なんか出たら……」
「私が、先に確認します」
「そうじゃなくて、逃げる時は一緒に……」
ギィ。
金属が擦れる、低い音が、すぐ近くで鳴った。
二人は、同時に息を止めた。
音が、止まる。
「……止まりました」
「このパターン、絶対良くない」
「私も、そう思います」
ゆっくりと、前方の竹の間に視線を向ける。
そこに。
赤い影が、立っていた。





