第8話 駆け引きの祭典 7
彼方と七色と綺亜の三人は、ゆっくりと帰途についていた。
夕闇が、静かに街に落ち始めている。
空は、まだほんのり赤みを帯びている。
ビルの窓に映る夕陽の光が、まるで水面に揺れる金色のさざ波のように、揺れていた。
遠くに見える高層ビルの窓がひとつ、またひとつと灯りをともしていく。
街が少しずつ夜の表情をまとい始め、昼の喧騒が遠ざかっていく感覚に、三人の足取りも、自然と落ち着いていった。
歩道脇の並木には、少し乾いた香りが漂う。
三人の影は、街灯に照らされて長く伸びていた。
人通りは疎らで、商店街のシャッターが次々と降りる音が、金属的に響いては、すぐに夜の気配に飲み込まれていく。
その静けさの中で、三人の歩くリズムだけが、確かに街に残った。
焼き鳥屋の店先からは煙が立ちのぼり、香ばしい匂いが風に流されて鼻腔をくすぐった。
綺亜が、その匂いに気付いて、小さく鼻を鳴らす。
「今日は、本当に、良く遊んだわ」
と、綺亜は、満足そうに言った。
表情には、疲れよりも喜びがはっきりと表れていた。
足取りも軽く、声はどこか弾んでいた。
綺亜は両手で、大きなイルカのぬいぐるみが入った袋を抱えている。
袋は完全に形を失い、イルカの顔やヒレが端から覗いていた。
抱え込むには大きすぎて、歩くたびに揺れ、綺亜は、
「よいしょっ」
と、小さな声をあげて位置を調整していた。
その仕草が何とも無邪気で、彼方は思わず目を細める。
心の中で、
(こんなに楽しそうにしてる姿を見るの、久しぶりだな……)
と、呟いた。
「ねえ、彼方。このイルカ、可愛いわよねえ」
綺亜は、ほくほく顔で、イルカを彼方の前に差し出した。
大きな目は、街灯の光を反射して宝石のように輝き、彼方の心にも、小さな光が差し込むようだった。
「大きいから、置き場所に困りそうだけれどもね」
と、彼方が笑って言うと、綺亜は肩をすくめて、
「これだから、男子は。わかっていないわね。可愛いかどうかが重要なのよ」
と、若干呆れたように言った。
七色はそのやり取りを聞きながら、少しだけ口元を緩めた。
落ち着いている七色の表情が、その瞬間だけ、ふわりと柔らかくなる。
「クレーンゲーム初体験なのに、大物を獲れたのは、先生が良かったからかな」
と、彼方が言うと、綺亜は、満面の笑みで頷き、
「それは、間違いないわ。ありがとうね、七色」
と、七色へ向かって言った。
「お役に立てて、良かったです」
七色は少し照れくさそうに答え、頬がほんのり赤くなる。
「七色の指南がなかったら、うまく獲れなかったと思うわ」
綺亜の言葉に、七色はモジモジと指を動かしながら視線を逸らした。
その控えめな仕草に、綺亜がくすっと笑い、彼方も、その笑顔を見て少し胸が暖かくなる。
「あの……」
七色が小さな声で口を開く。
「何かしら?」
「イルカの頭、触っても、良いですか?」
七色の声音は、ほんの僅かに震えていた。
「いいわよ。ほら、こっち」
綺亜は七色の左手を取って、ぬいぐるみの頭を触らせた。
指先がそっと沈み込み、その柔らかさに七色は、ふわ、と息を漏らす。
「ふわふわ、です」
「そう。ふわふわのもふもふ」
「はい。ふわふわのもふもふ、です」
その言い回しが可笑しくて、彼方は、思わず笑った。
綺亜が、その笑いに反応するように目を細めて、
「あ、そうだ。彼方は、クレーンゲーム、全然だったわね」
と、からかうように言った。
「僕には、難しかったな」
と、彼方は苦笑する。
綺亜は大げさにため息をつき、
「簡単に、負けを、認めちゃうんだ?」
「そんなことは……」
「簡単に諦めちゃう男子は、ちょっと格好良くないかも。ね、七色」
「私も、そう思います」
「でも、クレーンゲームだぞ……?」
「女の子のために、何とか取って、プレゼントする……みたいなシーンが、あったら、嬉しかったなあ」
綺亜が言うと、七色も控えめに頷いた。
彼方は、返す言葉に困り、黙る。
「まぁ、いいわ。もう勘弁してあげる」
綺亜が、くすりと笑う。
その笑顔を見た瞬間、彼方は、思わず胸の奥が温かくなるのを感じた。
その時だった。
「あ、ちょっと寄り道してもいい?」
綺亜が突然立ち止まり、指をさした。
そこには駅へ向かう途中の、小さな雑貨屋があった。
店の入り口にはガラスの風鈴やキャンドルが飾られ、薄暗い店内からはオレンジ色の光がこぼれている。
「どうせ帰り道だし、少しだけ見ていきましょうよ」
「いいけど……閉店時間、大丈夫かな?」
「大丈夫そうよ。明かりついてるし」
綺亜は、彼方と七色の返事も聞かずに、歩き出した。
店に入ると、アロマオイルの甘い香りが、ふわりと三人を包み込む。
壁一面に雑貨が並び、店内は温かい雰囲気だった。
綺亜は、あちこち興味深そうに見回しながら、
「かわいい」
とか、
「これ欲しい」
と、独り言を連発していた。
彼方はその声に、思わず耳を傾けてしまう。
七色は控えめに棚を眺め、猫の形をした小さなキーリングの前で立ち止まった。
「七色、それ好き?」
「……かわいいな、って思っただけです」
「買えば?」
と、綺亜が言うと、七色は、小さく首を振った。
「いえ……今日はもう十分楽しかったので」
その遠慮がちな返答に、綺亜は少しにやりとした。
一方、彼方は棚の一角であるものを見つけ、おっと小さく声を漏らした。
「どうかしたの?」
綺亜が、近寄る。
「これ……」
彼方が指差したのは、小さなイルカのキーホルダーだった。
綺亜が大事そうに抱えているぬいぐるみと、同じ形をしている。
「へえ、可愛いじゃない」
「こっちはサイズ的に……部屋に置きやすそうで」
「ふぅん?」
綺亜の意味深な笑みに、彼方は少し頬を掻いた。
「じゃあ、それ買いなさい。これはあなたにも取れたってことにしてあげる」
「そんな何かの救済措置みたいに言われても……」
それでも、彼方は、手に取ったキーホルダーを眺め、少しだけ満足そうだった。
その視線を綺亜に向けた瞬間、二人の間に一瞬の沈黙と微妙な距離感が流れる。
しばらく店内を見て回ったあと、三人は出口へ向かった。すると、
「あっ」
七色が小さな声をあげた。
足元に、小さな瓶が転がっていた。
どうやら棚の端にあったものが、誰かの肩が当たって床に落ちたらしい。
「ご、ごめんなさい」
七色は慌てて拾おうとしたが、綺亜が素早く代わって拾い、店員に事情を話した。
店員は柔らかく微笑んで、
「大丈夫ですよ」
と優しく対応してくれた。
七色は、頭を下げ、頬をわずかに赤く染めた。
店を出ると、綺亜が言った。
「七色、かわいいミスだったわよ」
「ミ、ミスは可愛くなくていいです……」
七色の返しに、綺亜と彼方は笑った。
その笑い声が、夜の街にやさしく溶けていく。
そんな寄り道を終えると、ようやく駅の入口が見えてきた。
三人はエスカレーターを降り、構内へ足を踏み入れる。
電車がホームに入ってきて、三人は横並びに座ることができた。
ほどなくして、七色と綺亜は疲れからか目を閉じはじめ、ついには彼方の肩へと寄りかかるように眠ってしまった。
七色の吐息が小さく規則正しく聞こえ、綺亜の髪が彼方の頬へ触れた。
(この距離は、やっぱり緊張する……)
そう思いながらも、二人の寝顔がどこか安心しきっているようで、彼方は視線を逸らせなくなっていた。
(一日中歩いたからな……)
と、心の中で呟き、彼方自身もゆっくり目を閉じる。
電車の揺れに身を任せ、少しだけ意識が遠のいたその時、ふいに、佳苗の声が脳裏に蘇る。
「多分だけどね? 彼方君は、今、少なくとも二人の女の子に、好意を向けられてると思うんだけど……それは、わかってる……よね?」
その言葉は、まるで今この状況を見透かしているかのように、彼方の胸へと落ちてきた。
肩に寄りかかる二人の重みと温もり、そして自分の心臓の高鳴りが、すべてその言葉と重なり、彼方の意識は、少しだけ疼いた。
電車が静かに走り出すと、揺れに合わせて七色と綺亜の体がわずかに揺れた。
彼方の肩には、柔らかく重みのある二人の存在が同時に感じられる。
ふと、視線を下げれば、七色の頬はかすかに赤く染まり、まつ毛が揺れるたびに光を反射している。
(……二人とも眠ってる……)
彼方の心臓が、少し早鐘を打つ。
頭では、単なる疲れと安心からの無意識な行動だと理解していても、胸の奥がざわつく。
綺亜の髪は長く、肩口にふわりと広がり、頬に触れるたびに微かな温かさを伝えてくる。
柔らかく香る髪の匂いに、彼方は思わず息を止めてしまった。
七色の小さな手が、無意識に彼方の腕に軽く触れる瞬間もあり、その瞬間だけ目を細め、心の中で小さく動揺する。
(……二人とも……無防備だな……)
肩越しの視線の先に、綺亜の寝顔がある。
無邪気で穏やかな寝息に、何故か彼方は胸の奥が熱くなるのを感じる。
隣の七色も、控えめに彼方に寄りかかっており、その距離の近さが、日常ではあり得ない緊張を生み出していた。
電車の揺れに合わせて、綺亜の髪が彼方の頬に触れるたび、わずかに身体が反応する。
心臓の高鳴りを感じながらも、彼方はあえて視線を逸らさず、そっと二人の寝顔を交互に見つめた。
(……見事なまでに二人ともぐっすりだな)
と、苦笑する。
しかし、七色の吐息のリズムを聞きながら、彼方は無意識に手のひらを少しだけ動かし、七色の肩に触れない程度に距離を調整した。
彼女の柔らかさや温もりが、静かに伝わってくる。
綺亜は夢の中で、微かに口角を上げ、心地よさそうに寝返りを打った。
その動きで再び彼方の頬に髪が触れる。
思わず彼方は、ぎゅっと息を呑んだ。
(やっぱり……困る)
心の奥で、なんと言っていいかわからない感情がじわりと広がる。
恋愛としての意識、友情としての安心感、その境界線が電車の揺れの中で、じわじわと曖昧になっていく。
小さな駅に電車が停まる。
扉の開く音に、二人の体が少し揺れ、彼方は咄嗟に腕で支える。
その瞬間、七色が無意識に腕を軽く握るような動きを見せ、綺亜の髪が頬に触れる感覚と重なる。
(……でも、こんなに……)
彼方は心の中で微笑む一方、胸の奥で小さな熱を感じる。
電車が再び走り出すと、三人の体の距離はそのままに、夜の街の光が窓越しに揺れて通り過ぎる。
彼方は、しばらくの間、電車の揺れに身を任せた。
電車が次の駅に滑り込むと、三人はゆっくりと立ち上がった。
七色はまだ眠気が残っているのか、ふわりと身体を揺らし、彼方の腕に軽く触れた。
瞬間、彼方は心臓が跳ねるのを感じた。
意識的に腕をそっと支えると、七色は小さく目を瞬きして、恥ずかしそうに目を逸らす。
その仕草は控えめでありながら、どこか余韻を残していた。
隣の綺亜は、眠りから覚めると、ふわりと髪を掻き上げながら、彼方の肩に軽く触れてしまったことに気付いて小さく笑う。
その笑顔が、電車内の薄暗い光に柔らかく映える。
「……ちょっと、二人とも近すぎじゃない?」
彼方が、口を開くと、綺亜は意地悪く目を細めて笑う。
「えー、彼方の方が近いじゃないの」
七色も小さく微笑みながら、まだ眠気まなこのまま彼方を見上げる。
わずかに赤く染まった頬が、柔らかな光に溶け込んだ。
電車の扉が開くと、三人は自然と出口に向かって歩き出した。
彼方は、七色と綺亜の間に立ち、ふたりを挟むように歩く。
その距離感が、いつの間にか心地よく、そして少し苦しい。
(どっちを先に守ればいいんだろう……)
彼方の心臓は速く打ち、手のひらは少し汗ばんでいた。
そんな選択を考えてしまって、それ自体を、彼方は打ち消そうとした。
(なにを考えているんだ、僕は……)
七色の細い肩と、綺亜の柔らかな髪に挟まれる感覚が、甘くもどかしい刺激となり、視線を定めることすらためらわれる。
階段に差し掛かると、電車の揺れと人混みのせいで、七色がほんの少しふらついた。
彼方は、とっさに片手を添えて支える。
「大丈夫……?」
小さな声で尋ねると、七色は目を瞬きして頷く。
「……はい。ありがとうございます」
その声に、彼方の胸がじんわりと熱くなる。
同時に、綺亜が肩をすくめて、からかうように口を開いた。
「やっぱり彼方って、女の子に優しいのね」
「そ、そんなことないよ……」
彼方は、否定する。
階段を降り切り、改札を抜けると、外はもう夜の帳が深く降りていた。
街灯の光が三人の影を長く伸ばし、二人の体温を近くに感じながら歩く彼方の胸は、少し痛く締め付けられていた。
歩道に出ると、綺亜がふいに、彼方を見て、
「そろそろお別れ、ね」
七色も、小さく微笑みながら、歩く。
夜風が頬をかすめ、イルミネーションの光が街路樹の葉に反射する。
三人の影がひとつに重なる。
駅の出口で改札を抜けると、夜の冷たい風が三人を包み込んだ。
綺亜は、まだ少し眠そうな目をこすりながらも、にこりと笑う。
「今日も楽しかったね、彼方」
その笑顔に、彼方の胸がぎゅっと締め付けられる。
言葉にならない想いが、胸の奥でくすぶり続ける。
七色も少し恥ずかしそうに、目を伏せながら彼方に小さな声で言った。
「……ありがとうございます。今日、一緒に付き合ってくださって」
その声が、夜の静けさに溶け込み、彼方の心を静かに揺さぶる。
三人は、駅前の小さな広場で立ち止まる。
綺亜は、ふわりと手に持ったイルカのぬいぐるみを抱え直しながら、彼方をじっと見つめた。
「ねえ、彼方」
「なに?」
「……帰ったら、ちゃんと今日のこと、覚えててくれる?」
その言葉に、彼方の心臓は跳ねた。
目の奥でほんの少し光るものを感じながら、無意識に手が伸びる。
「もちろん……忘れられるわけないよ」
そう答えると、綺亜は少し嬉しそうに笑い、ふわっと髪が揺れる。
その隣で、七色も彼方に向かって小さく微笑む。
「……御月さん、今日はありがとう」
彼方の声は、自然と柔らかくなった。
七色は小さく頷いた。
彼方の視線が、綺亜と七色の間を行き来する。
「じゃあ、また明日ね、彼方。七色も」
「はい、また」
七色も小さく手を振りながら、微笑む。
夜風に混ざった二人の匂いが、まだ残っていた。
振り返ると、二人の姿が夜の街の明かりに溶けていく。
(……僕も、帰ろう)
彼方も、夜の街を一人歩き出していた。





