第8話 駆け引きの祭典 5
七色と綺亜と彼方は、イベント会場の外の、港に面した広場のベンチに並んで座っていた。
潮の香りを含んだ風が、三人の髪をやさしく揺らし、少し熱の残る頬を冷ましてくれる。
遠くでは、イベントの後片付けをするスタッフの声が微かに聞こえ、風に溶けていった。
七色は、ベレー帽を押さえながら、
「ふう」
と、一息ついた。
「杏朱さんは、用事があるということで、帰られました」
綺亜と彼方に合流して、七色が、そう言った。
彼方が、綺亜に、
「服、大丈夫なの?」
と、心配そうに尋ねた。
綺亜は、自分のワンピースの裾を軽くつまんで見せ、
「全然平気よ。染みにもならなさそうだし」
と返した。
「そう。なら、良かった」
と、彼方は、安心したように笑った。
その柔らかい笑みは、相手の肩にそっとふわりと触れるような、いつもの穏やかさを含んでいた。
(……そうやって、すぐ、笑顔の安売りをするから、紛らわしいし、迷っちゃうのよ……)
綺亜は、胸の奥で、ほんの少しだけむず痒いような、苦いような気持ちを抱いた。
「どうかしたの、綺亜?」
と、彼方が、覗き込むように聞いてくる。
「別に。何でもないわ」
七色は、そんな二人を見比べ、小さく瞬きをしたが、特に何も言わずに話を続けた。
「杏朱さんに、伝言を、頼まれました」
その言葉に、綺亜の肩がわずかに跳ねた。
杏朱の、何か企んでいるような冗談好きの笑顔が、脳裏に浮かび上がる。
綺亜は目を細め、
「杏朱からの伝言……あまり、嬉しくなるようなものではないような予感が、するわね」
と呟いた。
七色は一拍おき、
「そのまま伝えるよう頼まれましたので、そのまま伝えます」
と、前置きしてから言った。
「『きまぐれな黒猫への報酬については、スペシャルパンケーキセットで、手を打つわ』とのことです。これで、わかりますか?」
七色の言いかた、思いきり棒読みである。
「十分わかるわ……やっぱり、ろくでもなかったわ」
綺亜は、呆れたようにため息をつき、空を見上げた。
雲一つない空の青さが、余計にため息を際立たせる。
杏朱のそういうところをよく知っている綺亜は、あきれ顔でありながら、どこかで、らしい、と思っていた。
七色は七色で、伝言を言い終えると、小さく胸をなで下ろしたように見えた。
スイーツと交換できるチケットは、各人二枚ずつ持っていたが、すでに使い切っていたため、イチゴの盛り合わせは、現金購入である。
それでも、三人でテーブルに置かれた紙皿を囲み、楽しそうにイチゴをつまむ時間は、どこか特別だった。
小粒のイチゴを一個食べた七色は、ふと顔をほころばせた。
うん、と小さく頷き、
「こうやって、シンプルに、イチゴの味を、楽しむのも、良いですね」
と言った。
「そうね。純粋な、イチゴそのものの味を、楽しめるわね」
綺亜も、イチゴを口に運びながら同意するように言う。
綺亜は少し噛んだあと、イチゴの酸味と甘みの混じった汁が広がるのをじっくり味わっていた。
彼方は、そんな二人の横顔を眺め、
「なんか、ピクニックみたいだね」
と、笑った。
広場の時計の針は、午後三時を回っていた。
通りを歩く人々の影が少し伸びはじめ、港の水面が太陽の角度を変えてきらきら揺れている。
三人とも昼食はとっていなかったが、スイーツを食べているので空腹にはならなかった。
むしろ、胸の内側に甘さが広がって、少し心地よく満たされたような気分だった。
「そう言えば、さっき、佳苗さんに、会ったよ」
と、彼方が、思い出したように言った。
「母に、ですか?」
七色が、目を丸くする。
「うん。バイトの仕事が終わったから、近くのゲームセンターに行ってみると、言っていたかな」
「……ゲームセンター」
と、綺亜は、呟くように言った。
その声には、期待と不安が入り混じっていた。
港の風とは別の、小さな緊張が綺亜の胸に流れ込んでいく。
「どうしたの?」
と、彼方に聞かれた綺亜は、少し恥ずかしそうに笑った。
「私、実は、ゲームセンターに行ったことがなくて」
「え、そうなの?」
と、彼方が、少し驚いたように眉を上げた。
綺亜は小さく頷き、
「ああいうところ、ちょっと入りづらくて……」
と、付け足した。
七色と彼方は、目を見合わせた。
「行ってみましょう」
と言ったのは、七色だった。
七色のはっきりとした口調に、綺亜は、
「いつになく、乗り気ね?」
と意外そうに聞く。
七色はベレー帽に手を添え、少しだけ顎を引いて言った。
「目的が、あります」
その言い方は妙に秘密めいており、二人の興味を引いた。
綺亜と彼方が同時に七色を見ると、七色は視線をそらすように帽子の位置を直した。
「な、何よ。教えなさいよ」
綺亜が、半分照れたように促すと、七色は、しばらく迷ったあとで、
「……うまく言えないのですが。綺亜さんが、行ったことがない場所なら、一緒に経験してみるのも、良いかと。あと……」
と、そこまで言って、声を小さくする。
「私も、綺亜さんと一緒に行きたいんです」
「そうだね」
と、彼方が、くすりと笑った。
「じゃあ、行こっか」
綺亜は、胸の高鳴りを隠すように、少しだけ深呼吸した。
港の風が、三人の服の裾をそっと押すように吹き抜ける。
「……わかったわ。じゃあ、案内してくれる?」
「もちろんです」
七色が立ち上がり、ベレー帽をきゅっと被り直す。
その仕草がいつもより決意めいて見えたのは、陽の角度のせいか、それとも気持ちのせいか。
三人はゆっくりと立ち上がり、港の石畳を歩き出した。
ゲームセンターへ向かう道は、午後の光と海風が混ざり合い、どこか冒険の始まりのような雰囲気を帯びていた。





