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第8話 駆け引きの祭典 2

「あらっ」


 と、驚いたような声が、そこに落ちた。


 大きくもなく、叫びでもない。


 その一音は、まるで空気の膜を指先で弾いたように、周囲の空間をわずかに震わせた。


 通りに流れていた賑やかなBGMが、その瞬間だけ、遠くに押しやられたように感じられる。


 音は消えていないはずなのに、意識の外へと滲み、代わりにその声だけが、鮮明に耳に残った。


 彼方たちは、ほぼ同時に気配を察し、顔を上げた。


 視線の先にいたのは、見覚えのある少女だった。


 彼方たちと同じ葉坂学園に通う、好峰杏朱(このみねあんしゅ)である。


 腰に届くほど長く伸びた艶やかな黒髪。


 無駄を削ぎ落としたような切れ長の黒い瞳。


 そのどちらもが、知性と意志の強さを雄弁に語っている。


 光の角度によって、黒髪の表面は深い青の光を帯び、緩やかな風が吹くたび、絹のようにしなやかに揺れた。


 その動き一つひとつが、計算されていないのに美しく、人の視線を自然と引き寄せる。


 通り過ぎる人々も、無意識のうちに視線を送り、数歩進んでから振り返るほどだった。


 杏朱は、まるでストリートに飾られた一枚の絵画のような、異質な存在感をまとっていた。


「……」


 綺亜は、カスタード入りのイチゴパイを持ったまま、完全に動きを止めていた。


 驚きで手が止まり、幾重にも折り重なったパイ生地の先端が、かすかに崩れる。


 中に詰められた淡い黄色のカスタードが、イチゴの赤と対照的にのぞき、今にも零れ落ちそうに揺れていた。


 落ちそうで落ちない、その微妙な状態が、綺亜の動揺をそのまま写し取っているかのようだった。


 七色は、静かにぺこりと頭を下げると、カスタード入りのイチゴパイの最後の一口を口に運んだ。


 さくり、と軽やかな音がして、生地がほどける。


 次いで、なめらかなカスタードの甘さと、イチゴのほのかな酸味が、静かに舌の上で混ざり合った。


 表情はいつもと変わらず淡々としている。


 それでも、どこか、思いがけず、という空気が、微かに頬に残っていた。


 杏朱は、黒を基調としたゴシック調の服に、身を包んでいた。


 黒のロングスカートに施された赤いフリルが、控えめながら鮮烈な差し色となっている。


 それが、杏朱の雰囲気によく似合っていた。


 ストリートを彩るピンクや赤の華やかな装飾の中にあっても、杏朱の黒は沈むことなく、むしろ強烈に浮かび上がっていた。


 すれ違う人々が、思わず、


「あっ」


 と、小さな声を漏らすのも、無理はない。


 杏朱は、


「あなたたちも、来ていたのね。驚いたわ」


 と、柔らかな声音で、そう言った。


 しかしその声の奥には、何かを探るような深さがあり、単なる偶然を楽しむだけでは終わらない気配を孕んでいた。


「僕も、驚いたよ。偶然って、あるものだね」


 彼方は、微笑んで答えた。


「そうね。偶然って、怖いものね」


 杏朱は、そう言った。


 それから、意味ありげに綺亜をちらりと見やった。


 まるで、その反応を楽しむかのような、小悪魔めいた視線だった。


「……ぅ」


 綺亜は、気まずそうに唇を噛み、言葉を飲み込む。


 頬がうっすらと赤い。


 胸の奥のざわめきが、隠しきれずに表情へと滲み出ていた。


「美味しそうね、そのカスタード入りのイチゴパイ。行列の長さから推すに、このイベントの人気スイーツに、間違いなさそうね」


 杏朱は、そう言うと、彼方の返答を待つことなく、ひょいと手を伸ばした。


 そして、断りもなく、彼方のパイを一口、口に運ぶ。


 パイ生地が軽く砕け、閉じ込められていたバターの香りがふわりと立ち上る。


 続いて、温度の残るカスタードのコクと、イチゴの甘酸っぱさが、舌の上でやわらかく溶け合った。


 その一連の動作は、あまりに自然で、ためらいがなかった。


 綺亜は、はっとして目を見開き、瞬時に赤面した。


「ちょ……! あなた、何そんな羨ましいことやっている……ううん、何やってるのよ!」


 言いかけて、慌てて言い直す。


 声がわずかに裏返り、彼方は思わず目を瞬かせた。


「羨ましい……何が、ですか?」


 七色が、不思議そうに小首を傾げる。


 そのあまりに無垢な反応に、綺亜は、しばし言葉を失い、


「……ごめんなさい。何でもない」


 と、半ば投げるように言った。


 杏朱は、目を閉じ、満足そうに小さくため息をつく。


「カスタードがとても上品ね。甘さが前に出すぎず、イチゴの酸味を引き立てている。パイ生地も軽くて、全体のバランスがとても良いわ」


 まるで専門家の批評のような口調だった。


「人のものを食べる時は、断りを入れてほしいな」


 彼方は、苦笑しながら言う。


「朝川君。あなたのパイ、少し、いただいても良いかしら?」


「いや。食べてから言われても……」


「断りを入れれば、問題ないのでしょう?」


 杏朱の微笑みに、彼方は小さく肩をすくめた。


 これ以上突っ込めば、杏朱のペースに、完全に飲み込まれる。


 それは、容易に想像がついた。


 彼方は、ペットボトルの水を一口飲み、


「それにしても、まさか、こんなところで会うなんて」


 と、ぽつりと零した。


「そうね。偶然のいたずらも、良いところだわ。ねえ、倉嶋さん?」


 杏朱は、綺亜に微笑みかける。


「……ちょっと、好峰さん。良いかしら?」


 そう言うや否や、綺亜は、杏朱の手を引いた。


 二人の顔が、ぐっと近づく。


「強引ねえ」


 と、杏朱が、困ったように笑った。


 通りを行く人々が、何事かと一瞬だけ目を向けるほどだった。


 綺亜は、小さく、しかし確かな怒気を含んだ声で、言う。


「どういうことよ?」


「占い師さんが言っていたでしょう。黒猫があなたを導いてくれる、って」


 杏朱は、綺亜のすごんだ表情にもひるまず、涼しい顔で返した。


「それに、このイベントに来たの、偶然じゃないでしょう?」


「ええ、偶然ではないわ。あなたたちが来ると聞いたから、面白そうで来ただけ」


「はっきり言うわ」


 綺亜は、呆れたようにため息をつく。


「私は、回りくどい物言いは好きじゃないの」


「そう」


「それで。あなたが、黒猫だって言いたいの?」


「気まぐれで、いたずら好きな、黒猫よ」


 杏朱は、パンフレットを開く。


 ピンクを基調とした可愛らしいデザインの紙面には、ストロベリー・スイーツ・ストリートに出店する三十店舗のスイーツが、写真付きで並んでいた。


 周囲には、甘い香りと人々の笑い声が混ざり合い、まるで小さなお祭りのような空気が満ちている。


「この大福の、このサイズ感、初めて見るわ」


 杏朱は、興味深そうに言った。


 写真には、拳ほどもある巨大なイチゴ大福。


 綺亜も、思わず、


「大きい……」


 と、呟く。


 老舗Bのブースで販売され、大粒のとちおとめを丸ごと使っているらしい。


 甘さ控えめの餡と弾力ある餅が相性抜群だという。


 テレビで紹介された洋菓子店のイチゴプリンの情報も目に入る。


「こちらのイチゴのプリンも、前評判では、ダークホースだそうです」


 七色が、淡々と補足する。


「ケーキも、鉄板ね」


 杏朱は、ショートケーキのページに目を留めた。


 ふわふわのスポンジ、北海道産生クリーム、大粒のとちおとめ。


 誰が見ても間違いない組み合わせである。


「目移りしてしまうわね」


「はい。どれも、美味しそうですから」


 七色の声は静かだが、その目はほんの少し輝いていた。


「御月さんは、何が気になるの?」


 杏朱に問われて、七色は、迷わずプリンアラモードを指さした。


「あら、私もよ。一緒に行きましょう」


 杏朱は、七色の手をそっと取る。


 七色は、一瞬戸惑ったが、拒まなかった。


「ちょ……」


 綺亜が言いかけると、


「先に行くわ」


 振り返らず、杏朱は、囁く。


 綺亜にだけ聞こえるように、低く囁いた。


「黒猫の気まぐれは、気まぐれなだけに、一度だけよ。うまくやりなさい」


「だから、そんなこと、頼んでいない……」


「そうね。だから、これは単なるお節介よ、きっと」


 杏朱と七色は、去っていく。


(彼方と……二人っきりに、なっちゃった……)


 綺亜は、自分の頬が熱くなっていくのを、はっきり感じた。


(まったく。振り回してくれるんだから)


 心の中で嘆息しつつ、ちらりと彼方に目を向ける。


 彼方は気付いていないのか、無自覚に優しい横顔をしていて、綺亜の心臓はさらに跳ねた。


(彼方と……二人っきり……)


 綺亜は、頬の熱をはっきりと自覚する。


 彼方の横顔は無自覚に優しくて、胸の鼓動が早まった。


 心臓の音が、やけに大きく響いていた。







「こっちも、大分並びそうね。先頭が見えないわ」


 プリンアラモードの販売ブースへと続く行列の最後尾に並びながら、杏朱が肩越しに前方を見やって言った。


 人の列はゆるやかに曲がり、どこまで続いているのか判然としない。


 人々の手には、すでに買い求めたスイーツのカップやトレイが握られ、甘い匂いが濃く漂っていた。


「はい」


 七色は、短く答えた。


 行列の長さを目にして、ほんのわずかに、眉を寄せる。


 感情を表に出すことの少ない七色にとっても、この待ち時間は、予想外だった。


「普段なら、これくらいの待ち時間、気にも留めないのだけれど」


 杏朱は、そう前置きしてから、ふっと視線を七色に向ける。


「葉坂学園が誇る、高嶺の花、か」


 ぽつりと零された言葉は、雑踏の中に溶けるようでいて、確かに七色の耳に届いた。


「……そう言われるのは、好きではありません」


 七色は、事務的な声で返す。


 だが、その表情は、ほんの少しだけ曇った。


 無意識に視線を落とし、足元の舗装を見つめている。


「そう? 高嶺の花……摘むことのできない、美しい花」


 杏朱は、言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。


「整った顔立ちと、光を織り込んだみたいな艶やかな髪。近づこうとすれば、誰でもためらってしまう。まるで……お人形さんみたい」


 観察するような視線が、七色の横顔をなぞる。


「……」


 七色は、何も言わなかった。


 否定も、肯定もできず、ただ沈黙を選ぶ。


「ごめんなさい。不躾で、無神経だったわね」


 杏朱は、すぐに言った。


 取り繕うというより、率直にそう思った、という調子だった。


 七色は、顔を上げ、杏朱を見る。


「好峰さん」


 七色は、続けて、


「何か、話があるのではないですか?」


 静かだが、あまりに核心を突く問いだった。


 杏朱は一瞬だけ目を丸くし、それから楽しそうに微笑む。


「素直なのね。素敵だと思うわ」


 そして、迷いなく続けた。


「ええ。その質問の答えは、イエスよ」


「私と……話を?」


「ええ」


 杏朱は、頷き、視線を逸らさずに言う。


「朝川君のこと、どう思っている?」


 その一言で、七色の肩が、ほんのわずかに強張った。


 自分でも気づかないほど小さな反応だったが、杏朱は、見逃さない。


「……答えなければ、なりませんか?」


「嫌なら無理にとは言わないわ」


 杏朱は、すぐに答える。


「ただし、質問に質問で返すのは、その質問を避けているって、宣言しているようなものよ?」


 そこで、杏朱は言葉を止め、七色の返答を待った。


 行列は、少しだけ進む。


 足を一歩前に出しながら、七色は、視線を落とし、静かに息を吸った。


「……わかりません」


 しばらくして、そう答える。


 声は小さいが、はっきりとしていた。


「それが、今のあなたの答えなら、それでいいと思うわ」


 杏朱は、それ以上追及しなかった。


 その態度は、七色にわずかな安堵をもたらしたが、同時に胸の奥に、言葉にできない余韻を残した。


「あなたたちの関係を、恋愛小説風に言うなら……」


 杏朱は、軽く指を折りながら言う。


「一人の男の子と、二人の女の子が織りなす三角関係。でも、私を含めたら……四角関係、かしら。随分と複雑ね」


「好峰さんは……朝川さんのこと……」


 七色は、躊躇いがちに尋ねた。


「嫌いじゃないわ」


 即答だった。


 七色は、言葉を失う。


 冗談めかした様子でも、はぐらかす気配もない。


 杏朱の言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。


「恋愛ってね」


 杏朱は、少しだけ声音を落とす。


「誰かが幸せになる代わりに、誰かが傷つくようにできている、と私は思うの」


 その声には、冷静さと、どこか達観した響きがあった。


「誰も告白しないまま終わる物語は、美談かもしれない。でも、私は、それを幸せな話だとは思わない」


 七色は、黙って聞いていた。


 言葉を挟むことなく、ただ耳を傾ける。


「だから、もう一度聞くわ」


 杏朱の視線が、まっすぐ七色を射抜く。


「あなたは、どうするの? 御月七色さん」


「……私は……」


 言いかけて、七色は言葉を止めた。


 胸の奥で、思考が絡まり合い、うまく形にならない。


 自分の感情に名前をつけることが、これほど難しいとは思わなかった。


「人はね」


 杏朱は、柔らかく微笑む。


「自分の好きなことや、得意なことが話題に上がったとき、自然と声が弾むものよ」


 七色は、はっとする。


「さっき、あなたは『わからない』と言ったわね」


 杏朱は続ける。


「でも、その声、少しだけ弾んでいた。私には、そう聞こえた」


 七色は、思わず自分の喉に手を当てた。


 自覚は、なかった。


「その意味、少し考えてみるといいんじゃないかしら」


 それ以上、杏朱は何も言わなかった。


 二人はしばらく、黙って行列に並ぶ。


 周囲では、甘い香りと人々の話し声が渦を巻き、遠くで鳴る音楽が、まるで別世界の出来事のように流れていた。


 やがて、順番が回ってくる。


 受け取ったプリンアラモードを手にした杏朱は、星型のゼリーを見つけて目を輝かせた。


「星型のゼリーもアクセントになっていて、可愛いわね。それに、美味しい」


「そうですね」


 七色は、小さく頷く。


「そういえば」


 杏朱は、スプーンを持ったまま言った。


「日中に見える星があるって、知っている?」


 唐突な話題の転換に、七色は瞬きをする。


「……いいえ」


「多分、この星型ゼリーのせいね」


 杏朱は、楽しそうに笑う。


「明るい時期の金星とか。空が明るくても、星の方が勝てば、見えるの。条件が良ければ、肉眼でも」


「星……詳しいんですね」


「ふふ。これでも、朝川君と同じ、天文部よ」


 そう言ってから、杏朱は、ふと真剣な眼差しになる。


「ねえ、星って、人の願い事を叶えてくれるのかしら?」


 その言葉に、七色の胸が、どきりと跳ねた。


 スプーンを持つ手が、わずかに止まる。


「流れ星ってあるでしょう?」


「……」


「消える前に願い事をすると叶う、って。恋のお願いも、叶えてくれたらいいと思わない?」


「……そう、ですね」


 七色は短く答えた。


 しかし、その胸の奥では、言葉よりも先に、心が反応していた。


 じわりと、熱が広がっていく。


 まるで、自分でも知らなかった願いが、そっと浮かび上がってきたかのように。


 プリンアラモードのカップが、七色の手の中でわずかに揺れた。


 スプーンを口に運ぶ動作は、先ほどまでと同じはずなのに、味の輪郭が妙にぼやけている。


 甘さも、なめらかさも、確かにそこにある。


 それなのに、意識の焦点が定まらなかった。


 杏朱の言葉が、胸の奥で静かに反響している。


 声が、少し弾んでいた。


 七色は、自分の呼吸に耳を澄ませた。


 一定のはずのリズムが、ほんのわずかに速い。


 理由は、分かっているようで、分からない。


「……」


 視線を上げると、行列の向こう側、通りの賑わいの中に、見覚えのある姿があった。


 彼方だ。


 綺亜と並んで立ち、何かを話している。


 彼方は少し困ったように笑い、綺亜は頬を赤くして、視線を逸らしていた。


 それだけの、ありふれた光景。


 だが、その瞬間。


 七色の胸の奥が、きゅっと、音もなく締めつけられた。


 思考よりも先に、感覚が反応する。


 スプーンを握る指に、無意識に力が入った。


(……あ)


 自分でも、驚くほど小さな声が、喉の奥で生まれる。


 なぜ、胸が苦しいのか。


 なぜ、視線を逸らせないのか。


 なぜ、彼方の笑顔が、こんなにも。


「……御月さん?」


 杏朱の声に、七色は、はっとして我に返る。


 気づけば、プリンには、ほとんど手をつけていなかった。


「顔、変わったわね」


 杏朱は、からかうようでもあり、確信を帯びたようでもある視線を向けてくる。


「……いえ」


 七色は否定しようとして、言葉に詰まった。


 否定の理由が、見つからない。


 胸の奥が、じんわりと熱を持っている。


 先ほど杏朱が言っていた


「声が弾む」


 という指摘が、今度は、別の形で理解できてしまった。


 好きなこと。


 大切なこと。


 失いたくないもの。


 それを前にしたとき、人は、理屈ではなく心で反応する。


「……わかりました」


 七色は、ぽつりと言った。


「何が?」


「私が、わからないと言っていた理由が」


 杏朱は、何も言わずに続きを待つ。


 七色は、再び彼方の方を見る。


 綺亜が何かを言い、彼方が少し慌てたように手を振る。


 その仕草が、やけに彼方らしくて、胸がまた、小さく痛んだ。


 同時に。


 その姿を、


「見ていたい」


 と、思ってしまった自分に気づく。


(……)


 七色は、静かに息を吸った。


 逃げ場のない結論が、ゆっくりと形を持つ。


「……私は」


 言葉にすると、壊れてしまいそうで、声が震える。


「朝川さんが……好き、なのだと思います」


 告白ではない。


 誰かに伝えるための言葉でもない。


 ただ、自分自身に対する、確認だった。


 それでも、その一言を認めた瞬間。


 胸の奥で絡まっていたものが、すっとほどけた。


 苦しさは、消えない。


 けれど、その代わりに、はっきりとした輪郭が生まれる。


「……そう」


 杏朱は、満足そうに微笑んだ。


「それが分かったなら、もう十分よ」


「十分……ですか?」


「ええ」


 杏朱はスプーンを置き、七色をまっすぐに見つめる。


「恋は、気づいた瞬間から始まるものじゃない。気づいた瞬間に、引き返せなくなるものなの」


 七色は、その言葉を静かに受け止めた。


 もう一度、彼方を見る。


 胸の鼓動は、相変わらず少し速い。


 でも、不思議と、嫌ではなかった。


(……これが)


 これが、自分の感情。


 逃げる理由も、否定する理由も、もう見当たらない。


 七色は、プリンアラモードに再びスプーンを入れた。


 今度は、甘さが、はっきりと分かった。


 胸の奥に残る、微かな痛みごと。


 それでも、確かに、美味しいと、思えた。

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