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第7話 昼下がりの少女たち 10

 丘の空は、遥か果てまで、星で満ちていた。


 雲は、一つもない。


 冷たい夜気の中で、星々は寄り添うように、また離れ去るように、煌々(こうこう)と燃えながら、瞬いていた。


 空は、深い。


 底知れない深淵が、そのまま天上に貼り付いたかのようであった。


 時折、静けさを破らないように、細く長く、風が丘を渡っていく。


 風は、草の葉先を震わせ、微かに、揺らめく鈴のような音を運んだ。


 丘の遥か下方には、夜の市街地が小さく沈み込むように見えた。


 昼の喧騒を忘れた街の灯りが、波のように散らばっている。


 ゆらゆらと、闇の海に浮かぶ光の島々のように、きらめいていた。


 この丘は、もともと大地に根ざす(つね)の存在ではなかった。


 言わば、空間の歪みによって、時折、その姿を現すだけの、儚い影のような存在である。


 まさしく、世界の理の外側で瞬く、もう一つの夜の表情と言えた。


 丘の下方では、断続的に空が歪んでいた。


 星が弾けるように一瞬消え、直後に、また姿を取り戻す。


 そのような現象が、続いていた。


 まるで世界そのものが静かに呼吸するたび、空が脈打っているかのようであった。


 丘は、どこまでも静かだった。


 風が吹き抜けるたび、草が囁くように揺れる。


 音ともつかないささやきが、夜空へ逃れるように、舞い上がっていく。


 そんな丘の中央には、西洋の中世の宮殿を思わせるほどの巨大な建物が、天へ向かう塔のようにそびえ立っていた。


 それは、尋常の建物ではなかった。


 見る者の心がふと立ち止まるほど、不思議な存在感を湛えていた。


 特筆すべきは、アーチも柱も床も壁も、宮殿のすべてが、半透明であるという点である。


 そこに、確かに在るのに、無いようでもある。


 そんな逆説的な存在を内包している建造物である。


 触れれば溶けてしまうように、脆い。


 しかし、同時に、どんな圧をも受けつけない程の堅牢な輝きをまとっていた。


 宮殿は、巨大なガラス細工のように、複雑で繊細な紋様を浮かべていた。


 柱と壁は、星空を写し取り、床もまた、星々の光を吸い込んでは返し、天と地の境界を、曖昧にしていた。


 宮殿は、星空の中にあった。


 "天宮殿"。


 その建造物、宮殿は、星が無数に瞬く夜空の中心に、静かに佇んでいた。


 雲のない、一面の星空である。


 空の深さは、限りない。


 宮殿はまるで、永劫の夜の中へ沈む星々の光で編まれた、神々の棲処のようであった。


 "爛"を統べる(いただき)としての"天宮殿"は、現実空間とはその存在の根源を異にする、虚無の空に浮かぶ建造物である。


 時の流れすら、そこでは意味をなさないようでもあった。


 宮殿の前には、瀟洒な噴水を備えた、真っすぐに伸びる広大な庭園が広がっていた。


 白銀の光を湛えた噴水の水は、星の光を抱えるように落ち、淡い音を響かせていた。


 静謐。


 その言葉が、ぴたりとはまる。


 荘厳。


 その形容も、ぴたりと合致する。


 静謐にして荘厳。


 庭園の草木は、どれも寸分の狂いもなく、手入れがなされている。


 月の光を浴びたかのように、淡青色の光に包まれて、揺れていた。


 星空に囲まれた"天宮殿"は、星々の光に抱かれるように青白く照らされ、夢と(うつつ)を同時に抱きしめるような、幻想的な趣に満ちていた。


 庭園の先には、広々としたホールがあった。


 天へと吸い込まれるような天井の高さを誇り、幾本もの回廊が、そこから放射状に伸びていた。


 天井には丸くくり抜かれた大窓があり、そこには、複雑な文様が緻密に施されたステンドグラスが、張られていた。


 星明かりを受けて多彩な色を落とすその光景は、宮殿の内部に、夜の別の景色を描き出していた。


 白銀の髪を持つ上品な面持ちの少女が、そのホールの壁にかけられた絵画を眺めていた。


「……」


 少女は静かに微笑み、絵画に沿ってゆっくりと歩みを進めながら、一枚一枚の絵を慈しむように見つめていた。


 少女は、"爛""消失の才媛"リゼ・ルノーである。


 しばらくして、ふと立ち止まり、呟いた。


「遅いなあ」


 その言葉は、リゼが、どこにでもいる普通の年相応の少女だと錯覚させるような物言いだった。


 "爛"であるリゼは、世界の理の外に在る存在である。


 彼女が待っていたのは、一人の"爛"の高位存在、"爛の王"であった。


 星々の輝きが決して絶えることのない、長く静謐な回廊。


 その奥から、リゼとは異なる靴音がゆっくりと響き始め、やがて近づき、止まった。


 靴音の主は、深い青のジュストコールに身を包んだ人物であった。


 リゼは、


「お待ちしておりましたわ」


 と、振り返り、その人物に、優雅に言葉を投げかけた。


 先程の少女然とした面持ちが、嘘のような変わり身だった。


 リゼは、


「"爛の王"、"碧の聖剣"シシリィ・ドア様」


 と、その名を口にする。


 シシリィと呼ばれた人物は、二十代ほどに見える、長い髪を持つ男だった。


 端正な顔立ちで、涼しげな目元が印象的である。


 その物腰の穏やかさが、シシリィの高貴さを、より際立たせていた。


「待たせてしまったようだね」


「はい」


 リゼは、柔らかく微笑んだ。


「真っすぐな肯定だね」


 と、苦笑するシシリィに、


「はい。真っすぐに肯定申し上げます」


 と、満面の笑みのリゼである。 


「シシリィ様が最後の登殿ですわ。他の皆々様は、すでに円卓におつきになっています」


「申し訳ない」


 シシリィは、再度、苦笑を浮かべた。


「絵を見ていたのかな?」


「以前、バンナウト様にも、まったく同じ質問をされましたわ」


 リゼの笑みに、シシリィは、驚いたように眉を上げた。


「ほう。あの"黒槍"が、君にそんな質問を?」


「意外でして?」


 リゼは、楽しげに問いかけた。


「少しね」


 シシリィは、リゼの瞳を覗き込みながら言った。


「彼が話しかけたくなるほど、君が魅力的なのだろう」


 リゼは、ふくれっ面をして、


「見え透いたお褒めの言葉は、あまり魅力的に感じません」


 と、応じた。


「その通りだね」


 シシリィは、どこ吹く風である。


(まったく、とらえどころがない)


 微笑みを浮かべつつも、リゼは、苦々しくそう思っていた。 


「いつ見ても、このホールの絵画は魅力的で、心を癒してくれますわ」


 リゼが目にしていた絵は、夕闇の帳が下りる中、さまざまな花々が咲き誇る景色を描いたものであった。


 淡い橙と紫の光が空に流れ、花々の影を長く伸ばしている。


 薄明の風が吹き抜け、色を持たぬはずの絵の中の花々までもが揺れ動いているかのような幻想さを湛えていた。


「特に、この純白の百合の花」


 柔らかく、しかし揺るぎのない声音で、リゼは言った。


「何ものにも縛られずに咲き誇るような高貴な雰囲気が、気に入っています。ちなみに、バンナウト様にも、同じ答えを申し上げました」


「なるほど、君らしい答えだね」


 シシリィが苦笑しながら絵に目をやる。


「だが……私が聞きたくて尋ねたことには、君は答えてくれない」


 青い衣の裾がわずかに揺れ、星光を掬うようにきらめいた。


「ご期待に添えず、申し訳ございません」


 リゼは、にっこりと微笑み、まるで謝罪の言葉さえも柔らかい飾りのようにして見せた。


「いいさ」


 シシリィは、肩を軽くすくめた。


「すぐに掴めるものは、すぐに手からこぼれてしまうからね」


 その仕草すら静謐で、夜の空気に馴染むような冷たさと温かさを併せ持っていた。


「リゼ。今日の"円卓会議"を取り仕切るのは、君なのだろう?」


 ゆるやかでありながら、芯の通った声だった。


 "爛の王"の中でも、特に強き十二の勢力が一堂に会する、それが"円卓会議"である。


 リゼは、胸元で両手を重ね、少しだけ姿勢を正した。


「私ごときに、このような大役が務まるのか……正直、不安です」


「不安であっても、臆してはいないんだろう?」


 シシリィは、笑った。


「それだけで十分大したものだ」


「過大な期待で私を圧し潰さないでくださいませ」


 リゼは、小さく笑い、歩幅を一つ狭めた。


「私は……何かおかしなことを言ったかな?」


 シシリィは首を少し傾け、リゼの横顔を覗き込んだ。


「いいえ」


 リゼは、顎に指先を添え、考えるように目を細めた。


「シシリィ様が常に泰然自若でいらっしゃいますから、私もそのご姿勢にあやかりたく思いまして」


 リゼとシシリィの距離が、詰まる。 


「その余裕は、一体どこから生まれておられるのでしょう?」


 シシリィは、わずかに眉をひそめた。


 困ったような、しかしどこか照れを含んだ仕草であった。


「難しい質問だな」


「そうなのですか?」


「そう見てもらえるのは光栄だが……私とて、心という水面は静かではない。揺れているはずだ」


「あら?」


 シシリィは、柔らかく苦笑して、


「ただ、それをうまく表に吐露する術を知らないだけだよ」


 リゼは、ゆっくりと瞬きをした。


 星光が瞳に映り込み、そこに小さな光の花が咲いたように見えた。


「不器用なだけ、とおっしゃるのですか?」


「そう、だろうね」


 シシリィの声は静かで、まるで天井のステンドグラスを通して落ちる光のように柔らかかった。


「そのくらいの受け取り方をしてもらえると、私としては嬉しい」


「そういうことにしておきます」


 と、リゼは、微笑んだ。


 シシリィは、話題を変えるように、


「"黒槍"と"蜘蛛"は、出席するのかな?」


 と、尋ねた。


「ええ。"爛"を統べる頂たる三神官の三柱……"黒槍"バンナウト様、私の主である"蜘蛛"イセリア・アージュ様」


 一拍の後に、


「そして、"尽き詠みの巫女"様」


「ほう……」


 シシリィの目が、きらりと光を宿した。


「"星天審判"の祈りを捧げる巫女様がいらっしゃらなければ、会議は踊りはすれど進むことはないでしょうから」


「"尽き詠みの巫女"……噂通り、目を覚ましていたか」


 静かな声であったが、その奥に潜む感情は隠し通せなかった。


「今、シシリィ様の心情の水面が、波打ったように見えましたわ」


 リゼは、目を細め、いたずらっぽく笑んだ。


「そうだね。"尽き詠みの巫女"の覚醒には、大変興味がある」


 シシリィも、目を細めて、


「巫女が目覚めたということは、審判の刻が遠からず訪れるということだ」


 その声音には、わずかな影があった。


「……だから、少し戸惑っている」


「シシリィ様は、"星天審判"……この世界に下る裁きの刻を、否定されるのですか?」


 リゼは、後ろに組んだ手に力を込めた。


 シシリィは、ゆっくりと星空を仰いだ。


 天井のガラス越しに、星の光が彼の瞳を射抜くように降りそそいだ。


「難しい質問だね」


「私には、至極単純明快としか思えませんが」


 不満げなリゼを見ながら、シシリィは、困ったような笑みを浮かべて、


「私は、今のこの世界を案外、気に入っているのだよ」


 と、言った。


「審判によってそれが損なわれたり、消えてしまうことに、一抹の寂しさを覚えるんだ」


「"爛の王"のお言葉とは思えませんわ」


 リゼは、怪訝そうに眉を寄せた。


「今の言葉は忘れてくれていい。どうやら君とのおしゃべりを楽しみすぎたようだ。そろそろ、円卓の間へ向かおう」


「ご案内いたしますわ」


 リゼはスカートの裾を軽く摘まみ、一礼して歩き始めた。


 その瞬間、ふいに、耳元で風が鳴った。


 風は吹いていない。


 柔らかな息が、首筋を撫でた。


「大丈夫」


 シシリィの吐息が、リゼの鼻孔をくすぐった。


「君が困るようなことはしないよ」


 囁くようなシシリィの声だった。


「……どうぞ、こちらへ」


 リゼは小さく息を吸い、表情にいつもの穏やかさを取り戻して先を示した。







回廊は、ゆるやかな弧を描きながら奥へと続いていた。


 床は磨き上げられた星硝子でできており、歩を進めるたび、足元に映る星々が波紋のように揺らいだ。


 リゼとシシリィの足音は、重ならず、しかし、不思議と調和して、静かな旋律のように回廊に溶け込んでいた。


 壁面には、等間隔で灯る淡青の燭台が並び、その炎は揺れながらも決して形を崩さない。


 それは火というより、星の欠片を留めた光そのものであった。


 回廊の途中、幾つかの横道が口を開いていた。


 そこからは、微かな気配が流れ出している。


 重く沈むような圧。


 刃のように鋭い緊張。


 あるいは、甘美で絡みつくような思念。


 いずれもが、人ならざる存在、“爛の王”たちの放つ気配であった。


「皆様……すでに集っておられますわね」


 リゼが、独り言のように呟く。


 シシリィはそれに応えず、ただ前方を見据えていた。


 回廊の最奥、そこには他よりもひときわ巨大な扉が聳えている。


 円環を描く文様が幾重にも刻まれ、扉そのものが、閉じられた結界のようであった。


 扉の前に立つと、リゼは、一瞬、足を止めた。


 胸の奥で、微かなざわめきが生じる。


 恐れていた。


 恐れていないというのは、ありえなかった。


 責任という名の重みが、確かにそこにあった。


「……行きましょう」


 自らに言い聞かせるように、リゼは、ふうと息を整えた。


 その背に、シシリィの視線が。注がれる。


「君は、やはり不思議な存在だ」


 唐突な言葉だった。


「何でしょうか?」


 リゼは、シシリィの言葉の意図が分からず、そう聞いていた。


「多くの者が、この扉の前では、肩を強張らせる」


 シシリィは、続けて、


「だが君は、怯えながらも逃げない」


「逃げ場がないだけですわ」


 リゼは、小さく笑った。


「それに……皆様がどれほど恐ろしい方々であっても、同じ“爛”であることに変わりはございませんから」


「理想論だね」


「ええ。でも、理想を語る役目を放棄したら……この会議は、ただの力比べになってしまいます」


 シシリィは、しばし沈黙したのち、静かに頷いた。


「なるほど。君以上の適任は、いないわけだ」


「シシリィ様?」


「いや、忘れてくれ。行こうか」


 リゼは、その言葉に答えず、扉へと手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、扉は軋みも抵抗もなく、ゆっくりと左右へと開かれていく。


 内側から溢れ出したのは、星光よりも、濃密な気配であった。


 幾重にも重なり合う意志。


 互いに牽制し、探り合い、あるいは無関心を装う、十二の頂点。


 空気が、重い。


 それでも、リゼは、一歩、また一歩と前へ進んだ。


(やるしか……ない)


 ドレスの裾が床を撫でる音が、やけに大きく響く。


(やるしか……ないじゃない!)


 円卓の輪郭が、次第に視界へと浮かび上がっていく。


 その中心に立つ覚悟を胸に、リゼは歩みを止め、背筋を伸ばした。


 そして。


 静謐を裂くように、リゼの声が、円卓の間へと響き渡る。


「本日は、お集まりいただき、ありがとうございます」


 "爛の王"十二の勢力が集う"円卓会議"の間には、巨大な円卓が座していた。


 その広さは視界の端から端まで届かぬほどで、まるで大陸の縮図のようであった。


 円卓には、十二の席があった。


 一時の方向から十二時まで美麗な席が一脚ずつ配されている。


 リゼは、円卓の前で一礼し、澄んだ声で告げた。


「まず初めに。本会議では、第十一座"爛の王""虚影の指揮者"鷲宮イクト様が身まかられたことにより、第十一座は空席となっております」


 静かなざわめきが、円卓を巡った。


 シシリィは、四時の方向の席に腰を下ろしていた。


「形式ばったものはどうでもいい。さっさと始めろ」


 九時の方向の席に座る人物が、言った。


 声は低く、硬質で、空気を切り裂くようであった。


 リゼはその人物に向き直り、柔らかい微笑みを湛えた。


 それから、


「そうはまいりませんわ」


 リゼは、精一杯、毅然と言い放つ。


「第九座"爛の王"“暴虐”オーレル・オーギュスト様。物事には順序というものがございます」


 オーレルと呼ばれた男は、鼻を鳴らし、


「小娘に説かれる覚えはない」


 と、吐き捨てた。


 リゼは静かにドレスの裾をつまみ、一礼した。


「大変失礼しました」


 オーレルは、手を乱雑に振って、進めろ、と言外に示した。


 リゼは、その仕草に微笑みを返した。


「皆様、お揃いになられましたようですので、ただ今をもちまして、“円卓会議”の開催を宣言いたします」

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