第7話 昼下がりの少女たち 8
ストロベリー・スイーツ・ストリートが開催される、土曜日である。
空は、どこまでも青く、雲ひとつない澄みきった色で、広がっていた。
まるで今日という一日そのものが、あらかじめ祝福されているかのような、文句のつけようのない青だった。
朝の光が、駅前のロータリーに整然と植えられた街路樹を照らし、葉脈の一枚一枚が淡い金色に輝いている。
昨夜の冷え込みが嘘のように、光はやさしく、影もまた柔らかい。
遠くで子どもが笑う声、タクシーのエンジン音、スーツケースを転がす音が混じり合い、休日ならではのゆったりした時間が流れていた。
平日の朝に見られる切迫した空気はどこにもなく、すれ違う人々の歩調も、どこか緩やかである。
天気は、快晴で、風もない。
冬の終わりにしては珍しく、頬に触れる空気がやわらかい。
吐く息が白くならないことに、季節の移ろいを感じさせられる。
絶好の行楽日和だった。
彼方は、待ち合わせ場所である桶野川駅前のロータリーに立ち、時折通り過ぎる人々の姿を目で追った。
恋人同士らしい二人連れ。
買い物袋を提げた主婦。
ベンチでコーヒーを飲む年配の男性。
それぞれが、それぞれの休日を、生きている。
さきほどから何度かあたりを見回しているが、七色と綺亜の姿はまだ見えないようだった。
(予定よりも、少し早いしな)
と、彼方は、腕時計の針を眺めながら、思う。
待ち合わせ時刻まではまだ十分ほどあり、気持ちに余裕もある。
こういう落ち着いた時間も悪くない、と彼方は思った。
急かされることなく、ただ立って、空気を吸って、今日の予定を頭の中でなぞる。
今日向かう、ストロベリー・スイーツ・ストリートは、期間限定のスイーツイベントである
桶野川市から電車で一時間半ほどの場所に位置するF市の商業施設で開催される。
テレビでも何度か特集が組まれ、SNSでもにぎやかな写真が流れていた。
イチゴを使ったタルト、パフェ、クレープ、チョコレート。
どれも写真越しでも、甘い香りが伝わってきそうなものばかりだ。
テレビやSNSでも盛り上がっていることもあって、彼方は、少し前から楽しみにしていた。
それに加えて、今日は佳苗にも会える予定だ。
知り合いがイベントに関わっている、というだけで、目的地が少しだけ身近になる。
桶野川駅からみんなで同じ電車に乗り込み、目的地の最寄り駅まで向かう予定である。
(結構、距離があるな)
というのが、彼方の素直な感想だった。
一時間半も電車に揺られることになるので、往復で三時間。
小旅行とまでは言えないものの、ちょっとした遠出である。
イベント地での滞在時間を合わせれば、ほぼ丸一日になりそうだ。
彼方の今日の服装は、ローファーにジーンズ、ジャケット、そして上からダッフルコートというシンプルなものだった。
色味も落ち着いていて、あまり気取った感じにはしていない。
動きやすさを優先した選択である。
ふと、背後から軽い足音が近づいたかと思うと、
「おはようございます」
と、澄んだ声がかかった。
振り返ると、茶色のコートを羽織った七色が立っていた。
顎のラインに沿うように切り揃えられた髪が、朝日を受けてつややかに光っている。
その姿を見て、彼方は、
(あれっ)
と思った。
七色は、ベレー帽をかぶっていて、それが驚くほど似合っていたのだ。
彼女は普段から制服をきっちり着こなすタイプで、必要以上の装飾や流行に左右されない印象があった。
葉坂学園では制服を着崩す生徒もいたが、七色は、いつも凛とした雰囲気をまとっていた。
背筋が伸び、視線がまっすぐで、どこか近寄りがたいほどの整然さがある。
しかし、今日の七色は、違う。
コートと帽子が柔らかな印象を作り、シルエットもふんわりとしていて、普段のクールな美しさとは別の、可愛らしさがあった。
(いつもと雰囲気が違うな)
と、彼方は、思わず見入ってしまう。
無意識に七色をじっと見つめていたのに気づかぬままいると、
「どうかしましたか?」
と、七色が、少し首を傾げて、問いかけてきた。
その仕草すら、どこか柔らかい。
彼方は、はっと我に返り、
「いや。いつもの御月さんとイメージが違うから……」
と答えた。
「違いますか?」
七色の声音は淡々としているが、言葉の端にわずかな緊張がにじんでいた。
「それは、いつもよりも良いという意味でしょうか。それとも、逆の意味でしょうか?」
彼方は苦笑して、
「いつもの御月さんも良いけれど、今日は普段と違う御月さんが見られたなって意味だよ」
と言う。
七色はその言葉を聞くと、ほんのわずかに目を瞬かせ、それから小さく、しかし確かに頷いた。
ベレー帽の位置を指先で直しながら、
「……コーディネート、頑張って考えてきて、良かった……」
と、ほとんど呟くように言った。
その声は、彼方の耳にかろうじて届く程度だった。
「ごめん。何か言ってくれた?」
と、彼方が聞き返すと、七色は首を振って、
「いえ、何でもありません」
と答えた。
その後、五分ほど経ったころである。
「おはよう、七色、彼方。ちょっと遅れちゃった?」
と、軽やかな声がして、綺亜が、やって来た。
綺亜は若草色のコート姿で、髪型は、学園では見せたことのないツインテールにまとめられていた。
その髪が歩くたびに小さく揺れる。
普段は、ポニーテールか下ろしていることが多いので、印象がずいぶん違う。
「綺亜さんのその髪型、はじめて見ました」
と七色が言うと、
「どうかしら?」
綺亜は、軽く髪をふわりと揺らして見せる。
少しだけ、期待するような目で二人を見る。
「似合っています」
「ありがとう。七色の私服も、普段見ないから新鮮だわ」
と、綺亜は、笑った。
そして、少し照れたように、
「あまりやらない髪型だから、自分でもちょっと違和感があるんだけれどもね」
と、言った。
「私も試してみたいですが、今の髪の長さだと難しいです」
「七色は、今の髪型が一番似合ってるんじゃない」
そんな会話を聞きながら、彼方は、綺亜の変化にも少し戸惑っていた。
七色のときと同じく、普段とのギャップが新鮮だったのだ。
だが、そのことを言葉にする前に、会話は、先へ進んでしまう。
彼方は、
「じゃあ、全員揃ったし、行こうか」
と、まとめるように言った。
三人は、改札口に向かって歩き出した。
その途中で、綺亜が小さくぼそっと呟いた。
「せっかく髪型変えてきたんだから、何か一言くらい言ってくれても良いじゃない……」
「どうかしたの、綺亜?」
歩きながら彼方が振り向く。
綺亜は内心、
(朴念仁……)
とため息をつきながら、
「別に。何でもないわ。行きましょう」
と、誤魔化した。
三人は、電車に乗り込んだ。
目的地の駅まで、乗り換えは三回。
ゆっくり話すには、十分すぎる時間だ。
最初の電車では、座席に三人並んで座ることができた。
車窓を流れる街並みを背景に、イベントの話、食べたいスイーツの話、佳苗の近況の話が続く。
「イチゴのタルトは、外せないわよね」
「私は、パフェに興味があります」
「全部回るには、計画立てた方がいいかな」
そんな他愛のないやり取りが、心地よく時間を埋めていく。
一度目の乗り換え後の電車は特に混雑しており、乗車口付近で三人は立つ形になった。
停車駅に着くたびに、大量の乗客がどっと押し寄せてくる。
「二人とも、大丈夫?」
人波に押されながら、彼方が、声をかける。
「何とか、ね……って、近すぎじゃない?」
綺亜が言うように、彼方と綺亜は、真正面で向き合う形になっていた。
「ご、ごめん。すごく混んでいるもので……困ったね」
「別に、謝らなくても良いけど……」
綺亜の声は、わずかに上ずっている。
「次の乗り換えまで三十分くらいだと思うけれど、大丈夫?」
「平気よ。ありがとう」
彼方のほうが、背が高い。
なので、自然と、綺亜が、見上げる形になる。
その距離がやたら近く、綺亜は、まともに彼方の目を見ることができない。
(顔、近すぎるのよ……こんなの、落ち着かないに決まってるじゃない……)
頭の中が、忙しなく騒いでいる。
(あ、でも、上目遣いって効果的だって杏朱が言ってたし……ああ、もう!)
しかし、彼方は、そんな綺亜の心境にまるで気づいておらず、後ろにいる七色へ向き直って、
「御月さんも平気?」
と声をかけた。
その瞬間、電車ががたんと大きく揺れ、七色は、とっさに彼方のダッフルコートの裾に手を添えた。
一瞬だけ、指先に伝わる温もりに、
「はい。平気です」
と、七色は、少しだけ表情を崩して、短く答える。
その後、何事もなかったかのように手を離すが、耳元がわずかに赤い。
「そういえば佳苗さんは、どこの売り場にいるんだろう。せっかくだから顔を出してみようと思うんだけれど」
と、彼方が、言った。
七色がすぐに答える。
「イチゴのクレープ屋さんだと言っていました」
「そっか。それじゃあ、現地で売り場を確認して、行ってみよう」
と、彼方は頷いた。
窓の外では、景色が、ゆっくりと流れ変わっていく。
住宅街が途切れ、川が見え、やがて、見慣れない街並みが増えていく。
それぞれが胸の内に、今日一日の期待を静かに膨らませながら、そのように、三人の一日は、まだ始まったばかりだった。
電車は、さらに郊外へと進んでいった。
窓の外に広がる景色は、いつの間にか高い建物が減り、低い住宅や畑が増えている。
遠くに見える山並みが、うっすらと霞んでいて、空の青さをいっそう際立たせていた。
車内は、先ほどまでの混雑が嘘のように、少しずつ空いてきている。
座席に空きが出ると、彼方は、七色と綺亜に、座るよう促した。
「ありがとう」
と、綺亜が言い、七色も、静かに、腰を下ろす。
彼方は、その前に立ち、つり革を掴んだ。
車両の揺れが、一定のリズムになる。
時間の流れが、ゆっくりとしたものに変わっていく。
「……こうして電車に乗っていると、本当に遠出してる感じがするわね」
綺亜が、窓の外を眺めながら、ぽつりと、言った。
「そうですね。桶野川市から、だいぶ離れました」
七色が、頷く。
彼方は、二人の様子を、何気なく見下ろしていた。
七色は、両膝を揃え、バッグを膝の上に置いて、背筋を伸ばしている。
綺亜は、少し足を前に伸ばし、背もたれに軽く身を預けていた。
同じ電車、同じ目的地。
それでも、佇まいは、ずいぶんと違う。
「そういえば」
と、綺亜が、思い出したように、口を開いた。
「佳苗さんって、どんな人なの?」
七色は、一瞬だけ、言葉を選ぶように、視線を落とした。
「……一言で言うのは、難しいですね」
「すごく明るい人だよ」
と、彼方は、佳苗の顔を思い出しながら、そう言った。
「とっても元気、とか?」
と、綺亜が、身を乗り出す。
「はい。とても、元気です。とても、明るいです」
「明るい?」
「はい。明るいです」
「面白い?」
「……はい。面白いと思います」
七色の答えは、簡潔だが、否定の余地が一切ない。
それが逆に、妙な説得力を持っていた。
「ふうん……七色のお母さん、かあ」
綺亜は、何かを想像するように、顎に指を当てた。
「似ているのかしら」
「……あまり、似ていないと、言われます」
七色は、少し困ったように、答えた。
彼方は、そのやり取りを聞きながら、以前、佳苗と会ったときのことを思い出していた。
第一印象。
それは、驚きと戸惑いが、同時に押し寄せてくるような感覚だった。
(まあ、たぶん、綺亜も、同じ反応になるよな)
と、内心で思う。
そして、それが、今日のちょっとした楽しみでもあった。
電車が、次の駅に停車する。
ドアが開き、数人が降り、また数人が乗ってくる。
その中に、イベントのパンフレットを手にした人たちが混じっているのが、目に入った。
「あ」
と、綺亜が、それに気づいた。
「もう、結構、行く人がいるのね」
「初日ですから」
七色が、言った。
「混みそうだね」
彼方は、苦笑して、
「覚悟、しておかないと」
と、付け加えた。
「でも、その分、楽しいんでしょう?」
綺亜は、そう言って、彼方を、見上げた。
「まあ、そうだね」
彼方は、曖昧に、しかし否定はせずに、答える。
その返事に、綺亜は、満足そうに、頷いた。
電車は、終点に近づくにつれ、アナウンスの間隔が、短くなっていく。
目的地の名前が、はっきりと、告げられる。
「……そろそろ、ですね」
七色が、立ち上がり、バッグを持ち直す。
ベレー帽を、軽く、押さえた。
「降りる準備、しよっか」
彼方が言うと、綺亜も、立ち上がる。
ツインテールが、ふわりと揺れた。
ドアの前に、人が集まり始め、車内に、わずかな緊張感が戻る。
それでも、三人の間には、不思議と、落ち着いた空気が流れていた。
今日という一日が、まだ、白紙のままで、これから何でも書き込めるような、そんな感覚だった。
電車が、ゆっくりと減速を始める。
目的地は、もうすぐ、そこだった。
電車は、郊外の街を抜け、ゆっくりと速度を落としていった。
窓の外には、低い建物と、ところどころに残る畑が続き、空の広さが、さきほどまでよりも、はっきりと感じられる。
遠くに、湾岸らしききらめきが、ちらりと見えた気がした。
車内の混雑は、いつの間にか、だいぶ和らいでいる。
電車の揺れが、一定のリズムになり、時間が、穏やかに流れ始める。
綺亜は、ふと、彼方を見上げた。
立っている彼方の横顔は、車窓の光を受けて、少しだけ柔らかく見える。
その何でもない表情を見ているだけで、胸の奥が、じんと温かくなる。
(……なんで、こんなに、落ち着くんだろう)
人混みでは、あんなに近くて、どきどきしていたのに。
今は、ただ、隣にいるという事実だけが、心地いい。
特別なことは、何も起きていない。
それなのに、彼方と同じ電車に揺られて、同じ目的地へ向かっているだけで、今日という一日が、特別なものに思えてくる。
「……ねえ、彼方」
綺亜は、少しだけ声を落として、呼びかけた。
「なに?」
彼方は、すぐに、こちらを見た。
その反応が、早すぎて、綺亜は、ほんの一瞬、言葉に詰まる。
「えっと……その……」
何か話題を、と思ったのに、頭の中が、うまく回らない。
結局、口から出たのは、当たり障りのない言葉だった。
「……電車、長いわね」
「うん。でも、もうすぐだと思う」
「そうね……」
それだけの会話だった。
なのに、彼方が、綺亜の方を向いたまま、穏やかに頷いてくれたことで、胸が、きゅっと締め付けられる。
(……優しすぎるのよ)
無自覚で、自然で、誰に対しても、同じように。
それが、彼方の良さなのだと、分かっている。
分かっている、けれども。
(……私は、特別で、いたいのに)
そんなわがままが、胸の奥で、小さく芽を出す。
綺亜は、視線を、そっと、彼方の手元に落とした。
つり革を掴む、その指。
しっかりしていて、力強くて。
あの手が、もし、自分の手を取ったら。
そんな想像をしてしまって、慌てて、視線を逸らす。
(……何、考えてるのよ、私)
頬が、熱い。
七色は、二人のやり取りを、静かに見ていた。
「……」
何かを言うでもなく、割って入るでもなく、ただ黙っていた。
ただ、綺亜の視線の揺れや、声の微妙な変化を、敏感に感じ取っている。
その視線に気づいて、綺亜は、少しだけ背筋を伸ばした。
(……ばれてる、かしら)
そう思うと、さらに落ち着かなくなる。
電車のアナウンスが、流れた。
次が、目的地であることを、告げる声。
それを聞いた瞬間、車内の空気が、わずかに、ざわつく。
「……もうすぐ、着くわね」
綺亜は、そう言いながらも、どこか名残惜しさを感じていた。
この電車の時間が、終わってしまうことが。
彼方のすぐ近くにいられる、この距離が、変わってしまうことが。
「うん。降りる準備、しようか」
彼方が、そう言って、バッグの肩紐を持ち直す。
その仕草が、やけに頼もしく見えた。
綺亜は、立ち上がり、ツインテールを、軽く、整えた。
無意識に、彼方に、少しだけ、近づく。
ほんの数センチだ。
それだけで、心臓が、早鐘を打つ。
(……手、伸ばしたら、触れる距離)
でも、触れない。
触れてしまったら、この気持ちが、戻れなくなる気がした。
ドアの前に、人が集まり始める。
終点が近い証拠だ。
電車は、ゆっくりと、減速を始めた。
床から、微かな振動が、伝わってくる。
綺亜は、最後にもう一度だけ、彼方の横顔を見た。
穏やかで、変わらない、その表情。
(……今日、少しでも、特別になれたら、いいな)
そう、心の中で、願う。
電車が、ホームへと、滑り込んでいく。
視界の先に、見知らぬ駅の構内が、広がり始める。
そして、目的地である、F市の駅が、目前に迫っていた。





