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第7話 昼下がりの少女たち 7

 放課後の、柔らかい午後の日差しが廊下に差し込む時間帯である。


 西日を含んだ光は、磨き上げられた床に長い影を落として、窓枠の形をそのまま切り取ったような四角い光の帯を作っていた。


 教室からは、部活へ向かう生徒たちの椅子を引く音や、誰かが忘れていったスマートフォンの着信音が、遠くかすかに混じって聞こえてくる。


 彼方は、ちょうど昇降口へ向かおうとしたところで、背後から名前を呼ばれた。


「おーい、彼方」


 と、声が、した。


 振り向くよりも先に、その声の主が誰であるかは、分かっていた。


 彼方は、級友の乃木新谷(のぎしんや)に、声をかけられたのだ。


 校舎の窓の向こうでは、帰宅途中の生徒たちの話し声が、川のせせらぎのように、絶え間なく流れている。


 笑い声。


 部活の愚痴。


 テストの答え合わせ。


 そんな日常の断片が、夕方特有のざわめきとなって、漂っていた。


 彼方は、肩にかけていた鞄の位置を直し、肩紐を持ち直しながら、ゆっくりと振り返った。


 新谷とは、十年来の付き合いで、言わば、悪友だった。


 小学校の頃から、席が近かったとか、家が近所だったとか、そんな些細な縁が積み重なって、気がつけば中学も高校も同じ学園に進学していた。


 特別に仲良くなろうと意識したわけでもない。


 ただ、なぜか常に近くにいて、離れない存在だった。


 良くも悪くも、相手に遠慮しないで済む関係で、本音で言い合える稀有な仲である。


 気を遣う必要もない。


 沈黙が、気まずくもならない。


 彼方にとって、新谷はそういう相手だった。


 新谷が、


「今、帰りか?」


 と、何でもないような顔で、聞いてくる。


 制服のネクタイは、案の定、だらしなく緩んでいて、第一ボタンも外れている。


 教師に見つかれば一言注意されそうな格好だが、新谷は、そんなことを気にする性格ではなかった。


「うん。そうだけれども」


 と、彼方は、答えた。


 今日は天文部の部活動もなく、寄り道をする予定もない。


 別段、急ぎの用事があるわけでもなかった。


「じゃあ、どこか寄ってこうぜ」


 と、新谷が、言った。


「え?」


「腹へってさ」


 言いながら、新谷はポケットから財布を取り出し、中を覗き込む。


「ラーメンがいいかな。商店街の、あの味噌ラーメン屋」


 次の瞬間、まるで手品でも披露するかのように、小さな紙片を一枚つまみ上げ、彼方の目の前に掲げた。


「伝家の宝刀ってやつだ」


「……え?」


「次回来店時の卵一個無料サービス券。ほら、あるしな。行かない手は、ないぜ」


 どこか得意げで、誇らしげな調子だった。


 彼方は、その様子に小さく息を吐き、苦笑しながら言った。


「夕食も、あるだろう。あまり食べると、身体に、悪いよ」


 忠告すると、新谷は、わざとらしく肩をすくめて見せる。


「お前は、俺のおふくろかよ」


 そう言いながらも、新谷は、続けた。


「いいから付き合えよ。今日は、どうしても食いたいんだよ。昼の購買、パン一個で済ませたせいでさ、腹減っててしょうがないんだ」


 その言葉の直後、実際に腹の虫がないた、ような気がして、彼方は、思わず笑ってしまった。


「……そこまで、言われたら」


 彼方は、苦笑して、小さく頷いた。







 桶野川駅前の商店街にある、そのラーメン屋は、濃厚味噌ラーメンで有名だった。


 赤い暖簾と、年季の入った木製の看板。


 決して、洒落てはいない。


 だが、逆に、それが安心感を与える。


 雑誌の地元人気店ランキングにも載ったことがあるらしく、店頭には色あせた切り抜きが、セロテープで、雑に貼られている。


 さらに、ごはんはおかわり自由で無料である。


 食べ盛りの学生や、汗を流した仕事帰りの人たちが、放っておくはずもなかった。


 店の前に着くと、五台分の駐車場は、すでに満車だった。


 ガラス越しに覗く店内には、スーツ姿のサラリーマン、作業服の男性、制服姿の男子学生たちが、肩を寄せ合うように並んでいる。


「いつ来ても、混んでいるなあ」


 と、新谷が感心したように言う。


 彼方も、軽く頷いた。


「人気あるよね」


「何か癖になる味なんだよな。リピーター率も高いし。こう……中毒性? っていうのか?」


 新谷は、鼻を鳴らしながら、暖簾をくぐった。


 食券機の前に立つと、いつものように、新谷は、腕を組み、首をひねりだした。


「ねぎ味噌ラーメンか、普通の味噌ラーメンか……迷うところだな」


 眉間に皺を寄せ、真剣そのものの表情で、ボタンの列を眺める。


「普通に考えれば、ねぎ味噌に決まってるんだが……ねぎプラス無料券の卵で、絶妙なコンボの完成……」


 ぶつぶつと呟きながら、堂々巡りに陥っている。


「でも今月は、金欠気味だし……いや、だが、使う時に使ってこそ、男のような気もするし……」


「迷っているなら、僕が、先に、買うよ」


 と、彼方が、言うと、


「……お前、容赦ないな。俺の財布事情の、深刻な話なんだぞ」


「容赦はあるけれども、新谷のお財布事情に、首は突っ込まないよ」


「お前の、そういう、めちゃめちゃ冷静で合理的なところ、偶に、怖いんだよ」


 軽口を叩きつつも、新谷は、彼方を制止し、


「いいや、待て! こっちに、決めた!」


 と、結局、通常の味噌ラーメンのボタンを押した。


 二人は並んで食券を出し、カウンター席に、腰を下ろした。


 やがて、味噌ラーメンが、二人の前に並んだ。


 湯気とともに立ち上る味噌の香りが鼻をくすぐり、空腹を一層刺激する。


「おばちゃん、にんにく、ちょうだい」


 新谷は、迷いなく声をかけ、渡されたにんにくを、迷いなくラーメンに投入した。


「これが、また、旨いんだよ」


 スープに溶け込むにんにくの香りが、店内に広がる。


 太めの麺は、スープをしっかり絡め取り、箸を持った瞬間から、その美味しさを約束しているようだった。


 しばらくは、無言で麺をすする音だけが続く。


「そういや」


 と、新谷が、ふと思い出したように言った。


「お前、最近、御月さんと、仲良いよな」


 彼方は、箸を止めずに、耳を傾ける。


「廊下で、話してるの、偶に見るぜ」


「え?」


「御月さんは五組で、俺たちは三組だ」


「そうだな」


 と、彼方が、頷く。


「組が違うのに、接点なんか、ないだろ?」


 彼方は、お冷を一口飲み、喉を潤してから答えた。


「ちょっと、話をする機会が、あってね。それで、知り合いに、なったんだ」


 曖昧だが、嘘ではない。


 朝川家は現在、彼方の一人暮らし、という状況だった。


 両親は、仕事の関係で、長期出張に出ている。


 彼方も両親に一緒に付いていくという選択肢もあった。


 しかし、葉坂学園からの転校ということを考えると、時期的に中途半端だった。


 それに、新しい生活に慣れる手間や労力を考えると、場所を移らない現状維持の一人暮らしに、落ち着いたのである。


 両親からの連絡は、ほとんど来ない。


 月に二回ほど、メールが、あるのみである。


 多いか少ないかと言えば、少ない部類だろう。


 この連絡の少なさは、よく言えば、彼方を信頼していることの裏返しであり、悪く言えば、放任主義である。


 しかし、放任主義の彼方の両親も、多少なりとも、学生である息子一人を置いていくのには、不安があったのだろう。


 家政婦の女性に、週三日ばかり来てもらうように、手配してくれていた。


 その家政婦の女性が、御月佳苗(みつきかなえ)である。


 週に三度程、家に来て、炊事、洗濯、掃除といった家事全般を、こなしてくれるのである。


 日曜日には、一週間分の買い出しに、出かけてくれている。


 先日のことだが、佳苗が風邪をひいてしまって、佳苗の娘である七色が代わりに家政婦をしてくれたこともあった。


 そういう成り行きで、七色と、知り合ったのだ。


 なかなか入り組んだ経緯である。


 栄養が(かたよ)るからと、週二回は、佳苗が弁当を持たせてくれている。


 今までは、佳苗から弁当を受け取っていた。


 だが、そのような成り行きを経て、最近は七色が弁当を持ってきてくれるようになっていた。


 そういう経緯(いきさつ)もあって、最近は、七色と話す機会も、少なくない。


 もっとも、このことを知っているのは、学園内でもごくわずかだ。


「ふーん」


 新谷は、鼻を鳴らす。


「学園のアイドル、御月七色さんと話せるなんて、羨ましい限りだよ」


 湯気越しに、羨望混じりの視線を向けてくる。


「あのクールビューティーが、他の組の男子に声かけるとか、そうそうないからな。お前、好感度、高いぜ」


「そうなのかな」


 彼方は、そう答えながら、


(御月さんの場合、佳苗さんのこともあるから、話す機会が多いだけかもしれない)


 と、考えていた。


「それにさ」


 新谷は、さらに続ける。


「綺亜ちゃんとも、最近、急接近じゃないか。よく一緒にいるだろ」


「え?」


「あの美少女お嬢様と絡めるとか、羨ましすぎる」


 声をひそめ、にやにやとした笑みを浮かべる。


「で、チェックは、できたのか?」


「……チェック?」


 新谷の言っている意味がよくわからなくて、オウム返しになる。


「胸とかお尻とか」


「……」


「ちゃんと見てるのか?」


 彼方は、呆れたように、視線を逸らした。


「御月さんの時も、そんなこと言ってたよね」


「おいおい、何で、ひいた目してんだよ」


「実際、ひいているし」


「うっわ、お前。いい子ちゃんかよ」


 新谷は、呆れたように、肩をすくめた。


「健全な男子なら、チャンスは最大限に生かさないとだな」


 身振り手振りまで交えて、新谷は、熱弁を振るう。


「いいか。不健全なお前に、俺がレクチャーしてやる」


「不健全なのは、新谷だろう」


「違うね。こういう話に乗らないお前こそ、不健全だ」


 そう言い切り、新谷は目を細める。


「大きさはない」


「……」


「だが、それがいい。慎ましく主張する胸のライン……」


「……」


「そして、桃みたいなヒップと細い脚……」


 勢いは、止まらない。


「さらに、あのさらさらのブロンドの髪が、全ての煩悩を浄化する逆説的可愛さ……!」


「……」


「あえて言おう。お嬢様最高!」


 彼方は、ラーメンをすすりながら、苦笑した。


「しょっちゅう、色々、言われているだけな気もするけれど」


 すると新谷は、急に真顔になる。


「馬鹿だな。それ、コミュニケーションだろ。綺亜ちゃんは、ツンデレ属性持ちなんだよ」


 新谷は、うらめしそうに、


「学園を代表する美少女二人と仲良いとか、お前、モテ期来てるだろ」


 と、ごはんを、頬張りながら続ける。


「うーん」


 彼方は、生返事をしていた。


 正直、そんな実感はない。


 新谷は、


「でもさ、一生分の幸運を、もう使ってるかもしれないな」


 と、にやりと笑い、


「お気の毒様です、朝川さん。お悔やみ申し上げます」


 わざとらしく合掌して見せた。


 彼方は、呆れつつ、残ったスープをすすりながら思う。


(……こいつは、たぶん、ずっとこんな調子なんだろうな)


 だが、その軽口と、変わらない距離感が、どこか心地よいこともまた、否定できなかった。







 店を出ると、外はすっかり夕暮れに近づいていた。


 空はまだ明るさを残しているものの、太陽は低く、商店街のアーケードの隙間から差し込む光は、どこか橙色を帯びている。


「ごちそうさまでしたー」


 新谷が、満腹そうな声で言いながら、暖簾を押し上げる。


「いやあ、生き返った」


 腹をさすりながら、大げさに息を吐くその様子は、まるで重労働を終えた人物のようだった。


「食べ過ぎだよ」


 彼方が、言うと、


「いいんだよ。若い内は、多少無理した方が、後で笑い話になる」


 と、根拠のない理屈を、返してくる。


「若い内は、って……今、若者でしょ」


「マジレスかよ」


 と、新谷は、笑いながら、肩をすくめた。


 商店街の通りには、惣菜屋の揚げ物の匂い、八百屋の呼び込みの声、どこかの店から流れるラジオの音が混じり合っていた。


 通学路としては少し賑やかすぎるが、放課後のこの時間帯は、どこか落ち着いた空気もある。


 二人は、並んで歩きながら、駅とは反対方向の住宅街へと足を向けた。


 途中までは同じ道で、そこから分かれるのが、いつもの帰り道だった。


「しかしさ」


 新谷が、少しだけ声のトーンを落とす。


「御月さんとか、綺亜ちゃんとか……正直、どうなんだよ。お前自身は」


 冗談めかした口調ではあったが、昼間のからかいとは違う、少しだけ真面目な響きがあった。


 彼方は、歩調を崩さないまま、少し考えてから答えた。


「どう、って言われても……」


 街灯が一つ、また一つと灯り始める。


 白い光が足元を照らし、二人の影が、アスファルトの上に長く伸びた。


「よく分からないよ」


 彼方は、そう付け加えた。


「二人とは、話していて、楽しいし、気を遣わなくていい部分も、ある」


 言葉にしてみると、思っていた以上に、素直な感想だった。


 新谷は、一瞬だけ黙り込み、


「……へえ」


 と、短く相槌を打った。


「珍しいな。お前が、そんなふうに言うの」


 からかうようでもあり、少し意外そうでもある声音だった。


「自分でも、そう思う」


 彼方は、苦笑した。


「新谷と、こんな話する日が来るとは、思わなかったよ」


「おいおい、何だそれ。俺だって、たまには、友達らしいこと言うんだぞ」


 そう言って、新谷は頭の後ろで手を組み、空を見上げた。


 夕焼けは、少しずつ紫がかってきている。


「ま、そういうのは、俺も得意じゃない」


 新谷は、意外にも、穏やかな口調で、言った。


 住宅街に入ると、人通りは一気に減った。


 家々の窓から漏れる夕食の匂いと、テレビの音が、生活の気配として漂ってくる。


 角を曲がると、分かれ道が見えてきた。


「じゃ、俺は、こっち」


 新谷が、手を軽く挙げる。


「また明日な」


「うん。気をつけて」


 遠くで、電車の走る音が、聞こえた。


 日常は、何事もなかったかのように、静かに続いていく。


 だが、確かに、何かが少しずつ動き始めている。


 そんな予感だけが、胸の奥に、淡く残っていた。

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