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第7話 昼下がりの少女たち 6

「淡い恋は、乙女の、特権であり、武器であり、弱みであり、幸福である」


 と、杏朱は、言った。


「なんか、唐突に難しい話をするのね」


「そうかしら。でも、今話していることは、間違いなく真理よ」


 と、杏朱は、応じた。


「恋をするのは、簡単ではないわ」


 杏朱の黒髪が、しぐさに合わせて、しゃらりと揺れる。


 ほんのりといい香りが、綺亜の鼻孔をくすぐる。


(いい香り、どこのシャンプーかな……)


 そんなことを、場違い的に、考えてしまっていた。


「でも、せっかく、恋をしたのだから、好きな人を、振り向かせて、恋を、実らせたい。乙女らしく、真正面から、正直に、勝負する方法もあるけれども、別のアプローチも、あるわ」


 綺亜は、コーヒを口に運びながら、黙って聞いた。


「いわゆる、恋愛テクニック、コツというやつね」


 杏朱は、テーブルの端に置かれた、チョコレートパフェのスプーンで、ゆっくりと溶けかけたクリームをすくって口に運び、それから、コーヒーを一口飲んで、カップをそっとソーサーに置いた。


 その仕草はどこか、いつもの余裕たっぷりの杏朱らしく見えたが、同時に、妙に語り口が真剣で、綺亜は少し身じろぎした。


(結構、真面目なトーンだな)


 と、思った綺亜だった。


「一番、効果的なのは、とにかく、会うこと」


「会う?」


「ええ」


 杏朱が、首肯した。


「単純接触効果、ザイアンスの法則、とも呼ばれるわ」


「接触効果?」


「ええ、そうよ」


 杏朱は、頷いた。


「人は会う回数が多ければ多いほど、相手に好意を抱きやすくなる、という理屈ね。何度も会うことで、好感を持ってもらうの」


 杏朱は、恋の理論を語る、占い師めいた口調になっていて、綺亜は、思わず背筋を伸ばした。


「……結構、顔は合わせていると思うけど」


 と、綺亜が、言った。


「そうね。貴女と、朝川君は、同じ組だし、単純な接触回数で考えたら、悪くはない状況よね」


 杏朱は、頷きながら、パフェのグラスの側面についたソースを確認するように眺め、続けた。


「ある一定回数以上、会ってしまうと、好意の伸びは、逓増か現状維持が良いところになってしまうわ。だから、すでに結構彼と顔を合わせてしまっているあなたにとっては、そこまで有効ではないかもしれないけれども、基本だから、おさえておいたほうが良いわ」


 綺亜は、静かに息を吸って杏朱の言葉を受け止めた。


(基本ね……でも、確かに重要かもしれない)


「具体的な話をするわ」


 と、杏朱が、言った。


「接触した相手に、この人は自分のことを好きかもしれない、と思ってもらうことが、大切ね。そういう素振りを、さりげなく、見せるの」


「……」


「人は、自身に好意を抱いてくれていると知ると、その人のことが、気になってくるものよ。接触していった相手に、逆に、接触してきてもらえるように、仕向けるの」


 淡々とした声だが、まるで経験に裏打ちされたような説得力があった。


(確かに、そういう考え方も、あるな)


 と、綺亜は、思って、黙って頷いた。


「でも、やりすぎは禁物よ。積極的にアピールするのではなく、あくまで、素振りを見せるだけ。さりげなくね」


 と、杏朱は、続ける。


「『この人は、自分のことを好きかもしれない』『でも、それは、自分の思い込みかもしれない』と、相手に考えてもらえるくらいが、ちょうど良いわ」


「……」


「相手に、あなたについて考えてもらう時間を増やすの。頭の中での接触、間接的な接触回数を、増やしてもらうわけね」


 杏朱は、言葉を区切りながら、まるで講義をする教師のように、落ち着いた調子で語った。


「『この人は、自分のことを好きなんだ』と確信されてしまうと、その人の中では、もう答えが出てしまっているのだから、それは、その分だけ、あなたについて考えてもらう時間が、なくなってしまうことを意味するわ」


 綺亜は、人差し指を顎に当てて、


「……理屈は、そうだけど……」


 と、つぶやいた。


 杏朱は、


「大丈夫よ」


 と、軽く肩をすくめた。


「実践として、とりあえず、三つの例を挙げてみるわ」


「え?」


「せっかくだから、練習をしてみましょう」


「練習?」


 と、綺亜が、聞いた。


「そうよ。まず、あなたが朝川君、私があなたと仮定して、お手本をみせる。次に、役割を逆にして、練習」


 綺亜が、


「いや、それはちょっと……」


 と、言いかけた瞬間、杏朱は手をひらひらと振って制した。


「その一。その日、初めて顔を合わせた時、とびきりの笑顔で、挨拶」


(ええっ)


 と、綺亜は、心の中だけで叫んだつもりだったが、声が少し漏れていた。


 杏朱は、綺亜がこれまで見たこともないような、少女然とした笑顔を作っていた。


 ほんの一秒前までのクールさが嘘のようだ。


「おはよう、彼方!」


 その声の調子も、綺亜が聞いたこともなかった。


 朝の光のように明るく、澄んでいて、頬に花が咲いたような雰囲気だった。


 次の瞬間には、杏朱は、いつもの調子に戻っていた。


 すさまじい切り替え力だ。


「はい。倉嶋さん、やってみて」


「……すごいわね。そんな顔、するんだ……」


 綺亜がぼそりと言うと、


「ただの演技よ。倉嶋さん、あなたの番よ。私が朝川君だと思って、挨拶してみて?」


 と、杏朱が促した。


「……おはよう、彼方」


 言いながら、自分でも声の湿っぽさとぎこちなさに気づく。


 恥ずかしさに、頬が熱くなる。


 杏朱は、呆れたように首を振った。


「何で、最初から、もの欲しそうな、メスの表情なのよ。それでは、朝川君に、ドン引きされるだけね」


「あなたがやらせたんでしょう! それに、そんな顔してない!」


 綺亜は、ファミリーレストランの店内にもかかわらず、思わず大声を出していた。


 周りの客がちらりとこちらを見た気配がする。


「……すみません」


 綺亜は、ばつが悪そうに頭を下げて座った。


「周りのお客さんにも、ドン引きされてしまったようね」


「……それも、あんたのせいでしょう」


 杏朱は、綺亜の恨みがましい声を聞き流すようにしながら、


「その二。自分の弱みを、少しだけ、見せて、甘えてみる。甘えるところが、ポイントよ」


(もう次?)


 と、綺亜は、目をしばたたいた。


 杏朱は、再び、一瞬で少女然とした笑顔を作り、潤んだ瞳で綺亜を見る。


「ごめんね。少し、落ち込んじゃってて……びっくりさせちゃったかな。いつもの私からは、想像もつかないよね。うん……心配してくれて、ありがとう」


 その声音があまりに自然で、綺亜は、胸の奥がきゅっと縮まるような感覚を覚えた。


(何だろう。一瞬、どきっとした……)


 次の瞬間には、杏朱は、再びいつもの調子に戻っていた。


 圧倒的な切り替え力だ。


 杏朱の、


「さあ言いなさい」


 という無言の圧力に、綺亜は逆らえず、口を開いた。


「……心配してくれて、ありがとう」


 俯きながら言うと、案の定、杏朱は、肩を落としてため息をついた。


「そんなふうに、俯いてしまったら、朝川君から、あなたの表情が見えないでしょう。それとも、顔以外のパーツを見てもらいたいのかしら。俯いた視線の先だと、胸かしら?」


「……なっ」


 綺亜が、顔を赤くする。


 恥ずかしさに、耳も熱くなる。


 杏朱は、残念そうな声音で、


「でも、あなた、胸は、まな板よりちょっとマシな部類でしかないように思えるけれども」


「馬鹿にしないでよ! 胸なら、そこそこあるんだから!」


 また、綺亜は、声を上げてしまった。


 案の定、周囲の視線が突き刺さる。


「……すみません」


 再び頭を下げると、杏朱は呆れたように首をかしげた。


「信じられない。公衆の面前で、自分の胸の大きさ自慢をするなんて。痴女なの? 羞恥プレイが好きなの?」


「……あのね」


 綺亜が、反論しようとした瞬間、


「その三。相手が話している時は、上目遣いで、一生懸命聞いて、少し大袈裟なリアクションをとる」


 と、杏朱が言った。


「上目……遣い?」


「そう。重要な妙技よ。童〇殺しとも呼ばれるわ。大抵の男なら、これで、いちころね」


「……伏字を使わなきゃいけないような言葉を、言わないでよ」


「そう? 〇貞殺し、何かの物語に出てきそうな、格好いい言い回しだと思うわ。あるでしょう、〇〇殺し」


「……そんな物語は、読みたくないわ」


 綺亜は、心底疲れた口調で言った。


「それと、リアクションは、俗に言われる、乙女のさしすせそ、ね。まとめてやってみるから、良く見て聞いていて」


 杏朱は、再び、少女然とした笑顔を作った。


 その変化が毎回、無駄に華麗だ。


 杏朱は、瞳をきらきらと輝かせて、


「さすがですぅー!」


「知らなかったぁー!」


「凄いですね!」


「センス良いですね!」


「そーなんだぁー!」


 次の瞬間には、すっと表情を戻していた。


 すさまじい圧倒的な切り替え力だ。


「さあ、倉嶋さん。やってみて」


(くっ)


 綺亜は、唇を噛んだ。


 もうこうなったら意地だ。


(これくらい、きちんとやってやるわよ!)


 綺亜は深呼吸し、できる限り可愛らしい声を意識して、


「さすがですぅー!」


「知らなかったぁー!」


「凄いですね!」


「センス良いですね!」


「そーなんだぁー!」


 と、言ってみた。


 もうやぶれかぶれだった。


 勢いに任せて、やってみた。


 杏朱の、冷たい視線が刺さった。


「最後が、一番、出来が悪いわ。品性が感じられない。媚びすぎ。これでは、かまととぶっていると言われても仕方がないわ」


「あんたのほうが、よっぽど、あざといわよ!」


 綺亜は、また店内に響く声を上げていた。


 三度目になる視線の集中に、頭が真っ白になる。


「……すみません」


 綺亜は、深く頭を下げた。


「前途多難なのは、良くわかったわ」


 杏朱が、静かに言った時、綺亜は、初めて、杏朱の前のパフェがいつの間にか空になっていることに気づいた。


「でも、応援はしてるわ」


「……え」


 杏朱の言葉に、不意をつかれて綺亜はとまどった。


「最近、あなたが、露骨に、朝川君を避けている現場を見てしまったものだから。ライバルに塩を送るのもどうかと迷ったけれども、心配になったのよ」


 杏朱は、微笑んでいた。


「あ……」


「妙に、朝川君のことを意識してしまっているわけね。それで、占い師に相談に来たの?」


「……思い付きよ」


「迷いとも言うわね」


「ああもう! あなたと話していると、調子が狂うわ」


 綺亜が、呆れたように言うと、


「褒めてくれてありがとう」


 と、杏朱は、にこりと笑った。


「褒めてなんかいないわよ」


「ごめんなさい。お詫びに、お礼をするわ」


 杏朱は、瞑目した。


「朝川君のこと、知りたいのでしょう?」


「……」


 綺亜は、沈黙し、それから小さく、


「あなた、彼方と同じ天文部よね。彼方のこと、私よりは、知っていそう……」


 と、呟くように言った。


「そうね」


 杏朱は少し考えるように言ってから、パフェの最後の一口を口に運んだ。


「表面的なことなら、あなたよりも、詳しいかもしれないわね」


 杏朱は、項目ごとに指を折りながら語り始めた。


「私が知っている、朝川君のことは、多くはないわ。顔は、中の上、スポーツは、中の上、勉強は、学年上位。悪くない、優良物件ね」


「……」


「性格は、良く言えば、周りを良く見て、気が利く。悪く言えば、自身の気持ちに遠慮がちな、風見鶏さん」


 綺亜は、


「……」


 と、小さく声を漏らした。


「そんなどっちつかずさんと、今一前に踏み出せないお嬢様……進展は期待できそうにないわね」


「……う」


「どうする、私のアシストは必要かしら?」


「遠慮しておくわ」


 綺亜は、即答した。


「七色は、大切な友達よ。ライバルになっても、それは変わらない。真っ向から、正々堂々と、勝負したいの」


 その綺亜の言葉に、杏朱は黒い大きな瞳を丸くし、小さく口を開けた。


 それから、


「ふふっ」


 と、笑みが漏れる。


「な、何よ」


「あなたの、融通のきかない、真正直なところは、嫌いじゃないわ」


 杏朱は、ふわりと微笑んだ。


「大丈夫よ。占い師さんが、言っていたのでしょう? 黒猫があなたを導いてくれるでしょう、って」


「あなたが言ったんでしょう」


 杏朱は、答えず、席を立った。


「ここのお会計、よろしくね。授業料よ」


 とだけ言って、先に店を出てしまった。


(困った子だわ)


 と、綺亜は思いながら、会計に向かった。


「コーヒーとチーズケーキのセットですね」


 と、店員に言われて、


「あの。パフェと紅茶も」


「そちらの代金は、先に出られましたお客様からいただきました」


「……そう、ですか」


 店を出た瞬間、冷たい外気が頬に触れた。


 綺亜は、胸の奥がひどくざわつくのを感じて、ゆっくりと息を吐いた。


(本当……調子が狂うわ)


 思わず、苦笑いが漏れた。

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