第7話 昼下がりの少女たち 3
一か月という時間は、長いようで短い。
転校生が来た、という話題は、学園では、三日もすれば日常に溶け込んでしまう。
葉坂学園は、生徒数が多い。
一人の転校生の存在など、噂好きな生徒たちがひとしきり話題にしたあとは、次の出来事に上書きされていく。
もちろん、綺亜のように、同じクラスに転校してきたとなれば話は別だが、基本的にはそういうものだ。
朝川彼方も、そうだった。
あの日、桶野川駅前で、冷泉寺千弦と名乗る少女に声をかけられた出来事は、確かに印象には残っていた。
だが、それで日常が変わることはなかった。
学園に通い、授業を受け、放課後になれば帰る。
その繰り返しの中で、記憶は少しずつ、棚の奥へと押しやられていく。
その日は、特別な予定のない放課後だった。
彼方は、鞄を肩にかけ、校舎を出ようとしていた。
天文部も、今日は、部活動の日ではない。
西日が、校舎の廊下を長く染めている。
窓際の床に、オレンジ色の影が伸びていた。
(もう、日が短くなってきたな)
そんなことを考えながら、昇降口へ向かう途中、背後から、声をかけられた。
「朝川君」
落ち着いた、よく通る声である。
聞き覚えはあった。
だが、すぐには思い出せない。
学園内で名前を呼ばれること自体は、珍しくない。
しかし、その声で呼ばれたのは、おそらく今回がはじめてだった。
彼方は、反射的に振り返り、そこで、足を止めた。
廊下の中央に立っていたのは、あの日、桶野川駅前で出会った少女だった。
凛とした佇まい。
背筋を自然に伸ばした姿勢。
静かにこちらを見つめる、澄んだ瞳。
綺麗な少女だった。
かわいいというよりは、綺麗という言葉が似合っていた。
それでいて、凛とした雰囲気である。
大和撫子。
自然、そんな言葉が頭に浮かんでいた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな言葉も想起された。
制服は、同じ葉坂学園のものだ。
だが、胸元のリボンの色が違う。
一学年上のようである。
「……冷泉寺、先輩?」
言葉にすると同時に、記憶が、はっきりと繋がった。
千弦は、わずかに目を細めて笑った。
「覚えていてくれたか」
「はい……」
彼方は、少し遅れて、そう答えた。
「一か月ぶりだな」
「……そうですね」
駅前での出会い。
転校する、と言っていた言葉。
(やっぱり……学年違いか)
彼方の視線に気づいたのか、千弦は、小さく頷いた。
「無事に転校してきた。君の一つ上の学年だ」
「そう、だったんですね」
「この学園は、リボンの色で学年がわかる。いいシステムだな」
「そうですね」
「だからと言って、そう胸元ばかり見られても、少し困るのだが」
「す、すみません」
千弦は、笑って、
「気にするな、冗談だ」
廊下には、もう人影がまばらだった。
部活に向かう生徒の足音が、遠くに響くだけだ。
「偶然だな」
千弦は、そう言ってから、
「……いや、偶然にしては、都合がいいか」
と、少しだけ困ったように笑った。
「今、帰るところか?」
「はい」
「なら、少し歩きながら、話してもいいか」
断る理由はなかった。
彼方は、軽く頷いた。
二人は、並んで廊下を歩き始める。
窓の外では、銀杏の葉が、わずかに色づき始めていた。
「転校してきて、一か月だ」
千弦は、前を見たまま言った。
「この学園は、悪くない。だが、どうにも難しいな」
「……それは、わかる気がします」
葉坂学園の校風は、自由だ。
言ってみれば、来るもの拒まず去る者追わず、そのような空気感がある。
自由である分、自分の居場所は自分で作らなければならない。
「私は、少し肩に力が入りすぎていた」
千弦は、淡々と続ける。
「転校生として、きちんとしようとしすぎた。結果、周囲と距離を測り損ねた」
彼方は、黙って聞いていた。
「もともとこんな感じだからな。融通もきかないし、どうにも相手に圧を与えてしまうらしい。私自身には、そんな気は全然ないんだが」
「そんなことは……」
言いながら、千弦の言っていることも、少しわかるような気がした。
凛としていて清廉を思われるその雰囲気は、魅力的だ。
だが、その清廉さが、逆に、少し近寄りづらい印象を、周りに与えてしまっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、
「だから、君に会えてよかった」
と、千弦が、言った。
その言葉は、飾り気がなかった。
「君は、最初から変わらなかった」
「……一か月前と、今で、ですか?」
「ああ」
千弦は、彼方を見た。
「駅前でも、今も。君は、周囲を見て、無理に踏み込まず、だが逃げもしない」
「……買いかぶりすぎです」
「そうかもしれないな」
千弦は、あっさりと認めた。
「だが、私は、そういう人間を信頼する」
その言葉に、彼方の胸の奥が、わずかにざわついた。
やがて、昇降口に着く。
夕焼けが、ガラス越しに差し込んでいた。
「なあ、朝川君」
千弦が、足を止める。
「今度、時間があるときでいい。学園を案内してくれないか」
「……僕が、ですか?」
「君の目で見た、この学園を知りたい」
少しだけ間があって、
「……はい」
彼方は、そう答えていた。
千弦は、満足そうに頷く。
「では、それを再会の約束としよう」
彼女はそう言って、一歩先を歩き出した。
彼方は、その背中を見送りながら思う。
一か月前の出会いは、偶然だった。
だが、今日の再会は、どうなのか。
廊下に差し込む夕日を見ながら、理由もなく、そうではない気がした。
放課後の学園に、静かな風が吹き抜けていった。




