第7話 昼下がりの少女たち 4
夕方の樋野川駅前である。
駅前は、人で、溢れていた。
帰宅を急ぐ会社員。
買い物袋を提げた主婦。
部活帰りの学生たち。
雑踏の音が混じり合い、ロータリーには、過ぎゆく一日のざわめきが、渦を巻いていた。
桶野川駅の改札は、北口と、南口の、二箇所である。
そのどちらからも、絶え間なく人が流れ込み、まるで川の分岐点のように右へ左へと分かれていく。
駅前ロータリーは、二層構造になっている。
下の層には、タクシー乗り場とバスの停留所があり、乗り物の排気音とスピーカーの案内がとぎれることなく続いている。
上の層は、デパートなどの商業施設やオフィス街に繋がっており、仕事帰りの人々がエスカレーターでゆっくりと登っていく。
綺亜は、その雑踏の中に、まぎれていた。
特に目立つわけでも、誰かの視線を集めるわけでもない。
綺亜は、軽く、ため息をついた。
(困ったな)
と、綺亜は、思った。
ため息が白くならないだけ、まだ冬はもう少し先なのだろう、と、そんなことを考えていた。
綺亜は、鞄の中を、見た。
朝、七色からもらった、パンフレットとチケット二枚が、きちんとそこに収まっている。
角が折れないよう、自然と大事に扱っている自分に、綺亜は、少し苦笑した。
桶野川市から電車で一時間半ほどの場所に位置する、F市にある商業施設の一画で開催される、ストロベリー・スイーツ・ストリートというイベントのものである。
パンフレットには、可愛らしい苺色がふんだんに使われ、甘く漂う香りまで感じられそうな写真が並んでいた。
綺亜は、改めてパンフレットを眺めながら、
(今度の土曜日、か)
と、ぼんやり思った。
今の自分が、想像以上に積極的でないことに、綺亜は、気付いてしまっていた。
夕闇の屋上での、七色との会話を、綺亜は、思い出していた。
「これは、恋のライバル宣言」
「……七色は」
「七色は、彼方のこと、どう思ってるの?」
「私は……」
「この言い方は、フェアじゃないわね」
「私は、彼方が、好き」
「七色の答えは……今は、良いわ」
「負けないんだから」
自身が口にした言葉が、フラッシュバックのように思い出されていた。
彼方が好きだと、綺亜は、恋のライバル宣言をしたのだった。
彼方は、綺亜と七色の、共通の友人である。
本人に、直接伝えたわけではない。
それでも、自身以外の者に、その想いを口にした。
そういうことだった。
その事実に、綺亜は、驚いていた。
七色に、秘めた思いを言葉にして、外に出したのだ。
(ああ、もう!)
綺亜は、ぶんぶんと頭を振った。
(意識しすぎなのは、わかってるのよ)
と、綺亜は、自分に言い聞かせた。
しかしそれでも、彼方と会話をしようとすると、あの宣言が、ちらつく。
まともに顔を合わせることも、難しくなっていた。
意識しすぎて、緊張してしまうのである。
何度深呼吸しても、胸のあたりが落ち着かない。
(何やってるんだろう。私……)
と、綺亜は、弱々しく思った。
そうして歩いていると、ふと、ある看板が目に入った。
「占い、か」
と、綺亜は、呟いた。
ガラス張りの小さな店に、紫と金の布が飾られ、薄い煙がふわりと漂っている。
まるで異国の空気が、駅前だけ切り取られたようだった。
(まま、ね……)
半ば思いつきだった。
綺亜は、中に入ってみた。
店内は、洒落た間接照明が置かれていて、薄暗かった。
天井には星を模したライトが揺れ、静かな音楽が流れている。
狭いが、とても居心地のよい、別世界に迷い込んだような空間だった。
受付の若い女性が、にっこりとして、
「先生のご指名は、ございますか?」
と、丁寧に聞いた。
(こういうところに来るの、はじめてだな……)
と、綺亜は、少し戸惑いながら、
「ええと、はじめてなので、特に、そういうのは」
と、緊張気味に、そう言った。
「かしこまりました。では、占い方法のご希望は、ございますか?」
と、受付の女性は言い、備え付けの料金表を指で示した。
「手相、占星術、姓名判断、色々ございます」
「そう、なんですね……」
「最近はカラー診断も人気ですよ」
「希望も……特には。ほんとうに、こういうところに来るのは、はじめてで」
と、綺亜は、正直に言った。
受付の女性は、ふっと和ませるように微笑んで、
「では、はじめての方向けの、お試しのコースがよろしいかと思います」
と、言った。
「気軽な内容です。ご安心ください」
「じゃあ……それで、お願いします」
「承知しました。では、ご案内しますね」
と、綺亜を、奥へと招いた。
通されたのは、一番奥のスペースである。
カーテンで仕切られた小さな空間には、テーブルが一脚と椅子が二脚だけだ。
だが、静かな空気が満ちていて、そこだけ時がゆっくり流れているようだった。
占い師が、そこに座っていた。
映画に登場する魔術師のような帽子を目深に被っているので、顔は、良く見えなかった。
わずかに見える口元は柔らかく微笑んでおり、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「はじめまして」
と、占い師が言った。
声は、思ったより若く、澄んでいた。
綺亜も、
「はじめまして」
と、挨拶した。
席に着くよう促され、綺亜は椅子に腰を下ろす。
(すごく綺麗な黒髪。雰囲気も、素敵だな……)
帽子の隙間から、やわらかい光沢のある髪が覗いていた。
占い師というより、どこか舞台に立っていそうな印象だった。
(声が若いし、意外と年も、近かったりして)
と、心の中で思ったその瞬間、占い師は、両手をテーブルの上に置いて、
「そうね。年は、意外と、近いかもね」
と、いたずらっぽく言った。
「ええっ?」
綺亜は、つい声を上げた。
「何で、わかるんですか?」
思わず、そう尋ねていた。
「あなたから、私の姿は、帽子で隠れてしまって良くわからないでしょうけれど、私には、心の眼があってね。可愛らしいあなたの姿が、良く見えるから」
占い師は、人差し指を立てながら、
「同い年よ」
と、秘密を打ち明けるように、言った。
「きっぱり言うんですね」
「このぐらい、はっきりしていないと、占い師なんて務まらないわ」
占い師は、そう言うと、楽しげに肩を揺らした。
綺亜は、占い師に、自然と好感を持った。
緊張がほぐれ、胸の奥にほんのりと、温かさが灯るのを感じた。
それから、
「アンよ」
と、占い師は、名乗った。
その声は、低すぎず高すぎず、耳に心地よく残る、不思議な響きを帯びていた。
「エー・エヌ・エヌ、と、アルファベット表記ね。もちろん、本名じゃないわ。仕事上の名前……いわばペンネームみたいなものだけれど」
そう前置きしてから、ふっと柔らかく微笑む。
「よろしくね」
その仕草は、どこか芝居がかっているようでありながら、わざとらしさは感じられなかった。
アンは、小さな金色の縁取りが施された名刺を、指先でつまむようにして、綺亜のほうへ差し出した。
綺亜は、一瞬ためらってから、その名刺を両手で受け取った。
厚みのある紙である。
ほんのりと、香草の匂いが移っている気がする。
名刺には、落ち着いた筆記体で、“Ann”とだけ、簡潔に印刷されていた。
その下に、
「霊視・手相・カード鑑定」
と、控えめな文字が、添えられている。
綺亜は、その文字をなぞるように見つめてから、自然と背筋を伸ばした。
ここが、占いの場であるという実感が、遅れて胸に落ちてくる。
「アン先生……よろしくお願いします」
声は小さかったが、意識してはっきりと言った。
自分でも驚くほど、丁寧な口調になっていた。
鑑定室は、想像していたような、怪しげな装飾に満ちた空間ではなかった。
水晶玉も、蝋燭の群れもない。
薄暗いが、落ち着いた照明のもと、木製のテーブルと椅子、そして棚に並んだハーブやカードケースがあるだけだ。
芝居がかった占いの部屋というよりも、静かな個人書斎に近い。
鼻腔をくすぐるのは、香草の穏やかな香りだ。
カモミールだろうか。
その匂いは、心を緩めるようでいて、同時に、隠していた緊張を浮き彫りにする。
「今日、あなたが、ここに来た理由を……聞かせてくれる?」
アンは、湯気の立つカモミールティーをテーブルに置きながら、そう尋ねた。
カップが置かれる、かすかな音だった。
それだけで、綺亜の心臓が小さく跳ねる。
その言い方は、とても丁寧で、押しつけがましさはまったくなかった。
しかし、その穏やかな声音が、逆に、綺亜の内側をそっと押す。
(話さなきゃ……)
そう思う。
しかし、とまどう。
思うのに、何を、どこから話せばいいのかわからない。
綺亜は、カップの縁や、テーブルの木目に視線を泳がせたまま、言葉を探した。
「えっと……」
喉が、ひどく乾いている。
「その……」
沈黙。
その沈黙を、アンは、急かすことなく、穏やかな微笑みのまま受け止めていた。
待つことに慣れている人の態度だった。
しばらくしてから、アンは、わざと少し軽い調子で口を開いた。
「恋愛運、かしら?」
「えっ?」
まるで頭の中をかき回されたような驚きで、綺亜は顔を上げた。
アンは、
「……そんなに、びっくりする?」
と、くすりと笑う。
綺亜は、言葉を失い、ただ瞬きをした。
「『なんでわかるの』って顔、してるわね?」
「なんで……わかるんですか」
問いかける声が、わずかに震えた。
「でもね、私には、わかるのよ」
アンは、少し肩をすくめる。
「だって、私は占い師だもの。何を占いたいのかくらい……その人の声とか、入ってきたときの空気で、大体わかるの」
(そんな……)
内心では否定しながらも、背中に妙な冷えが走る。
沈黙のあと、アンが、ふっと息を吐いた。
「……冗談よ」
「え?」
今度は、拍子抜けするほどあっさりとした調子だった。
「正直に言うとね、当てずっぽう」
アンは、悪戯が成功した子どものように笑う。
「あなたくらいの年頃の女の子の悩みって、恋愛がランキング一位だもの」
「……とりあえず、言ってみた、みたいな?」
「そうとも言うわね」
綺亜は、一気に肩の力が抜けるのを感じた。
(なんだ……)
安堵と同時に、少しだけ拍子抜けする。
アンは、その様子を見て、首を傾げた。
「がっかりした?」
「いえ……」
思わず、微笑みがこぼれた。
この人は、もっと近寄りがたくて、神秘的で、何を考えているかわからない大人、だと思っていた。
けれど、実際は、随分と人間味がある。
庶民的で、少し茶目っ気があって、そういう雰囲気をまとっている。
不思議と、警戒心が薄れていく。
(少し……話してみようかな)
そう思えた。
「あの……」
綺亜は、意を決して口を開く。
「アン先生が言う通り……恋愛運を、占ってほしいです」
「ええ」
アンは、ゆっくりと頷いた。
「私……好きな人が、いるんです……」
言葉にした瞬間、耳の奥まで熱くなる。
視線は、自然とテーブルの木目へ落ちた。
「いいわよ。占ってみましょう」
アンの声は、変わらず優しい。
「その男の子と、知り合って……どれくらい?」
「そんなに、経ってはいません。でも……昔に……」
言いかけて、綺亜は、口をつぐんだ。
胸の奥に沈めていた記憶が、浮かび上がりかける。
「……いえ、何でもないです」
「ふうん」
アンは、無理に追及しなかった。
「オーケー。男の子は、彼女持ちじゃない?」
「……たぶん」
「なるほどね」
少し考えるように、顎に指を添える。
「もしかすると……恋のライバルになりそうな女の子、いるでしょう?」
「……はい」
七色の顔が、脳裏に浮かぶ。
誠実で、素直で、真っ直ぐな七色。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「わかったわ」
アンは、姿勢を正し、柔らかく言う。
「手、見せて」
綺亜は、ためらいながらも、両手を差し出した。
「利き手じゃないほうは、生まれ持った運勢。利き手は、あなた自身が刻んできた運勢……これまで、と、これから、を見るの」
アンの指が、そっと手を包む。
温かい。
冷えていた指先に、じんわりと熱が伝わった。
「その人を好きだって気付いて……ライバルの子に、宣言したんです」
「勇気あるわね」
「でも……それから、すごく緊張して……話すのも、目を合わせるのも、できなくなって……」
ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれる。
アンは、黙って手のひらを見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「結論から言うわ。黒猫が、あなたを導いてくれる」
「黒猫……?」
「そう、黒猫」
澄んだ声だった。
「それは、どういう意味……」
「そういう意味」
アンの答えは、答えになっていなかった。
「今の状態は、良くも悪くもない。でも……」
アンは、視線を上げる。
「ライバルの子と、一気に差がつく未来が視える」
「……」
「ただし、その差が、近付くのか、遠ざかるのか……そこまでは視えない」
喉が、鳴る。
「つまり……あなた次第」
綺亜は、小さく頷いた。
「困る、って顔ね」
アンは、肩をすくめる。
「よし。本気を出すわ」
声のトーンが、ふっと落ちる。
空気が、一変した。
「意中の人は……髪は、少し長め」
「は、はい」
「イニシャルは……K・A」
心臓が止まるかと思う。
(彼方、朝川……)
当たっている。
「ライバルの子は……N・M」
(七色、御月……)
当たりだ。
(……おかしい)
その瞬間、香草に混じって、夏の木陰のような匂いがした。
(この匂い……)
黒髪、仕草。
(まさか……)
「あの……先生って……」
「ふふ。その予想、当たっているわ」
帽子が、持ち上げられる。
現れたのは、知った顔だった。
好峰杏朱である。
腰までかかる長い艶やかな黒髪が目を惹く。
それに、聡明さを物語る切れ長の黒い瞳が印象深い。
「……っ!」
「恥ずかしがらないで」
くすくす笑う杏朱。
「口止め料は、チョコレートパフェでいいわ」
綺亜は、逃げたいような、でも少し嬉しいような、不思議な気持ちのまま、黙って頷いた。
「じゃあ、三十分後。ファミレスDね」
ひらめく黒髪を残して、部屋の奥のほうに、杏朱は、去っていった。
綺亜は、その背中を、ただ見送るしかなかった。





