第6話 守護者の鼓動 10
綺亜が、
「止血はしておいた」
と、言った。
その言いかたは、端的だった。
必要以上に飾らず、ただ状況をそのまま、一言に凝縮したような声音だった。
それは、面倒とか憚れるから短く言った、というわけではない。
むしろ、真逆だった。
とにかく今起きていることを少しでも早く伝えたい。
自分の中に渦巻く焦りや、胸を締めつけるような不安を押し隠しながら、それでも、確かに伝えたい。
その一心から出た言葉だった。
その真意は、相手にも、十二分に通じていた。
その相手とは、七色である。
夕闇に沈む空の下、綺亜は、少し俯き加減に、
「安静にしていれば、大丈夫だと思うわ」
と、言った。
綺亜に膝枕をされて、彼方は、深い眠りに落ちていた。
彼の呼吸は穏やかで、まるで先ほどまで命を賭けて戦っていたのが、嘘のようだった。
風が吹くたび、綺亜の長い髪が揺れ、屋上のコンクリートをさらさらと撫でる。
夕闇に染まった、葉坂学園の屋上。
そこには、二人の少女と一人の少年が、いるだけである。
喧噪から切り離された、奇妙に静謐な場所だった。
七色が、
「そう……ですか」
と、言った。
ただそれだけの言葉だった。
しかし、その短い言葉の奥にあったのは、胸を撫で下ろすような深い安堵だった。
それだけだった。
そのあと、
「嬉しそうに、言うのね」
と、綺亜は、少し寂しげに、笑っていた。
七色の表現は、素直でシンプルで、とても綺麗だと、綺亜は思った。
嘘がなく、濁りもなく、ただそのまま、心から出た言葉だけが並んでいる。
(私には、きっとできない素直さだ)
と、綺亜は、胸の奥で思った。
「……そう、ですか」
七色は、小さく呟いた。
彼方と綺亜のことを心配し、そして安堵している気持ちが、綺亜に、しっかりと伝わってきていた。
この短いやりとりの中に、どれほど多くの感情を抱えてきたのかが、滲み出ていた。
「綺亜さん。身体のほうは、大丈夫ですか?」
と、七色が、そっと聞いた。
綺亜は、肩をすくめて、
「見ての通りよ。控えめに言って、満身創痍ってやつよ」
と、軽く笑いながら言った。
「体操服だって、ぼろぼろだし。新調しないと、駄目ね、これは」
その笑い方は普段と同じなのに、どこか痛々しく見えた。
綺亜は、七色の恰好を見て、
「そう言う七色こそ、大丈夫なの?相当、きつそうだけれど」
と、真剣な声で聞いた。
七色もまた、傷だらけで、綺亜と同様に服はひどく裂けていた。
血の跡が袖口に残り、風に吹かれると痛みが走るのか、わずかに顔をしかめた。
七色が、
「大丈夫です」
と、短く、確かな声で言った。
「それに、何とか、なりました」
屋上の寒さに、七色は、左手を右腕の肘に当てながら、立っていた。
その姿勢はぎこちない。
だが、静かな強い意志だけは、揺らいでいなかった。
「まあ良いわ」
と、綺亜は、瞑目して、微笑んだ。
それは、戦い抜いた者だけが見せられる、静かで深い微笑だった。
「七色」
と、綺亜は、呼んだ。
「ありがとう」
ただ一言、綺亜は、言った。
感謝の言葉を絞り出すように、しかし温かくそう言った。
綺亜は、空を見上げた。
黄昏は深まり、空の色は紫と藍が溶け合っていく。
どこか遠くで星が瞬き始めていた。
彼方がいなければ、七色がいなければ、今こうして、空を眺めている自分は、いないに違いない。
自分は、ただ怖がりな小鳥で、"守護者"の使命という籠から、怯えて出てこなかったかも知れない。
飛び立つ勇気も、羽ばたく強さも、自分一人では、持てなかった。
共に戦ってくれる仲間として、それ以上に、友達として、自分と向かい合ってくれている七色と、真正面から向かい合いたいと、綺亜は、強く願った。
逃げずに、弱さも全部見せた上で、それでも強く在りたいと、今は心から思えた。
(……だからこそ……)
月を見上げながら、綺亜は、
「今、この街で……この樋野川市で、何かが、起こりつつある」
その声は風にかき消されそうなほど静かだったが、確かな重みを持っていた。
「……」
七色は、黙ったままだった。
だが、その沈黙こそが、綺亜の言葉を真剣に受け止めている証だった。
「七色は、"月詠みの巫女"として、私は、"守護者"として、やるべきことがある」
「……」
だから、と綺亜は続けた。
「一緒に、戦ってほしい」
綺亜の真っすぐな瞳に、七色は、ゆっくりと頷いた。
その頷きは、短い。
だが、力強い約束のようだった。
綺亜も、静かに頷いた。
「一緒に、戦って……そして、私と、戦ってほしい」
「……綺亜さんと……?」
と、七色が、戸惑いを露わにして聞いた。
「これは、恋のライバル宣言」
綺亜は、言った。
その宣言は、あまりにも唐突だった。
七色の瞳が揺れ、肩がわずかに震えた。
「……七色は」
と、綺亜は、続ける。
「七色は、彼方のこと、どう思ってるの?」
その問いかけは、突然で、鋭かった。
七色が、はっと顔を上げる。
綺亜の真剣な眼差しが、まっすぐに向けられていた。
逃げ道のない、正面からの問いだった。
沈黙が生まれる。
「……」
「……」
やがて、七色は、そっと俯いた。
「私は……」
七色が、言いかけて、そこで止まってしまったのを見て、綺亜は困ったように笑い、ううんと首を振った。
「この言い方は、フェアじゃないわね」
と、綺亜が、少し照れたように、言った。
改めて、七色に向かい合った綺亜は、
「私は、彼方が、好き」
そうはっきり言った。
その告白は、あまりにも突然だった。
七色は、綺亜の肩が、ほんの少し震えていることに気付いた。
勇気を振り絞った、その震えだった。
(今の私は……)
と、七色は、自分の心が揺れていることに気付き、言葉を失ってしまった。
「七色の答えは……今は、良いわ」
と、綺亜は、続けた。
「負けないんだから」
綺亜の微笑みに、七色は、小さく、口を開けるのみだった。
その微笑みは、まっすぐで、迷いがなかった。
「……」
迷いのない綺亜の微笑みに、七色は応えられず、ただ黙っていることしかできなかった。
だが、その沈黙は、拒絶ではない。
多くの感情を抱えて揺れているがゆえの、そういう沈黙だった。
夕闇の空に、新しい戦いと新しい想いの始まりを告げるように、三人の影が、そっと伸びていた。





