第6話 守護者の鼓動 9
「……ぐっ……は……」
鷲宮が、呼吸を、何とか搾り出す。
びちゃりと、赤黒い血が、口から、零れた。
喉の奥で、空気が擦れるような、乾いた音がした。
「まさか……この私が、こんなところで……厭になりますね」
と、鷲宮は、苦笑まじりに、言った。
その笑みは、血の気が引き、温度のない、不格好なものだった。
それでも、彼は、形だけでも、"爛の王"としての矜持を、保とうとしていた。
鷲宮は、立っているのではなく、俯せに、這っていた。
かつては優雅に歩くために鍛えられた長い四肢が、いまは泥の中でもがく獣のように、力を失っている。
手入れが行き届いていた、ネイビーのコートやスーツや、鏡面磨き仕立ての黒い革靴は、泥まみれだった。
その泥は、雨のせいだけではない。
鷲宮の肉体が発する、微弱な魔力の乱れに引き寄せられた闇の残滓が、混じっているためだ。
鷲宮の這いずる肢体は、奇妙だった。
右腕と左脚が、半透明に、輝いていて、半ば、実体が、ないのである。
そこから漏れ出る光は、魂が剥がれ落ちる直前のように、揺らいでいた。
"月詠みの巫女"の剣から受けた、一太刀は、確かに、"虚影の指揮者"鷲宮イクトという、"爛の王"の消失に足りる威力が、あった。
あの一閃は、ただの攻撃ではなく、霊性を切断し、概念そのものを裂く類のものだった。
"爛の王"という存在でさえ、防ぎきれなかったのは当然と言えた。
しかし、自分という存在は、消えていなかった。
「私は……ここに、いる……」
と、鷲宮は、言った。
口に出した瞬間、それが願望なのか、事実なのか、自分でも、判然としなかった。
ただ、言葉にすることで存在が結びつくような、そんな錯覚に縋っていた。
剣を振るった者が、本来の所持者である"月詠みの巫女"ではなかったことが、幸いしたのかもしれなかった。
もし本来の担い手である"月詠みの巫女"が振るっていたなら、鷲宮の顕現の理ごと、断ち切られていたはずだ。
すなわち、完全に討たれていたはずだった。
それは、鷲宮自身の完全な消滅を意味する。
しかし、鷲宮は、そこにいた。
この結末は、鷲宮自身にも、予想外だったが、己の悪運の強さに、自嘲ぎみの笑みが、漏れていた。
鷲宮の脳裏に、朝川彼方という少年の姿が、掠めた。
少年が剣を振りかざした瞬間の、あの真っ直ぐすぎる眼差し。
そこに宿っていたのは、素人の激情とも、英雄の覚悟ともつかない、奇妙な光だった。
(何だったのか、あの少年は……)
と、鷲宮は、思った。
剣の扱いは稚拙で、土壇場の力だけで振り抜いた、大雑把な太刀筋だった。
それにもかかわらず、その刃は、鷲宮の顕現の理に届いていた。
鷲宮には、朝川彼方という少年は、高揚した感情で、何とかねじり出した、膂力に任せて、素人同然の、つたない技術で、剣を振るっているだけの存在にしか、見えなかった。
(最後の瞬間、妙な気配を、感じた……あれでは、まるで……)
と、鷲宮は、思った。
辺りは、静かだった。
アスファルトと土と草の匂いだけが、湿った空気の中に漂っている。
何の音も聞こえてこない。
まるでこの場所だけ、世界から切り離されたかのようだった。
「……っ……」
鷲宮は、断続的に生じる身体の痛みに、息を、吐きだした。
血液の流れが乱れ、実体がある部分とない部分の境界で、裂け目のような痛みが続いている。
力の恢復には、時間がかかりそうだった。
だが、それだけだった。
あくまで、時間がかかるだけ、である。
"爛の王"が、一度死に損ねた程度で、終わるはずがない。
終わるわけがない。
鷲宮は、それを自分に言い聞かせるように、肩を震わせた。
「……たっぷりと……ぐっ……後悔させてあげましょう……」
と、鷲宮は、呪いの言葉を、紡いだ。
その声は濁り、呪詛よりも未練に近い震えが混じっていた。
ふと、
「随分と、滑稽な芝居ね」
と、声が、した。
前方からかかった声に、鷲宮は、顔を上げた。
視界は揺れ、ピントが合わない。
それでも、その声だけは、異様なほど、鮮明に耳へ届いた。
その声は、澄んでいた。
澄みすぎていて、得体のしれない違和感が、あった。
湖面の下に暗い渦が潜むような、静謐であるがゆえの不吉さだった。
暗闇のせいか、相手の姿は、良く見えない。
(何だ、この感覚は)
と、鷲宮は、思った。
魔力の気配とも、殺気とも違う。
もっと、根源的な、世界の拒絶のような圧が、皮膚の裏へ入り込んでくる。
不愉快な感覚が、鷲宮を、包み込んでいた。
「……何者ですか?」
と、鷲宮は、聞いた。
声は、震えていた。
それを自分でも恥ずべきだと感じたが、抑えることはできなかった。
くすりという微笑みが、聞こえて、
「"蜘蛛"と言えば、わかるかしら」
「……な……」
鷲宮は、己の耳を疑い、そして、言葉を失った。
「"天宮殿"の神官……だと!」
と、鷲宮は、呻くように、言った。
「そう呼ばれもするわね」
「馬鹿な……何故、こんなところに?」
「さあ、何ででしょうかね」
と、声は、鷲宮をからかうような調子だった。
その余裕には、力量差の自覚どころか、相手を、つまりは鷲宮を、一個の存在として認識していない冷淡さが滲んでいた。
風が、吹いた。
風の流れに乗って、相手の纏う魔力の糸が、ざわりと揺れる気配を、鷲宮は感じ取った。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
鷲宮が、吼えた。
怒りではなく、恐怖から逃れようとする、原始的な咆哮だった。
鷲宮の影が、電波を受信できない時のアナログテレビの画面の砂嵐のように、濁った。
その濁りは影自身が怯えて震えるような、醜悪な波紋となった。
「消えろぉおおお!」
突如、鷲宮自身の影からつくり出された、影の針が、声の主に、襲いかかった。
相手を、影の針が、ざっくりと貫いた。
そう、貫いたはずだった。
「……ああ」
と、鷲宮は、絶望の声をあげた。
「拍子抜けもここまでいくと、楽しめもしないわ」
相手は、全くの無傷だった。
貫いた影の針は、相手の体に触れた瞬間、何かに吸い込まれるように、消えてしまっていた。
「"爛の王"の中でも、とりわけ力の有る十二の勢力"円卓会議"の王……その第十一座、と言っても、所詮、この程度なのね」
と、声の主は、失望のため息を、漏らした。
「あなた個人には、関心はないのだけれども、この地で、色々と動いたのは、感心しないわ」
鷲宮は、声の主が、だんだんと、自身に近付いてきているのを、感じた。
足音はしない。
それでも、距離だけは、確かに詰まっている。
「それに、あの倉嶋の力は、私が、遊ぶの」
暗く沈んでいる水のような濁った声は、それでも、澄んでいた。
「倉嶋の秘宝“空色琥珀”は、私のものよ」
まるで深海の底から聞こえる歌声のように、心を凍らせるような清廉さだった。
「楽しみにしていた玩具に、お手付きをされてしまったのだから、その心情は、察してね」
声の主は、細く白い、右手を、鷲宮に向かって、開いた。
「消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ!」
鷲宮は、もうわめいていた。
その声は、涙に濡れた子供じみた悲鳴で、自分でも制御できなかった。
「消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ! 消えろ!」
絶叫だった。
影が暴走し、周囲の地面を削りながら、針を形成しては、打ち出す。
「消えろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
と、鷲宮は、叫んだ。
鷲宮自身の影から、つくり出される影の針は、声の主に届く前に、次々と、打ち砕かれた。
見えない障壁に触れるたび、影は薄い煙となって散り、地に落ちることすらできず、ただ消えた。
「"影法師"の魔法。少しは、私の魔術探求の糧になるかと思ったのだけれども、とんだ期待外れだわ」
鷲宮のつくり出した影の針が、砂のように、舞い上がって、霧散していった。
「……ぁ……」
声にならない呻きが、鷲宮の喉から漏れた。
「さて、私がここにいる意味が、もうあなたにもわかるでしょう?」
「……やめ……ろ……」
鷲宮の口が、震えた。
影が逃げようと蠢くが、主より先に恐怖に屈しているのがわかる。
「貴方の、顕現の理の残滓。残り滓だけれども、奪ってあげるわ。感謝なさい」
「……やめ……」
鷲宮が、最後に見たものは、自身に静かに伸びてくる、細い糸、だった。
その糸は、夜闇よりも細く、月光よりも白く、触れられる前から彼の存在をゆっくりと剥いでいく。
そんな悪寒を、まとっていた。





