第6話 守護者の鼓動 8
影が、ざわりと揺れた。
空気が変わった。
夜気がざらつく。
葉坂学園の屋上である。
夕闇が、校舎の端から端へと、ゆっくりと滑り落ちていく時間帯だった。
風は、高く冷たく、昼の熱をどこか遠くへ押しやってしまったようで、屋上のコンクリートは、ひんやりとした湿り気を帯びていた。
校舎の壁面が、風に押された雲の色を受けて薄紫に染まり、フェンスの影が長く長く伸びていた。
その影は、学校という静かな箱庭のゆらぎを描くように、微細に震えていた。
この屋上は、地上の喧噪から切り離された、ひどく孤立した空間だった。
綺亜は、その孤立を自分の心と重ねていた。
綺亜を、後ろから、抱いたのは、彼方だった。
突然ではなく、けれど唐突とも言えるような、静かな抱きとめだった。
肩に触れた腕の重さ、背中に当たる胸の鼓動、それらすべてが、綺亜の緊張した身体を支えていた。
その瞬間まで、屋上の風はただ冷たかったはずなのに、後ろからふっと温もりが差し込んだように感じた。
綺亜は、小さく息を呑んだ。
(彼方……)
振り返らなくても、自身の背中を支えてくれているのが、彼方だとわかった。
ふわりと頬に触れた彼方の呼気が、耳の後ろの肌をくすぐる。
胸の奥に残っていたざらつく不安を、ゆるやかに溶かしていく。
抱きとめ方は、決して力強いものではない。
けれども、綺亜の動揺をすべて受け止めるような、細やかで、やさしい抱擁だった。
「……どうして」
綺亜は、息にもならないほどの声でつぶやいた。
彼方には聞こえていないかもしれない。
いや、聞こえていても答えないだろう。
ただ、そっと腕を強めるだけだ。
彼方に、後ろから、抱きとめられている恰好である。
綺亜は、俯いた。
震えるまつ毛が、風に揺れた。
(来て……くれたんだ……)
と、綺亜は、思った。
信じてはいけないと思いながら、どこかでずっと、来てくれると期待していた気持ちに、自分で、驚きさえしていた。
ほんの少し前まで、屋上の扉の前で、一人で耐えるつもりでいた。
鷲宮と自分の戦いなのだと、そう言い聞かせていた。
彼方には関係ない、自分一人で終わらせるべきだ、と、そう思っていた。
だが、抱きとめられて、綺亜の胸の奥にまず走ったのは、安堵だった。
その感情に気づいた瞬間、胸が苦しくなった。
彼方の手が、綺亜の手に、触れた。
指先が触れ合った瞬間、綺亜のこわばった指が、小さく跳ねた。
「大丈夫?」
と、彼方が、言った。
その声は、驚くほどに穏やかで、しかし、綺亜の震えを敏感に捉えた優しさで、満ちていた。
その一言が、崩した。
胸の奥に押し込めていた緊張と恐怖が、すべてほどけてしまったようだった。
綺亜は、自然と、涙が、こぼれていた。
こぼれた涙は風に乾き、次の涙が、また頬を伝った。
「綺亜……?」
彼方の顔が、綺亜のブロンドの後ろ髪に、当たった。
かすかな触れ合いが、かえって綺亜の心を、揺さぶった。
「か、勘違いしないでよね! ……泣いてなんか、いないんだから……!」
綺亜の否定の言葉に、彼方は、苦笑した。
それは、見慣れた、けれども、今の綺亜にはどこか傷みに寄り添っているような微笑だった。
「泣いてても、泣いてなくても、どっちでもいいよ。ここにいるから」
その小さな声に、綺亜は、さらに息を詰めた。
そんな言葉は、欲しくない。
そう言い返したかった。
でも、胸が熱くて、声にならなかった。
綺亜は、
「もう、立てるわ」
と、言って、立ち上がった。
しかし、その膝は一度、小さく震え、なんとか立ち上がったにすぎないことを示していた。
彼方は、綺亜の横に並んで、七色の剣を、構えた。
夕闇の中で、剣の光りは、静かに存在を主張していた。
その光はまるで、薄闇に穴を穿つように鮮烈だった。
綺亜は、彼方の持つ七色の剣に目を奪われ、声を失った。
「その剣って……」
と、綺亜が、驚いて、言うと、
「うん。御月さんが、僕に、渡してくれたんだ」
と、彼方が、言った。
その横顔には、決意と、ほんの少しの恐れが混ざっていた。
それでも逃げないという意思が、はっきりとあった。
(どうして……)
綺亜は、胸を締め付けられた。
七色は片手で扱っている、双剣の内の一振りだ。
だが、彼方にとっては、とてつもなく、重い。
それこそ、両手で、一振りの剣を支えるのが、やっとである。
握りしめた手の関節が、白く浮き上がっていた。
(やっぱり、重いな)
と、彼方は、思った。
自身の腕の震えが剣に伝わり、剣身がわずかに揺れた。
剣の重たさに、彼方の脚は、ふらついていた。
先程の廊下での戦いもあり、彼方の身体は、大分、疲弊していた。
胸が上下し、呼吸は浅く、汗が顎から一滴落ちた。
それでも、彼方は、退かない。
綺亜は、その姿を横目で見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
守りたかったのに。
守られる側でいてほしかったのに。
どうして、こんなにも。
その時、
「武器もろくに構えられない、三下が、出てきて、一体何のつもりですか?」
と、鷲宮は、あざ笑った。
鷲宮の嘲りは、冷気のように屋上の空気を切り裂き、綺亜の背筋を震わせた。
その声は、ただ笑っているだけではない。
好意も悪意もない。
純粋な侮蔑だけが、そこにあった。
だが、彼方は揺るがなかった。
彼方は、対峙している相手を、見据えた。
揺れる視界の中で、それでも瞳だけは静かに燃えていた。
彼方は、
「お前を、倒すつもりだ」
と、言った。
その言葉は、力強くはなく、静かだった。
だが、決して揺らいでいなかった。
風が止んだように感じられた瞬間だった。
屋上の世界が、彼方の声に、反応して沈黙したかのようだった。
やがて、
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
鷲宮の哄笑が、風に、乗った。
不自然なほど長い笑い声が、耳をつんざく。
それは人間の笑いというより、機械が壊れたような、底冷えする響きだった。
そして、唐突に笑いを止めた鷲宮が、真顔になり、冷たい声で、
「笑えない冗談だ」
と、言った。
言葉は鋭く、風より冷たく、綺亜の胸を凍らせた。
彼方は、黙ったままだった。
しかし、沈黙は、弱さではなかった。
綺亜には、それがわかった。
(……怖くないの?)
彼方の背中は、どこか震えているように見えた。
疲労しているのも知っている。
それでも一歩も下がらない。
そこにあったのは、諦めでも虚勢でもない。
意志だった。
「"月詠みの巫女"や"守護者"が、叶うこともない、哀れな、勝利の宣言をするのならまだしも、何の力も持たない一般人風情が喚くとなると、憐憫を通り越して、不愉快ですらある」
と、鷲宮が、言った。
冷酷な言葉が、容赦なく彼方に突き刺さっていった。
だが、彼方は、動じず、ただ綺亜の前に立ち続けた。
綺亜は、唇をかみ、声を震わせながら、
「……何をしに、来たのよ」
と、鷲宮に向いたままで、彼方に、言った。
怒りと不安が入り混じったその声は、綺亜自身が驚くほど弱かった。
本当は叫びたかった。
来ないでほしかった。
でも、来てくれて嬉しい。
相反する気持ちが胸の中で暴れた。
「この敵は……私が、片付ける」
綺亜の言葉は、強がりにすぎなかった。
彼方は、それを見抜いていた。
「綺亜」
と、彼方は、呼びかけた。
その声は、いつもの柔らかい調子ではなく、静かで、強く、迷いのないものだった。
「今から、僕の言う通りに、してほしい」
「何を、言って……!」
彼方に振り返った綺亜は、その表情を見て、小さく口を開いた。
彼方の目には、迷いがなかった。
風が強く吹いた。
クラブ棟のガラスがわずかに震え、屋上のフェンスの金属がきいと鳴った。
その中で、彼方は、綺亜だけを見ていた。
「綺亜が、商店街で、男の子達を守ったのを見て、格好いいと思った」
綺亜の瞳が揺れた。
胸に触れた言葉の温度に、戸惑いが混ざった。
(な、何を……いきなり……)
「女の子にとって、格好いいという言い方は嬉しくないのかもしれないけれど、そう思ったんだ」
と、彼方は、綺亜に向き直って言った。
その目には飾りがない。
ただ、ありのままの言葉だけがそこにあった。
「……」
綺亜は息をすることすら忘れ、彼方の言葉に耳を奪われた。
「そうかと思えば、この前の落成式の時のドレス姿を見たら、本当に、素敵な女の子で、綺麗だなって思った」
綺亜の顔は、紅潮していた。
頬に触れる風さえ熱く感じられるほどだった。
(や……やめ……!)
胸が痛いほど熱く、苦しい。
彼方は、素直に、自身の気持ちを、伝えてきてくれている。
自分は、どうなのだろうか、と、綺亜は、思った。
好きなのか。
守りたいのか。
ただ、放っておけないだけなのか。
わからない。
でも。
彼方の柔らかな笑みに、綺亜の口元が、わずかに揺れた。
(私は……)
「綺亜は、自分が"守護者"だって言ってくれたけれど、僕は"守護者"の綺亜のことを、まだよく知らないんだ」
「……」
風が二人の間を通りすぎる。
鷲宮は沈黙し、ただ眺めるだけだった。
「僕が、知っているのは、今言ったような綺亜、だよ」
彼方の目は真剣だった。
ふざけているわけでも、慰めようとしているわけでもない。
ただ、綺亜という人を想って、言っている。
「"守護者"とか使命とか、そういう話は、僕にはわからない」
と、彼方が、言った。
「でも、綺亜がそれを大切にしていることは、よくわかる」
その言葉は、綺亜が長いあいだ誰にも理解されなかった痛みを、そっと撫でるような優しさがあった。
「それでも、使命は綺亜自身じゃない」
「あ……」
「綺亜は、綺亜だよ」
綺亜は、その瞬間、胸の奥の何かが丁寧に解かれていく感覚がした。
張りつめていた糸が、ゆっくりと緩むように。
「……」
「綺亜」
と、彼方は、静かで強い声で、呼びかけた。
その声に、綺亜は押されたように一歩後ろに下がりそうになった。
「聞いてくれ」
小さく、しかし温かい声で、彼方は続ける。
「あいつの言うように、僕は三下だ。ほとんど戦力にはならないと思う」
と、彼方は言った。
「でも、だからこそ、チャンスがあるんだ」
鷲宮が眉をひそめた。
彼方は、鷲宮を見据えたまま、
「チャンスは、きっと一度きりだ。あいつが侮って、油断している、今の一度だけの好機なんだ」
綺亜の心臓が、跳ねた。
「……何をするつもりなの?」
声が、震えた。
彼方は、綺亜に一つだけ頼みを伝えた。
「綺亜、頼みがある」
「……そんなことをして、何の……」
「僕を、信じて」
その瞬間、綺亜の胸に強烈な痛みが走った。
信じて。
その言葉は、綺亜が、誰かに言いたかったのに言えなかった言葉だった。
自分がずっと欲しかった言葉でもあった。
言うや、彼方は、飛び出していた。
「いくぞ、"爛の王"!」
と、彼方が、叫んだ。
綺亜は息を呑み、腕を伸ばし、届かなかった。
「彼方っ……!」
風が吹き荒れ、夕闇が揺れた。
彼方が、七色の剣を構え、鷲宮に向かって奔った。
屋上の床を叩く足音が、ひどく軽く、なのに痛々しかった。
本来なら、重い剣を持って走れる体力など残っていない。
それでも、彼方は止まらなかった。
鷲宮が、ゆっくりと片眉を上げた。
「騎士気取りなのは、褒めてあげましょう」
口調は相変わらず余裕に満ちている。
その余裕が、綺亜の胸を苛立たせ、同時に恐怖で締め付けた。
「滑稽な踊りを、私に見せてくれるのですからね」
鷲宮の影が、ひどくゆっくり揺れた。
夕闇で濃くなり、形が曖昧になり、屋上一面に薄く広がっていく。
彼方の影が、屋上のフェンスの影と、重なった。
影と影が混ざり合い、形が判別できない。
「彼方……!」
綺亜は、叫んだ。
声が風にさらわれるほど細くなっていたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
影に近づけば、その瞬間に千切られる。
そんな予感が、本能に突き刺さっていた。
(やめて……! 影に触れたら……!)
しかし、
「……大丈夫! この影は、ただの案山子だ……っ!」
風を切るように、彼方は叫んだ。
「攻撃は、こない!」
綺亜の心臓が、一瞬止まったように感じられた。
(鷲宮の魔術を見破った? この短時間で?)
思考が、ぐるぐると回る。
(そんなはず……)
しかし、確かに影は動かなかった。
鷲宮は、影を使って攻撃を仕掛ける素振りがない。
綺亜は一瞬、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(彼方……どこまで見えて……)
その刹那。
「特攻するだけか。まあ、良い。死になさい」
鷲宮の影が、電波を受信できないときのアナログテレビの画面の砂嵐のように濁った。
綺亜の腕に鳥肌が立った。
空気がひしゃげ、屋上全体がきしむ音すらした。
鷲宮の影が、震えて、隆起した。
影の中から生き物のように盛り上がり、黒い針の莚がつくり出されて、彼方を覆った。
影の針は、逃げ道を塞ぎ、一斉に獲物を貫く殺意の返し針だ。
綺亜も体育館で受けたあの圧迫感を思い出し、息を失った。
(間に合わない……!)
彼方は、影に飲まれかけていた。
しかし、
「今だ……綺亜!」
彼方が叫んだ。
その叫びは、綺亜を激しく揺さぶった。
信じて、と言われたあの瞬間から、綺亜は、逃げ場を失っていた。
もう逃げるつもりもない。
「……っ! わかった!」
綺亜は右手を振り、詠唱するでもなく、意識で紋を描く。
手元に、青白い一本の線ができていた。
魔術による、機雷術式の爆導線“スティングレイ”の起動紐だ。
瞬時に狙いを定め、綺亜は叫んだ。
「“スティングレイ”、起動しなさい!」
風が、逆巻いた。
綺亜の放った、青白い雷光の線が、空間を薙いだ。
その閃光は瞬間にして影を引き裂き、屋上を濃淡二色に染めた。
ストロボのような激しい閃光が、一帯を、包み込んだ。
「何っ!」
と、鷲宮が、驚愕の声をあげた。
影を操る者にとって、光は敵だ。
方向を失えば、影の形が崩れ、攻撃も、制御不能になる。
彼方を囲っていた針の莚が、ぐにゃりと歪み、影が大きく揺らいだ。
不意をつかれた鷲宮が、吼えた。
屋上のフェンスの影がびり、と裂け、風が鋭く逆流した。
そして。
影の針が、彼方の身体と重なった瞬間。
血飛沫が、あがった。
「彼方っ……!」
綺亜の叫びは、風にのって震えた。
「この……自殺願望者が……っ!」
と、鷲宮が、怒鳴った。
鷲宮の胸と脚を、そして彼方の左腕を、影の針が貫いていた。
本来は、彼方だけを貫くはずの影の針。
だが、雷光が陰影をひっくり返したことで、鷲宮自身の影が反転し、自らを刺した。
(そんな……こんな芸当、普通の人にできるわけが……)
綺亜は震える唇を噛みしめた。
そのとき、傷ついた彼方が、吐息のように言った。
「お前は、弱い」
鷲宮が、目を、見開いた。
声の力は弱いのに、言葉は重く、確信に裏打ちされていた。
「お前自身は、恐らく弱い」
鷲宮の顔がわずかに引きつる。
「……何を……」
「だから、影を、頼るんだ」
彼方は、痛みを忘れるかのように、大きく息をついてから続けた。
綺亜には信じられなかった。
この状況で、彼方は、まだ思考した。
鷲宮の戦闘スタイルを解析し、弱点を導き出した。
「商店街での三人組の男たち、そして体育館の生徒たち。どちらの場合でも、お前は表に出てきていない」
「……」
「“影法師”で他人を操り、対象を襲わせる。間接的な戦闘しかしていない」
鷲宮の顔が、歪む。
(……彼方は……戦い慣れているわけじゃない。ただ、情報をつなげて……)
綺亜は、息を呑んだ。
彼方は、鷲宮を見据え、言葉を続ける。
「お前は体育館の壇上で、手を抜いてと言ったけれども、違う」
言いきった彼方だった。
「それが、お前の採れる最上の戦法だったからだ」
鷲宮の影が、怒りで震えた。
「そして、人が多い商店街で襲ったのも、理由がある。体育館でのことも、主催したパーティー、なんかじゃない」
彼方は、鷲宮に向かって歩み寄るように、一歩踏み込んだ。
「それが、お前が最も効率的に戦える場所だったからだ」
綺亜は、影から立ち上る煙のような揺らぎを目を凝らして見つめた。
彼方は、真っすぐに前を捉えたまま、
「“影法師”を使っている間、お前自身は、あまり動けない」
と、言った。
その言葉に、鷲宮は、一瞬だけ目を揺らした。
「そんなお前にとって、人が多い空間は有利だ。影を縛る人数が増え、その影の混乱で、自分の位置を隠せる」
彼方は、徐々に言葉に力を帯びていく。
「そして、操れる影には、制限がある」
「……く……」
「この夕闇の屋上には、影がいくらでもあるのに、お前は使ってこなかった」
彼方は、傷口を押さえながら、声を上げた。
「フェンス、ベンチ、給水塔……どれも影としては濃いはずなのに、それを攻撃に使わない。つまり……」
鷲宮が、歯軋りした。
「無機物の影は操れない。有機物だけだ」
綺亜の背中に、冷たい衝撃が走った。
言われてみれば、確かに鷲宮の攻撃は、生物の影にしか反応していない。
「だから、この屋上で、お前がつくれる影の針は、僕か、お前自身の影からだけ」
鷲宮の影が、震えた。
「用心深いお前の性格だ」
彼方の分析は、冷静だった。
「突っ込んでいく僕の影から針をつくるより、安全に、自身の影から迎撃すると予測できた」
綺亜は立ち尽くしたまま、その背中を見ていた。
痛みに膝をつきそうな身体で、それでも、綺亜を守るために戦っている。
綺亜は、自身の胸が震えているのを感じた。
彼方は、鷲宮を見すえて、
「後は、攻撃のタイミングはわかりやすい」
鷲宮が、低く唸る。
「屋上。こんな人気のないところで待ち構えたのは、失敗だったな。“爛の王”“虚影の指揮者”鷲宮イクト」
「……三下があああああああああああああああああああ!」
鷲宮が、吠えた。
「終わりだ」
彼方が、剣を、両手で、振りあげた。
「はあああああああっ!」
彼方の握った剣が、暗闇を、薙いだ。
「馬鹿な……あああああああああああああああああああああっ!」
鷲宮の身体が、ゆっくりと崩れ落ちていった。
イチョウを思わせる黄金色の輝きが、鷲宮の身体を包み込んでいく。
その像が、はらはらと夜の闇に溶け込んだ。
黄金の光に、彼方は、目を細めた。
(……また、か……)
と、彼方は、既視感を覚えた。
(……僕は、何を、見ているんだ……?)
彼方の目の前に、風景が、拡がった。
おぼろげな輪郭は、とてもリアルだった。
輪郭は、霧のゆらめきの中でもはっきりと浮かび、まるで夢と現実の境界を曖昧にするように、彼方の視界へ、ゆっくりとにじみ出してきた。
天を貫く垂直にそびえる巨大な針が、見えた。
針は、天空に向かってまっすぐに伸び、その表面は冷たい金属の光沢を帯びていた。
凍えるような硬さと、古代の儀式めいた厳粛さを備えているように思えた。
針と交差する線が、もやにかかりながら、見えた。
その線は、天と地をつなぐように横たわり、ゆるやかな角度で針と重なって、幾筋もの構造を形作っていた。
もやがそれらの線を包み込み、幽玄な光の筋を落としていた。
もやは、揺れる光のカーテンであり、様々な色をたたえたオーロラのようだった。
色彩は、淡い青から紫、橙、翡翠、そして銀へと連続して変化し、まるで生きているかのように脈打って見えた。
その光は冷たいはずなのに、どこか暖かく、誰かの呼吸に似たゆるやかなリズムで揺れていた。
オーロラに囲まれた、針を携える建造物が、あった。
建造物は、神殿にも城塞にも見えた。
神聖なものと、残酷なものの気配が同居し、そこに存在するだけで、世界の何かを量ろうとしているようだった。
(……この形は……天秤……?)
彼方の脳裏に、そんな思念が浮かびあがる。
まるで誰かがそっと耳元でささやき、思考を誘導するかのような妙な感覚だった。
人影が、見えた。
その姿は、もやの向こうにぼんやりと滲み、輪郭が光に包まれていた。
それが、少女であると、彼方には、わかっていた。
理由は分からない。
ただ、確信だけが胸に宿り、少女の存在は初めから、そこにあるもの、として、その光景へ溶け込んでいた。
少女の桜色の髪と、白い百合を思わせる髪飾りが、揺れていた。
髪は風もないのにふわりと揺れ、そのたび髪飾りの白が淡い光を反射し、オーロラの中で花弁のように舞った。
淡い装束に身を包んだ少女の肌は、雪のように、真っ白に透き通っていて、美しかった。
その肌の透明さは、存在がこの世界のものではないと示唆しているようでもあった。
呼吸しているのかすら分からない静謐な気配が、少女の周囲に淡い膜のように漂っていた。
少女は、憂いを湛えた瞳を閉じて、両手を組んで、祈った。
ただの祈りではなく、時を超えて受け継がれた儀式の一部のように思えた。
沈黙すら神聖な音に変わるほど、その所作は美しく、どこか悲しげだった。
少女の祈りの前に、そびえたつ巨大な天秤の針が、僅かに、動いた。
それは金属音を立てるでもなく、静かで、それなのに世界が震えたように感じられた。
大気が一瞬だけ収縮し、重力が変わったような錯覚すらあった。
少女の小さな唇が、動いて、言葉が、紡がれた。
「世界に、星々の審判を」
それが、少女の、言葉だった。
声はかすかだったが、宇宙全体に響き渡るように思えた。
意味の深さと重さが、胸を締め付けた。
再び、視界は、黄金色から白色に染まっていき、何も、見えなくなった。
光はすべてを飲み込み、音も感覚も薄れ、漂うような無重力が彼方の意識をさらっていった。
彼方は、我に返った。
まぶたが重く、世界の輪郭はにじみ、しかし確かに現実の匂いがした。
(……眩しい……)
と、彼方は思った。
光の残滓が視界を刺し、夢とも幻ともつかぬあの光景が、まだ目の奥に焼き付いていた。
鷲宮は、立ち上がって、光に焼かれながら、おぼつかない足取りで、後退した。
身体を支える力が抜けかけているようで、それでも、その瞳だけは異様な輝きを宿したままだった。
「……私の勝ちのようですね」
と、鷲宮は、言った。
喉の奥で笑いが震えているような、壊れた音色の声だった。
「何を言って……」
と、彼方は、言った。
言葉を絞り出すたび、胸が痛んだ。
状況を理解しようとしても、頭がまだ現実に追いつかない。
「私の最後は、私自身の手で決めると……そう言ったのですよ」
鷲宮は、狂気に引きつった笑みを張り付かせたまま、
「それでは、失礼」
その声はあまりにも軽かった。
鷲宮は、そのままふらふらと、後退していった。
足は震え、体は傾き、それでも前へ、いや、後ろへ、闇へ、消えた。
屋上の端の先には、ただ闇が、広がっていた。
風が吹き抜け、その境界を薄く震わせるだけで、そこには底のない夜が待っていた。
鷲宮の身体が、一瞬宙に踊って、すぐに見えなくなった。
音はなかった。
叫びもなかった。
あるのは、落ちていく影の残像だけだった。
屋上での今までのことがなかったようにも思わせる、静寂が、辺りを、包み込んだ。
空気は固まり、時間が止まったようだった。
彼方は、ただ、その場に取り残された。
「何とか……なった、か」
と、彼方が、自身に言い聞かせるように、言った。
だが、声には確信がなかった。
むしろ身体の震えが、言葉の薄っぺらさを暴いていた。
彼方は、血の止まらない自身の左腕を、見て、
(まずい、な……)
と、思った。
血は指先へと流れ、地面へ落ちて黒い染みを広げた。
彼方は、ふらりと、倒れ込んだ。
体重を支える力が消え、膝が崩れ、そのまま重力に引かれるように倒れた。
(身体が……重い……な……)
意識が深い水に沈むように、ゆっくりと薄れていく。
痛みすら遠ざかり、冷たさだけが鮮明だった。
彼方は、気付くと、背が冷たかった。
コンクリートの温度が、冬の空気のように肌を刺す。
その冷たさが、意識をかろうじてつなぎとめた。
「ばかっ」
聞きなれた声が、彼方の耳に届いた。
その声は震えていて、怒りと不安と悲しみが混ざっていた。
彼方は、綺亜の膝を枕に、自身が、横たわっているのは、わかった。
彼女の体温が、微かに伝わり、不思議と安心感が胸に広がった。
「無茶……しすぎよ」
綺亜の声は、涙をこらえながらも、なんとか冷静さを保とうとしているようだった。
彼方は、頬に冷たいものを、感じた。
それは夜風ではなかった。
指先が触れ、液体が伝う感触があった。
掠れた目で見上げると、月の光に照らされた綺亜の顔が、あった。
彼女の髪は夜風に揺れ、月光を受けて銀色に光り、表情はいつにも増して儚かった。
綺亜の泣き顔が、あった。
その涙は、彼方の頬に落ち、冷たく、それでいて胸の奥が痛むほど温かかった。
「ばか……ばか……!」
綺亜の声は震え、涙をこらえることをやめたように、ぽろぽろと落ちていった。
泣いているの、と、彼方は、聞こうとしたが、声にならなかった。
喉が乾き、唇は動いても音を出せず、ただ綺亜の表情だけを見つめることしかできなかった。
彼方の意識は、再び、遠のいていった。
視界がふわりと暗くなり、遠くで誰かが呼ぶ声だけが、優しく、揺れていた。





