第6話 守護者の鼓動 5
体育館を出た、朝川彼方は、廊下を、進んでいた。
進んでいる、その足取りは、一歩一歩踏みしめるようで、速くはなかった。
彼方は、焦燥感を感じながら、
(早く、綺亜を、見つけないと)
と、思った。
気持ちは、焦るものの、肝心の足取りが、追いつかないのである。
体育館での出来事で、彼方は、打撲を負っていた。
(僕は、何をしているのだろう?)
自問しても、答えは、出てこなかった。
普段、学園で顔を合わせている面々が、"爛"という非日常に、囚われた時、七色や綺亜が、傷つきながら、戦っている時に、彼方は、何もできなかった。
(僕は……無力だ)
考えても、答えに辿りつけそうにない、自身への問いの繰り返しと、無力感が、じんわりと、彼方を、包んでいた。
普通の学園の風景が、まるで嘘か幻に思えるように、彼方の中で、不安定な気持ちが、ずっと燻っていた。
(違う)
と、彼方は、頭を振った。
彼方は、自身に、言い聞かせるように、
(これは、今、この場だけの風景なんだ)
日常という世界の外には、非日常という世界が、あった。
非日常という世界は、存在していて、彼方が、そのことを、知らなかっただけである。
"月詠みの巫女"御月七色との出会いが、あった。
世界の理の外の存在であるという"爛"との遭遇が、あった。
倉嶋綺亜との出会いが、あった。
"爛"の高位の存在であるという"爛の王"との遭遇が、あった。
そして、今、この葉坂学園は、その"爛の王"の脅威に、晒されていた。
全てが、交じり合って、キャンバスを、新たな色で塗り替え続けているようなイメージに、彼方は、戸惑った。
彼方は、一振りの剣を、引きずるように、持って、進んでいた。
七色から渡された剣は、とても重く、両手で抱えるのが、やっとである。
彼方は、剣を、見た。
(当たり前だけれども、僕には、御月さんのように、この剣を、扱うことはできない)
と、彼方は、思った。
七色が"爛"との戦いで振るっていた剣を、彼方は、何度か、見てきた。
"爛"高瀬容之、"爛"化した春野美香、との戦闘である。
七色の華奢な身体から繰り出される、銀色の剣閃は、とてもしなやかで、軽やかに、彼方には、見えた。
肘から手の辺りにかけて、痺れが、生じていた。
廊下は、水を打ったように、静かだった。
先程の、体育館での出来事が、嘘のようである。
ただ、その静けさは、不気味だった。
静かすぎるのである。
学園は、平日の夕方で、本来ならば、授業が行われている時間帯である。
それにもかかわらず、人の気配が、希薄だった。
散発的に、激しい音が、聞こえてきた。
彼方は、薄ら寒さを、感じて、
(奴は……"虚影の指揮者"鷲宮イクトは、この葉坂学園の人達全てを、"影法師"で、縛ったっていうのか……)
と、思った。
彼方は、無言で、階段を、上がった。
彼方自身の足音だけが、ゆっくりと、響いた。
(綺亜は、どこに、行ったのだろう?)
鷲宮を追って、体育館を、飛び出したのは、間違いない。
しかし、飛び出した先が、わからない。
彼方には、見当もつかなかった。
「音が、頼りかな……」
と、彼方は、ひとりごちた。
何か音がすれば、そこで、何かが起こっている可能性が、高い。
彼方は、耳をすませながら、先に、進んだ。
学園の三階の廊下である。
窓から見える空は、夕闇に、染まりつつあった。
季節柄、陽が落ちるのが、早いのである。
いくつかの教室の中を、恐る恐る覗くと、教師と生徒達は、気を失っているようだった。
全員、一様に、その影が、操影の魔術"影法師"に、縛られているようである。
先に進むと、生徒達が、廊下に、倒れこんでいた。
教室にあるはずの机や椅子が、散乱していた。
中には、大きく形が、変わっているものもあった。
(ここで、何か、あったらしい)
と、彼方は、思った。
突如、倒れていたはずの一人の男子生徒が、起き上がって、彼方に、襲いかかってきた。
突進を真正面から受けた、彼方の身体は、簡単に、吹き飛んで、廊下に、叩きつけられた。
彼方の背中を、重たく鈍い痛みが、襲った。
(まず……い)
剣は、彼方を襲った生徒と彼方の中間付近に、投げ出されていた。
吐き気が、彼方を、襲った。
(……立てない……)
何とか、僅かに、首をもたげると、ゆっくりと、生徒が、迫ってきていた。
廊下の掲示板には、前回の、園内テストの成績優秀者の名前が載った紙が、貼られていた。
彼方の成績は、学年で上位十番以内から、こぼれたことはなかった。
ただ、与えられた宿題や課題は、きちんとこなすものの、それ以上は踏み込まない、そんな調子の勉強姿勢なので、模範生や優等生の性質とも、少し離れていた。
白濁する、彼方の意識の中で、同じ天文部員の好峰杏朱とのやり取りが、浮かんでいた。
『それにしても、貴方は、やはりエリカなのかもね』
『いいえ、それとも、ヤナギかしら』
『何だろう、それ』
『だから、今読んでいる、他愛のない本、花言葉大全。これによると、エリカは博愛、ヤナギは自由』
『僕が、そうだって?』
『ええ。誰にでも、穏やかに接するものの、その実、中身は、本当は、とっても自由でとらえどころがないの』
彼方は、廊下の天井を、見ながら、
(誰にでも、穏やかに接するものの、中身は、とらえどころがない、か……)
と、思った。
(杏朱の見立ては、正しくて、きっと、僕は、良い顔をしがちな、風見鶏なんだろう)
彼方は、剣を、見た。
「それでも……」
と、彼方は、声に、出していた。
剣を彼方に託した時の七色の目は、いつも通りだった。
「僕は……」
七色の目は、無機質で、まっすぐだった。
「僕自身に、できることをしたい……っ!」
それは、確かな、能動的な、彼方の意思だった。
彼方は、起き上がって、奔った。
操影の魔術"影法師"に縛られた生徒は、一瞬、彼方の気迫に圧されたが、ゆっくりと、臨戦態勢を、とった。
無我夢中に奔った、彼方は、剣を、再び、掴んだ。
「ああああああああっ!」
自身でも、初めて聞くような声を、彼方は、あげていた。
彼方は、剣を両手で、振りかぶって、そのまま、"影法師"に縛られた生徒の影に、突き立てた。
回線が切れたような鋭い音が、した。
生徒は、大きく吼えた後、その動きが、ぴたりと止まった。
乾いた雑音が、響いた。
生徒の影の、電波を受信できない時のアナログテレビの画面の砂嵐が、一際激しく揺れて、やがて、かき消えた。
静寂が、訪れて、生徒は、昏倒した。
「……っはぁっ……」
彼方は、自然と、息を、漏らしていた。
「……何とか、振れた…」
と、彼方は、声に出していた。
腕の痺れが、若干、弱まっていた。
突如、廊下に、微弱な揺れが、奔った。
それと同時に、彼方の視界が、眩く揺れた。
彼方の視界が、イチョウを思わせる黄金色に輝き始めた。
「……これは……」
と、彼方が、言葉に、詰まった。
黄金の光が、彼方の視界を、包み込んでいった。
(……あ……)
と、彼方は、既視感を、覚えた。
捉えようのない感覚に、彼方は、
(また……だ……)
と、思った。
(何で、こんな時に……)
彼方の目の前に、風景が、拡がった。
おぼろげな輪郭は、とてもリアルだった。
天を貫く垂直にそびえる巨大な針が、見えた。
針と交差する線が、もやにかかりながら、見えた。
もやは、揺れる光のカーテンであり、様々な色をたたえたオーロラのようだった。
人影が、見えた。
それが、少女であると、彼方には、わかった。
少女の桜色の髪と、白い百合を思わせる髪飾りが、揺れていた。
淡い装束に身を包んだ、少女の肌は、雪のように、真っ白に透き通っていて、美しかった。
少女は、憂いを湛えた瞳を閉じて、両手を組んで、祈った。
少女の祈りの前に、そびえたつ巨大な針が、僅かに、動いた。
再び、視界は、黄金色から白色に染まっていき、何も、見えなくなった。
彼方は、我に、返った。
(今のは……)
と、彼方は、思った。
頭の中の整理が、追いつかなかった。
「でも」
と、彼方は、声を出していた。
「わかった」
確信ではなく、それは、直観だった。
"爛"の光を、彼方は、感じていた。
(今までの"爛"の散り際の光に、似ている。でも、今までに感じたこともない、強い光だ……)
と、彼方は、思った。
彼方は、剣を、握り直した。
恐らくは、"爛の王""虚影の指揮者"鷲宮イクトの力そのものだろう、と、彼方は、思った。
何故、それがわかるのか、彼方自身も、不思議に、思えた。
「綺亜は……向こうだ」
彼方は、西棟の屋上を、見据えた。
彼方には、その直感が、信じられるように、思えた。
「……待ってて」
と、彼方は、言った。




