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第6話 守護者の鼓動 6

 学園の屋上を覆う空は、ゆっくりと、しかし、抗いがたい確実さで、夜の色へと沈み込んでいく最中だった。


 夕暮れの残滓は、まだ西の端に淡い橙を残していた。


 その色は、ほんの数分前までは校舎のガラス窓に柔らかく反射し、まるで誰かの記憶の欠片のように、屋上にもかすかな温度を与えていた。


 だが、それも風に吹き散らされるように薄れてゆき、紺と黒の境界線がゆらりと揺れながら、まるで呼吸するように空を満たしてゆく。


 空は、一息ごとに色を深め、屋上の世界をじわりと閉ざしていく。


 その仄暗さの中、ネイビーのトレンチコートを羽織り、帽子を目深に被った鷲宮イクトが佇んでいた。


 屋上に吹き上がる突風が、彼のコートの裾を叩くたび、影は生き物のように揺れた。


 はためくコートの裾から覗く脚は、影そのものが形を成したかのように地面と融け合い、その身体と屋上の境界を曖昧なものにしている。


 鷲宮の視線は、ただ暗いだけではない。


 人の心をじわじわと削り取っていくような、獣の本能と人間の悪意の境界を欠いた、貪婪な光を宿していた。


 それなのに、その口元には柔らかい笑みすら浮かべている。


 その温度差が、かえって不穏さを際立たせていた。


 冷たい風が、ひゅう、と頬を撫でた。


 肌を切り裂くほど冷たいはずなのに、鷲宮の周囲の空気だけがなぜか異質に澱んでいるようで、綺亜の背筋を粟立たせた。


 屋上に満ちる空気は、沈黙が重力を持ったかのように重い。


 ひとつ息をするだけで身体が軋むほどの緊張が、世界そのものを縛っていた。


 綺亜は、その風の痛みで意識を研ぎ澄ませ、レイピアを両手で構え直した。


 呼吸は、落ち着かない。


 胸の奥が、熱く軋んでいる。


 屋上まで駆け上がった疲労が喉の奥に残っているにもかかわらず、瞳だけは揺らがず、まっすぐ相手、鷲宮イクトを射抜いていた。


 綺亜の制服の裾が風に揺れ、ブレザーの内側のシャツが胸元でふわりと波打つ。


 その小さな揺れ一つすら敵に悟られぬよう、彼女は必死で呼吸のリズムを整え、震える体幹を固めた。


「決闘と、参りましょう」


 短く、しかし確固とした声音だった。


 宣言と同時に、鷲宮のコートが、ばたばたと風に揺れた。


 その影が、地面に大きく歪んで伸びている。


 まるで、得体の知れない生物が姿を変える前の、蠢く前兆のように見えた。


「こんなことをして、学園のみんなを巻き込んで……許せない」


 綺亜は、荒い呼吸を整えながらも、責めるように言い放つ。


 声が、震えている。


 だが、怯えではない。


「あなたは、一体、何がしたいの?」


 胸の奥で脈打つ鼓動が、耳のすぐ近くで爆ぜているように聞こえる。


 その息づかいすら聞き逃すまいとするように、夜が綺亜の全身を包み込む。


 鷲宮は、肩を軽く揺らし、


「いつぞやの時に、言った通りですよ」


 と、穏やかに笑った。


「倉嶋レイアには、随分と前に借りがあるのですよ。それを返したいのです」


「あ……」


 綺亜は一瞬、言葉を失った。


 母の名を、こんな軽薄さで、しかも愉悦混じりに口にされたことへの嫌悪が、腹の底を焼く。


 鷲宮は、楽しげに続ける。


「残念なことに、当の倉嶋レイアは、過去の人だ」


 声音には、情の欠片もない。


「だが、彼女の忘れ形見である貴女は、いる」


 事実を述べているふうを装っているのに、そこに含まれる侮蔑だけが生々しく刺さる。


「格好悪いわね」


 綺亜の声は震えていたが、それは怒りが冷たく鋭く言葉を震わせているからだった。


「要は、仕返しがしたいってこと?」


 胸の奥で、まるで刃を研いでいるかのような音が響くほどの激情があった。


 鷲宮は、にやっと唇を歪めた。


「どう捉えてくれても構いませんよ。私は、私のしたいことを、するまでです」


 二人を隔てる空気がひどく薄く感じられ、綺亜は緊張を深める。


 鷲宮の攻撃、それは影を媒介とする魔術“影法師”。


 対象の影と意識を縛り、形を奪い、時に刃や縄へと変換する異質な術式。


 体育館での襲撃では、影そのものを針に変換し、容赦ない攻撃を加えてきた。


 屋上にあるものすべてが武器になりうる。


 視界の端。


 足元。


 フェンス。


 ベンチ。


 給水塔。


 階下へ続く扉の前。


 どれもが、影を落としている。


 影は、無数に散乱していた。


 どれが、牙をむくかわからない。


 それだけで、足がすくみそうな圧力があった。


(影は、たくさんある……)


 綺亜は息を整え、風上側の足場へとゆっくりと移動しながら思考する。


(どこから攻撃が来るかわからない以上、迂闊に攻め込むのは危険だわ……)


 風に押される動きを利用し、影が届きにくい位置へと身体を滑らせた。


(……フェンスの影が届いていない、この場所。ここなら視界も開けている。私の足も見える。影に取られる前に反応できる)


 レイピアの切先を、鷲宮へ向ける。


(隙を突いて、一気に決める……!)


 僅かに震えた刃が、夜の気配を切り裂くように光を返した。


 鷲宮は、肩をすくめた。


「動かないつもりですか。勇猛果敢な物言いとは逆に、何とも後ろ向きな戦い方だ」


 挑発の声に、綺亜は、目を細め、


「安い挑発はやめて。さっさとかかってきたら?」


 と、吐き捨てる。


「それも、そうですね。そちらから来ないのならば……こちらから行かせてもらいましょう」


 鷲宮が、一歩、また一歩と近づく。


 その歩みは音すら吸い込むように静かで、屋上に響くのは風と綺亜の脈拍だけだった。


 歩みは、ゆっくりなのに、影だけが先に滲み広がってくる。


「くくっ。あなたは、本当に、あの倉嶋レイアの娘なのですかねえ」


「だったら、何よ」


 綺亜が、睨み返すと、鷲宮は鼻で笑った。


「いえ。どのくらいやるのかと、少し楽しみにしていたのですが……全然、足りません」


 その瞬間。


 綺亜の足元に、異変が起こる。


 影が、伸びている。


 鷲宮の姿より先に、影だけが綺亜へ触れようとしていた。


「しまっ……!」


 影が、砂嵐のようにざざっと濁り、形を変えた。


「足元がお留守ですよ」


 鷲宮の影から縄が生み出され、綺亜の右脚を素早く絡め取る。


「あぅ……っ!」


 白い太腿に、影の冷たく硬質な圧力が食い込む。


 痛みが稲妻のように走る。


 レイピアで断とうとするが、その前に右手首が別の影の縄に捕らえられた。


「くっ……!」


 瞬間、強く引かれ、綺亜の身体が鷲宮へとくんっと引き寄せられる。


 距離が消え、影が強烈に視界を染めていく。


 息が乱れ、身体の芯が冷たく震えた。


 綺亜は、左手へレイピアを持ち替え、突きを放とうとした。


 しかし、影の剛拳が腹部に直撃した。


「……ぐ……!」


 肺から空気が押し出され、視界が一瞬で白く弾ける。


 身体の奥が揺さぶられ、思考が一瞬、空白になる。


「蛙の鳴き声のような声をあげて、お嬢様が、はしたないですよ」


 愉悦の混じる声。


 綺亜の身体が、衝撃で震える。


「弱いですねえ」


 必死で繰り出した突きをひらりと避け、鷲宮は、すれ違いざまに冷ややかに吐き捨てる。


「“守護者”の力が、この程度ですか」


 腕を掴まれ、動きを止められる。


「母親から受け継いだのは、その美貌だけですか」


「汚い顔を近付けないでよ! 汚らわしい!」


 綺亜の怒声は、震えている。


 だが、それは恐怖ではなく、母を侮辱された怒りが舌を震わせているためだ。


 鷲宮は、嬉しそうに目を細めた。


「なるほど。上品さも足りなかったようだ」


 綺亜が、膝をついたまま顎を掴まれ、顔を強引に持ち上げられる。


 視界の端で、夜が濃く、深く、渦巻くように流動していた。


 その背後で、影が濃度を増し、三本の黒い腕が、生まれ落ちるように出現した。


 輪郭の曖昧な、夜そのものの腕。


 光を吸い取り、ぬらぬらと蠢く。


 三本の腕は、ためらいなく綺亜へ向かう。


 一つは胸。


 一つは腹。


 一つは脚へ。


 質量を伴う衝撃が、襲いかかった。


「……あ……ぐ!」


 綺亜の身体が、大きく揺れ、肺に吸い込もうとした息が逆流する。


 さらに三本の腕が、同時に鳩尾へ、差し込まれる。


「……っ……ぁああっ!」


 悲鳴がこぼれ、力が抜ける。


 レイピアが落ち、カン、と乾いた金属音が響く。


 その音はやけに澄んでいて、綺亜の心をさらにえぐった。


 鷲宮は、綺亜の髪を掴み、顔を無理やり上げさせた。


「娘がこの(ざま)では、倉嶋レイアも浮かばれませんねえ」


「……っ!」


 痛みよりも、母を貶める言葉への怒りが綺亜を突き動かす。


 だが、身体が動かない。


 影が脚を縫い止め、腕を締め上げ、肺の空気すら奪っていた。


「反抗的な目だけは、一丁前ですね」


 影の拳が、再び腹へ、押し込まれる。


「……ぁっ……!」


 呼吸が乱れ、声が潰れる。


「良い表情だ。悪くない気分ですよ、お嬢様」


 淡々とした残酷な声だった。


 痛みが重なり、視界はノイズを帯び、影と光の境界が溶けていく。


「あなたは、稀代の騎士、倉嶋レイアの、残り滓です」


 遠くから響く声。


「いや。こんな出来損ないを遺した母親も、やはり、戦いに憑りつかれただけの出来損ないかな」


 綺亜の脳裏に、母の微笑みが浮かぶ。


 優しい手、強い背中。


 そのすべてを踏みにじる言葉だった。


「お母様を……侮辱……するな!」


 涙を滲ませながら叫ぶ。


 しかし、鷲宮は、容赦がなかった。


 拳が胸に叩き込まれ、呼吸が断ち切られる。


「侮辱では、ありませんよ」


「……ごっ……!」


 さらに蹴りが入り、綺亜の身体は宙を滑るように飛ばされる。


 コンクリートに転がり、痛みが全身を襲う。


 仰向けになり、もはや動けない。


 鷲宮の足音が、近づく。


 影が覆い、夜の圧が迫る。


「あまり苦しませるのも不憫だ。この辺りで終わりにしましょう」


 死の予告。


(私は……“守護者”……なのに)


 左腕で、顔を覆う。


(何も……何も……できない……)


 努力してきた日々。


 母の形見のレイピア。


 守護者として立つと誓ったのに。


(……)


 その瞬間、左肩の重みが、ふっと軽くなった。


「……え?」


 綺亜は、かすかに目を開く。


 次の瞬間、温かいものが背中を支えた。


 崩れ落ちる体をしっかり抱き留める腕。


(……あったかい……?)


 肌に触れる体温が、氷の世界に突然火が灯ったかのように感じられた。


 耳元に微かな息遣い。


 涙で滲んだ視界の中、誰かが後ろから綺亜を抱き起こしている。


 この絶望の中で、その温もりだけが、不自然なほど優しかった。


「か……な……た……?」


 綺亜の掠れた声が、確かに名前を呼んだ。

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