第6話 守護者の鼓動 2
葉坂学園の廊下では、闘いが、繰り広げられていた。
重く湿った空気が、薄い靄のように漂い、明かり取りの窓から射し込む午後の日差しが、その靄の中で揺れている。
遠くで、何かが倒れる甲高い金属音が響き、かすかに床板を震わせた。
「こんな時に、何で、昔のことなんか……」
綺亜は、小さい頃のことを、思い出していた。
胸の奥に沈んでいた何かが、無理やり引きずり出されるように、浮かび上がってきていた。
自室に飾ってある、写真の光景が、頭の隅で、残像のようにくすぶっていた。
色褪せた風景の中で、自分と、かつての家族の笑顔だけが鮮明だった。
それが、今の惨状と対比するように胸に痛む。
(集中しなきゃ……)
自分に言い聞かせるように、心の中で、呟く。
息が荒い。
息をつく間もなく、人影が迫ってきていた。
「えあっ!」
綺亜は、男子生徒の影を斬って、昏倒させた。
影が断ち切られる瞬間、黒いもやのようなものが爆ぜる。
生徒の身体から力が抜け落ちる感覚が、綺亜の手にまで伝わってきた。
体育館を出た後も、操影の魔術“影法師”に操られた、生徒や教師が、立ちはだかってきた。
その数は、廊下を進むほどに増えていき、今どこを歩いているのかさえ錯覚しそうなほどだった。
「はぁ……はぁっ」
思わず、息がもれていた。
呼吸が苦しい。
今、綺亜と相対しているのは、山本という国語の教師と、十人程の生徒たちである。
綺亜に、生気のない目が、向けられていた。
光が一滴も宿っていない、ただ虚ろな闇だけが広がる目が、向けられていた。
ぞくりと背筋が震える。
(信じられない……)
綺亜は、唇を噛んで、
(体育館の皆だけじゃなくて、もしかして、学園全体の人を、“影法師”で、縛ったっていうの……?)
と、思った。
(そうだとしたら、あの“爛の王”の力は、相当なものだわ)
これだけの騒ぎが起こっているにもかかわらず、混乱の様子がどこからも聞こえてこないことが、綺亜の予想の裏打ちのように、思えた。
普通なら、悲鳴や喧騒、逃げ惑う足音が、校舎中に反響していてもおかしくない。
だが、今は違う。
まるで世界の音が削ぎ落とされたような、異様な静寂が続いていた。
山本と生徒たちの影は、電波を受信できない時のアナログテレビの画面の砂嵐のように、濁っていた。
ゆらゆらと波打ち、輪郭が定まらず、悪意そのものの形をしていた。
「上等よ……」
誰に言うのでもなく、綺亜は、身構えた。
山本が、不安定に左右に、身体を揺らしながら歩を進めた。
その足取りは、人のものとは思えないほど不気味で、糸の切れた操り人形が無理やり歩かされているようだった。
山本の後ろには、椅子や机を軽々と持った、生徒たちが控えていた。
普段なら重くて扱いづらいはずの学習机が、今はまるで紙でできているかのように軽々と振り回されている。
山本たちの歩き方は、支点を失った、振り子のようだった。
「対象者の影と、その意識を縛る魔術“影法師”。縛りから解放するには、対象者の影を、斬ること……」
と、綺亜が、自身に聞かせるように、言った。
確認しておかないと、自分の足元まで揺らいでしまいそうだった。
「いくわよっ!」
綺亜は、廊下を、たんっと勢いよく踏んだ。
乾いた音が響き、空気が震える。
綺亜は、猛然と、奔った。
「やあああああっ!」
綺亜のレイピアが、彼女に向かって放り投げられた椅子と机を、薙ぎ払った。
木片が四方に飛び散り、床に散乱した。
「てああああぁっ!」
綺亜は、山本の身体に、拳を、撃ち込んだ。
山本は、難なく、それを受け流した。
人間離れした動きだった。
筋力だけあるのではない。
身体の軸が、異常に安定しているのだ。
(やっぱり、みんな、身体能力が、極端に上がってる……!)
少し、山本の身体が、傾いた。
綺亜は、その僅かな隙を狙った。
「もらった!」
綺亜の蹴りは、山本の肩を、掠めた。
山本は、すぐに体勢を立て直してきた。
綺亜は、更に、間合いを詰めにかかった。
山本の姿勢が、低くなった。
(まずいっ)
と、綺亜は、思った。
(誘い込まれたのは、私のほう……)
山本の肩からの突進が、綺亜に、直撃した。
「……っ!」
綺亜の身体が、大きくよろめいた。
突進の勢いは、すさまじかった。
まるで重量挙げ選手が体当たりしてきたかのような強烈さだった。
山本が、奔り込んできた。
(……このまま、迎撃するしかない!)
と、思った綺亜は、身体を沈み込ませて、逆立ちをして、開脚した。
自分でもよく反応できたと思うほどの、咄嗟の動きだった。
そのまま、綺亜は、回し蹴りを、放った。
綺亜の蹴りを、まともに受けた、山本が、倒れ込んだ。
同時に、山本の後ろに控えていた、生徒たちが、襲いかかってきた。
その時、
「相手に、なりましょう」
と、綺亜の耳に、不意に、声が、届いた。
綺亜の前に、一人の少女が、現れた。
背は、綺亜よりも、少し低いくらいの、若干小柄な少女である。
だが、その足取りには迷いがなく、まるで戦場に慣れきった兵士のような気配があった。
少女は、向かってきた男子生徒の胸倉をぐいと無造作に掴んだ。
そのまま、男子生徒の身体を軽々と片手で持ち上げた。
男子生徒を、片手で宙に吊るすように持ち上げたまま、少女は、駆けた。
少女に持ち上げられた男子生徒の身体が、生徒たちを押し倒していった。
少女は、一遍に、五人の生徒たちを、転倒させた。
「こんなところでしょうか」
と、少女は、両手のほこりを払いながら、言った。
「あなたは……」
と、綺亜が、言った。
少女は、綺亜に、向き直った。
切れ長の瞳が、強い意志を感じさせる、ロングヘアーの少女である。
その瞳は、ただ強いだけでなく、冷静さと覚悟に満ちていた。
「お会いするのは、二度目ですね。北条製薬の落成式のパーティー以来でしょうか」
麻知子に言われて、綺亜は、
「あの時の……」
と、言った。
北条製薬の落成式のパーティー会場で出会った、二人組の少女の内の一人だと、綺亜は、思い出した。
「はい。町村麻知子と申します」
と、少女が、言った。
「あなたのその力……それに、制服も、葉坂学園じゃないし……」
「そうですね」
と、麻知子は、淡々と、言った。
「私のこの力は、一般人のものではありませんし、この制服は、桶野川市の女子校の栄東学園のものです」
綺亜は、
「栄東学園……」
と、口にしながら、聞き覚えのある言葉だと思っていた。
「ええ。倉嶋綺亜さん、あなたが、形式上、半年ほど在籍していたことになっていた所ですよ」
綺亜は、少し目を見開いて、
「えっ」
と、声を上げていた。
麻知子の言っている通りだったからだ。
麻知子は、肩をすくめて、
「もっとも、出席日数は、四日でしたか」
「……」
綺亜は、麻知子が、自身の情報を持っていることに、とまどった。
「わざわざ、こんなことをお話したのは、お互いに最低限の信用を担保するためです」
「……」
麻知子は、続けて、
「かの組織の一員……と言えば、あなたにも、通りが良いでしょうか」
綺亜は、はっと息をのんだ。
その言葉は、ただの自己紹介ではなく、明確な意図を含んでいた。
「そういう、ことか……」
「そういうことです」
その時、伏したままの山本から、声が漏れて、
『仲良く、二人で、お喋りですか』
突如、山本の影が震えた。
『あまり、油断は、しないほうが、良いですよ』
山本の影が、突然、隆起して、黒色の針の群れとなった。
床の影がまるで液体のように盛り上がり、鋭利な形状へと変化していく。
麻知子は、倒れ込んでいる山本の影から作り出された針を、自身の手で掴んだ。
「なっ……」
綺亜は、驚きのあまり、言葉を、失った。
麻知子は、そのまま、拳で、影の針を、握りつぶした。
「子供だましですね」
と、麻知子が、言った。
『図に乗らないでもらいたい。組織の末端風情が』
と、“影法師”に操られた、倒れたままの山本が、忌々しげに言って、
『あなたからは、大した力を、感じませんねえ』
麻知子は、肩をすくめrw、
「確かに、組織の中では、現状、私の立ち位置は、脆弱そのものです」
と、応じた。
「ですが」
と、麻知子は、続けて、
「私が、成績を上げるには、ちょうど良い機会なのです」
と言った。
『ふむ?』
訝しげな表情の山本を、麻知子は、見た。
「わざわざ言わせないで下さいよ」
と、麻知子は、冷笑した。
「私のような末端の構成員でも、充分に足りる相手でしかないということですよ、あなたは」
麻知子の言葉に、山本は、にやっと笑って、
『それは、どうですかね』
と、言った。
不意打ち気味に起き上がろうとした山本を、麻知子は、踏みつけた。
再び倒れ込んだ山本は、
「ぎ……っ」
と、声を上げたきり、もう何も言わなくなった。
「この魔術“影法師”を仕掛けた、“爛の王”“虚影の指揮者”鷲宮イクトを、探しているようですね」
と言った麻知子は、綺亜に向き直った。
「……そのへんも、既に、把握済みってわけね」
と、綺亜は、言った。
「あなたほどのキャパシティの持ち主ならば、鷲宮イクトの居場所も、わかるのでは?」
綺亜は、
「感覚では、上のほうだということは、わかるわ……」
と、言い淀んだ。
「でも、あまり、自信はないの……」
「さすがです。私には、あなたのような感知能力はありませんが、代わりに、これが、あります」
麻知子は、タブレットを取り出した。
「なに、それは?」
「“爛”の検索システムです」
麻知子は、タブレット上のキーボードをテンポ良く、操作していった。
「まだ、試作段階ではありますが、性能には、それなりに、自信があります」
「そんなものが……」
と、綺亜が、言った。
「鷲宮イクトの痕跡を、私達は、根気よく、追ってきました」
と、麻知子が、答えた。
「それが、ここで、役立つことになりました」
言いながら、麻知子の指はすさまじい速さでキーボードを叩いていく。
淡々とタブレットを操作する麻知子は、
「わかりました」
と、言った。
「この先の、西棟の屋上のようですね」
「……ありがとう」
と、綺亜が、言った。
「ここは、私に、任せて下さい。倉嶋のご令嬢には、“爛の王”討滅を、お任せします」
綺亜は、大きく、頷いた。
胸の中で不安と決意が混ざり合いながらも、その視線は、しっかりと前を向いていた。
「それは、そうと」
と、麻知子は、言葉を切って、綺亜を、まじまじと見た。
「えっ?」
麻知子の行動に、綺亜は、当惑した。
「何ですか、その恰好は」
「……」
唐突な麻知子のツッコみだった。
「体操服にブルマ、廊下を走り回って良い服装には、思えませんが」
綺亜が、
「こ、これは!」
と、赤面しながら、言った。
「さっきまで、体育の授業だったからよ!」
麻知子は、自身が発信した質問に興味を失ったように、
「納得しました」
とだけ、言った。
綺亜が、走り出そうとしたところに、一人の少女が、駆けてきた。
「ご、ごめんねえ! 待たせちゃったよね……っ」
息を切らせながら、少女が、言った。
少女は、体操服とブルマという恰好だった。
「あなたは……あの時の……」
と、綺亜が、言った。
北条製薬の落成式のパーティー会場で出会った、二人組の少女の内のもう一人だと、綺亜は、思い出した。
「か、籠原能登です」
と、息を整えながら、少女が、言った。
能登の胸は、形が良く、豊満である。
体操服の名札が、二つの山のように隆起していて、読み取りにくかった。
麻知子は、
「何ですか、その恰好は……」
と、露骨に、不愉快な顔をしてみせた。
「ちょうど体育の時間に、招集がかかって……急いで、飛んできたんだよっ、麻知子ちゃん!」
と、能登は、言った。
まだ息を切らしたままの能登を見た麻知子は、ため息をついた後、綺亜に、
「行って下さい」
と、言った。
「え、ええっ?」
軽くスルーされた形の能登は、声を上げた。
「え、ええ」
とだけ言った綺亜は、走り出していた。
「先輩」
「う、うん……っ?」
能登は、頷きながらも、まだ息を切らしていた。
(まったくのろまな……)
能登を見すえつつ内心毒づいた麻知子だったが、
(……まあ、このタイミングなら、及第点か)
と、思い直してもいた。
「……ま、麻知子ちゃん?」
能登は、今だはあはあと肩で息をしている。
「まずは、この階の制圧から、はじめますよ」
と、麻知子は、事務的に、能登に、言った。





