第5話 影のパーティー 9
「……っ!」
七色の口から、驚きと痛みが入り混じった息が、細い笛のように、漏れた。
凛架の影から生み出された黒色の針、その細く鋭い先端が、七色のふくらはぎを、斜めに斬り裂いた瞬間だった。
七色は、灼けるような痛みに、顔を、しかめた。
針の先端が触れた、七色の左太ももから、血が、何本かの筋をつくって、滴り落ちていった。
肌の上に、まるで灼熱の糸を押し当てられたかのような感覚が走り、七色は、思わず眉をひそめた。
影の針は、斬りつけた瞬間、空気の中へ、淡く溶けるように消えていく。
だが、痛みだけは、確かに、残り続けていた。
「私は、遠慮はしませんよ」
鷲宮は、口元をいやらしく歪め、にやりと笑った。
体育館の薄暗い照明に照らされ、その笑みが、いっそう冷たく映る。
「七色!」
彼方の叫びが、響く。
声に、焦りと不安が、滲んでいた。
駈け寄ろうと一歩踏み出した彼方を、七色は、手をかざして制した。
指先が震えているのを隠そうとする仕草に、痛みを堪えていることがうかがえた。
「大丈夫です」
七色は短く、しかし確固とした声音で、言った。
「好峰さんを……安全な隅の場所まで運んであげてください」
彼方に支えられている杏朱の顔は青白く、
「……」
と、言葉は発さない。
意識を失ったままである。
七色は、杏朱に目をやって、
「彼女を、ここに置いておくのは危険です」
と、続けた。
「でも……!」
「そうしてください、彼方さん」
七色は、静かに、しかし押し返す強さで、言葉を重ねた。
「私は、最善策をお願いしているつもりです」
「……」
彼方は、黙った。
「操影の魔術……"影法師"に縛られた人たちは、綺亜さんと私を、優先して狙うように暗示をかけられているようです」
七色は、周りを見渡した。
話している間にも、生徒たちは、無言で這い寄ってくる。
「ですから、彼方さんは後ろに下がってください」
七色の簡潔な言葉だった。
彼方は、一瞬迷いを見せたが、やがて、唇を噛んで頷いた。
そして、杏朱を慎重に抱え上げると、体育館の隅へ走った。
凛架の蹴り技が、飛び込んでくる。
その速度は、風切り音を生むほど鋭く、そして、動きに淀みがない。
(空手をやっているだけある)
七色は、痛む脚を気にする暇もなく、迫りくる足技を躱しつつ、冷静に思考した。
七色と凛架の戦闘は、一進一退の攻防戦となっていた。
床板を滑るようなステップ、拳が空気を裂く音、影が揺れ、照明が瞬き、ふたりの姿が交錯する。
(立海さんの蹴りに割り込もうとしても……その隙がない)
凛架が息を吸い込む気配がした瞬間、彼女の体が、鋭く前へ踏み出した。
足元の影が裂け、黒い針が地面をえぐる。
(速い……!)
七色の反応よりもさらに速く、凛架の正拳突きが風圧を伴い、七色の腹部へと迫った。
「……!」
だが、当たったと思われた刹那、七色は僅かに身を捻り、右手で凛架の拳を掴んでいた。
勢いを殺された凛架の身体が、前へ引き寄せられ、均衡を崩す。
七色は左手を刃のように構えると、そのまま手刀を凛架の首元へ打ち込み、凛架は、膝から崩れ落ちた。
鷲宮は、
「どうしたのですか、"月詠みの巫女"」
どこか愉悦を含んだ声で、言った。
「一般人にそこまで手こずるとは……拍子抜けですよ。あなたの噂も大したことありませんね」
七色と綺亜は、反撃し続けていたが、多勢に無勢の様相を呈していた。
操られた生徒たちが、影の針と連動して容赦なく襲いかかってくる。
(それに、みんなが相手じゃ……分が悪すぎる)
杏朱を壁にもたせ掛けるように寝かせた彼方は、苦い思いで、戦況を見つめていた。
杏朱の顔は、青ざめ、その呼吸は、微かに震えていた。
彼方が、その手を握ると、氷のように冷たかった。
(これも……魔術の影響なのか……)
胸に痛みが広がる。
「杏朱……ここで、待ってて」
彼方はそう言って、戦場へと視線を戻した。
綺亜と七色は、いつの間にか横並びになり、背中を合わせるようにして、敵を見据えていた。
二人とも、息が上がっている。
「……厄介だわ」
綺亜が、肩を上下させ、苦しげに呟く。
「……操られてしまっている本人と、影からの複合攻撃。迂闊に手が出せないわね」
七色は、前方を見据えたまま、静かに返した。
「迷っている暇は、ないです」
「七色……?」
「学園の皆さんを傷つける行為に綺亜さんがためらうのは、わかります。でも……」
七色の声は、淡々としている。
「敵は確実に、前に存在している。ならば、躊躇しているわけにはいかないでしょう」
綺亜は怒りを押し殺したように叫ぶ。
「そんな、1+1は、みたいな考え方……!」
「1+1は2です」
七色の返答は、乾いた紙のように淡泊だった。
「それは……!」
綺亜は、言い返そうとして、しかし、言葉が喉で止まった。
「くは……くははははははははははは!」
鷲宮は、肩を揺らし、狂ったように哄笑した。
「どうですか? お友達に、良いようにやられるというのは!」
七色は双振りの剣を操り、生徒達の影へ正確に刃を落としていく。
「ねぇ、"巫女"! "守護者"!」
男子生徒たちが、咆哮をあげた。
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
『ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
『ああああああああああああああああああああああああ』
女子生徒たちが、咆哮をあげた。
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
『くおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
『ああああああああああああああああああああああああ』
体育館が、咆哮で、溢れかえる。
「最高に気持ちが良いでしょう?」
影が斬られるたび、生徒たちが、糸の切れた人形のように、崩れ落ちていった。
「綺亜さん、影を!」
「……わかってるわよ、そんなこと!」
綺亜が、叫び返す。
操られている生徒達と綺亜の間に、青白い線が一本、細く、しかし、確かな力を持って伸びていった。
綺亜の作り出した魔力が流れる導火線である。
空気が、びりびりと震える。
「"スティングレイ"、起動しなさい!」
綺亜がレイピアを天へ振り上げた瞬間、青白い雷光が奔り、線を伝って空間を薙いだ。
生徒たちの影だけが、雷の刃に貫かれていく。
次々と倒れていく生徒たちの姿が、綺亜の瞳に映り、その瞳が揺れた。
その時。
綺亜の背後から、影の針が迫る。
「しまっ……!」
綺亜は振り向き、体勢を整えようとする。
だが、すでに針が目前に迫っていた。
鋭い破砕音。
針は、粉々に砕かれていた。
七色が、割り込んでいた。
刃を振り抜いた七色は、その勢いのまま女子生徒の影を斬り、操られた生徒を昏倒させると、片膝をついた。
「……はぁっ……」
七色は、荒い息を吐いた。
腹部に、薄く血が滲んでいる。
「大丈夫、ですか……?」
と、七色が、綺亜に、そう聞いた。
「……っ!」
綺亜が、声を震わせた。
七色の腹には、先ほどの影の針が掠った痕があった。
影の針は、七色の腹部を掠ったようで、血が、流れ出していた。
それを押さえつけるように手を当てながら、七色は、小さく息をついている。
綺亜は俯いた。
その肩が、かすかに震えている。
「……やれた」
呟きだった。
「……綺亜さん?」
七色が問いかけると、綺亜は、堰を切ったように、言葉を吐き出した。
「今のは……私、一人でも防げた!」
綺亜は、叫んでいた。
「七色の助けなんて……いらなかった!」
七色は痛みを抱えながらも、冷静に返す。
「綺亜さん。あなたは、何のために戦っているのですか?」
その声音は、相変わらず抑揚がない。
「……」
しかし、綺亜の胸に突き刺さった。
「さっきのドッジボールで、今の綺亜さんは私に勝てない、と言いました」
「今、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」
綺亜は、苛立ちを隠さなかった。
「今のあなたは、自身のための戦いに囚われすぎています」
七色の言葉が、綺亜の胸を抉る。
「だから、冷静に剣を振るえず、判断は散漫で、本来の力を出し切れていない」
綺亜は、唇を噛みしめた。
血の味が、口の中に広がる。
「そんな"今の"綺亜さんに、私は決して負けないでしょう」
「……私は、"守護者"。守り護る者。その使命を全うしているだけ! それの、何が悪いの!」
綺亜の激昂が、体育館全体に響き渡る。
七色は、ただひと言、
「使命に、縛られないでください」
その言葉は、静かに、しかし強く、響いた。





