第5話 影のパーティー 7
不意に、音がした。
ごり、ごり、と、何かを削り取るような、乾いているのに、どこか湿り気を含んだ、不気味に無機質な音だった。
最初は、遠くのほうで、かすかな囁きのように聞こえたに過ぎない。
それは、床下のどこかで、古びた木材が擦れ合ったかのようにも思えたし、あるいは、誰かが砂利を踏んだ音にも似ていた。
だが、そのざらついた響きは、次第に輪郭を増し、体育館の広い空間全体へ、じわじわと侵食するように広がっていった。
音は、天井の梁を伝って揺らぎ、床の上を這い、壁から壁へ、静かに、不気味に、しかし確実に、広がっていった。
そしてついには、まるで透明な膜が膨張しながら降りてきたかのように、体育館の空間全体を、厚く包み込んだ。
その瞬間、空気の質が変わった。
冷たく、重く、湿り気のない霧のような、しかし肌にまとわりつく圧力だけは確かにある、そんな空気である。
彼方は、
(なん、だ……?)
と思った。
それは、反射的な自問だった。
頭の片隅で、落ち着け、と言う声がした。
だが、それは自分の声のようで、自分の声ではないようでもあり、あまりにも頼りなかった。
目の前には、いつも通りの体育館がある。
照明は落ちかけて薄暗く、日陰になった場所には、揺らぐ影が溜まっている。
何かが、違った。
何一つ変わっていないようで、決定的に、何かが壊れていた。
(どうなっている?)
彼方は、もう一度、自問した。
しかし、答えは出ない。
思考の深みに手を伸ばそうとしても、すぐに霧の壁にぶつかってしまう。
掴もうとした思考が、手のひらからすり抜けていく。
ぎいと、鈍く、重く、金属が軋むような音が響いた。
その音は、余計に場の空気を冷やした。
体育館の扉が、何者かによって閉められたようだった。
だが、普通の閉まる感じではない。
外側から押し潰されているような、不自然な圧迫感が伴っていた。
「……」
彼方は、言葉を失った。
喉が、動きを拒んだ。
近くにいる綺亜も、
「……っ」
と息を殺し、ただ空気の変化を必死に読み取ろうとしているようだった。
唇はわずかに震えていたが、声にはならない。
七色もまた、
「……」
と、押し黙っていた。
その視線は、暗がりの奥を深く射抜こうとするように、鋭く細められていた。
体育館は、水を打ったような静けさに沈んだ。
いや、水すら落ちてこない。
世界そのものが息を潜め、音を失ったような、そんな静寂だった。
巨大で、風にはためく黒いベールが、体育館全体を覆ったような、そんな錯覚すら覚えた。
異変に気付いた彼方は、横にいる七色を見た。
七色は眉をひき寄せ、表情すら硬直させたまま、目を細めて言葉を探しているようだった。
「……なにか、来ています」
と、七色は、かすかな声で言った。
いつもの冷静な調子のはずなのに、どこか震えていた。
綺亜も、
「ええ……これは……」
と、言いかけて、そこから言葉を続けられなかった。
彼方が周囲を見渡すと、生徒たちは皆、直立していた。
動かない。
揺れない。
呼吸すら、薄い。
(なんで……みんな、黙っているんだ……?)
背筋が、冷えた。
棒立ちの生徒たちは、一様に無言で、ただ前方を向いている。
だが、その目は焦点を失っていて、生気がない。
重苦しい空気だった。
いや、空気というよりは、体育館の中に、意志のない影が充満しているような圧迫感があった。
この空気に、覚えがあった。
静けさの奥底に潜む、不安。
それは過去のどこかで感じたことのある感覚で、しかし、思い出せない。
彼方は、
(……この感じは……なんだ……?)
と、心の奥で震えた声をあげた。
不安感。
違和感。
それらは、目に見えない煤のようにふわふわと漂い、まとわりつく。
濁った水面から、不鮮明な水底をじっと覗かされているような感覚。
見てはいけないものを、今まさに見せられようとしている、そんな底知れない恐怖。
七色も、何かを思い出したように、小さく呟いた。
「これは……まさか……」
その声は、七色の普段の落ち着きとは明らかに違っていた。
彼方が、再び周囲を見回すと、生気のない目が、闇の奥から浮かび上がるようにこちらを向いていた。
生徒たちの影は、砂嵐のように濁って揺らめく。
輪郭がぶれて、時折、形を失っては戻る。
ざ、ざ、と、影のざわめきだけが、耳の奥で響いた。
試合の最後にボールを当てた松本という男子生徒が、ゆらり、ゆらり、と、不自然に左右へ身体を揺らしながら歩き出した。
松本の歩き方は、普通ではなかった。
支点を失った振り子のように、よろめきながら、しかし迷わず一直線に、こちらへ向かってくる。
「……」
声を発することもなく、ただ影を引きずりながら、である。
七色が、小さく息を呑むようにして言った。
「……対象者の影と、その意識を縛る魔術……"影法師"」
その言葉が落ちた瞬間、松本の影がより濁り、ぐにゃりと形を歪めた。
まるで、人の影ではなく、別の、なにか、が、松本の足元に貼り付いているようだった。
松本に続いて、二人、三人と、生徒たちがゆっくりと歩き出す。
何十人もの生徒が、無言のまま、彼方たちへ向けて歩みを進めてくる。
足音はしているのに、していないように感じた。
影だけが、ざらり、ざらり、と、床を擦っている。
綺亜が、震える声で、
「まさか……これだけの人数を一度に……そんなの……できるわけ……」
と言った。
七色は、表情を硬くしたまま、
「……ですが、いまは……一旦、この事実を認めるしかなさそうです」
と、静かに言った。
「……っ!」
綺亜は、一瞬言葉に詰まりながらも、
「わかってるわよ! そんなの……!」
と、半ば叫ぶように声をあげた。
その声で、わずかに空気が震えた気がした。
だが、生徒たちの表情は、微動だにしない。
杏朱が、怯えた顔で言った。
「ちょ、ちょっと……何が……どうなってるの……?」
杏朱の顔色は、悪かった。
「これ……夢じゃないわよね?」
いつもの余裕も茶化すような笑みも、完全に消え去っていた。
彼方は、そっと杏朱の肩に手を置いた。
「大丈夫? 杏朱」
杏朱は、生徒たちと違って、自我を保っているようだった。
(杏朱は……大丈夫なのか……?)
と彼方が思っていると、杏朱は額を押さえながら、
「……吐き気がする……それに……ひどく眠い……」
と呻くように言う。
凛架も、すがるように綺亜の袖を握り、
「わ、私も……眠い……意識が……」
と、震える声で言った。
七色は、周囲の揺らぎを観察しながら、言った。
「魔術に対する耐性が普通の人よりある人は、"影法師"の影響が、少しだけ薄れているようですね……意識が朦朧としながらも、自我が残っている」
凛架がゆっくり手足の力を失って倒れそうになり、綺亜が慌てて支えた。
「凛架、大丈夫……?」
「少し……眠っても……いい……?」
凛架は青白い顔のまま、辛そうに笑った。
綺亜は、頷き、凛架をそっと床に寝かせる。
凛架は安心したように息を吐き、そのまま意識を失った。
杏朱も、膝が折れて崩れ落ちるように倒れたところを、彼方が抱きとめた。
「……ありがとう、朝川君……」
「無理して喋らなくていい……」
「朝川君の手……あったかいのね……」
杏朱は、かすかに笑った。
その笑顔は儚く、夜明け前に消える光のようだった。
「ふふ……」
「杏朱……?」
「こんなふうに……優しくされると……勘違い……しちゃいそう……だわ……」
杏朱が言い終わらないうちに、静かに瞼を閉じた。
彼方が呼びかける間もなく、杏朱は深い眠りに落ちた。
その瞬間、ぬるり、と、何かが滑るように動いた。
新谷が、無言のまま、影と同化するようにして、彼方へ近付いていた。
「おい、新谷。大丈夫……」
と言い終わる前に、新谷の腕が勢いよく振り上げられ、彼方の胸へと押し当てられた。
「……っ!」
衝撃に彼方はよろめいた。
「彼方、退がって!」
綺亜が緊張した声で叫ぶ。
「いつもの乃木君じゃない!」
「ああああああ!」
言葉にならない声をあげ、別の男子生徒が、七色へ殴りかかった。
七色は一瞬で屈み、その拳を紙一重で避けると、影を払うように手刀を叩き込み、男子生徒を昏倒させた。
その動きは鋭く、正確で、迷いがなかった。
「綺亜さん!」
七色が、短く叫ぶ。
「わかってる! 怪我をさせないように、でしょ!」
綺亜は息を切らしながら、向かってくる女子生徒の腕を取って体勢を崩し、床へとやさしく投げ倒した。
しかし、それでも、生徒の影はなおもざわつき続ける。
次から次へと、黒い波のように押し寄せてくる。
影のざらつく音が、体育館を満たしていく。
空気中の闇が膨張し、生徒たちの影が、ますます濁っていく。





