表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/146

第5話 影のパーティー 7

 不意に、音がした。


 ごり、ごり、と、何かを削り取るような、乾いているのに、どこか湿り気を含んだ、不気味に無機質な音だった。


 最初は、遠くのほうで、かすかな囁きのように聞こえたに過ぎない。


 それは、床下のどこかで、古びた木材が擦れ合ったかのようにも思えたし、あるいは、誰かが砂利を踏んだ音にも似ていた。


 だが、そのざらついた響きは、次第に輪郭を増し、体育館の広い空間全体へ、じわじわと侵食するように広がっていった。


 音は、天井の梁を伝って揺らぎ、床の上を這い、壁から壁へ、静かに、不気味に、しかし確実に、広がっていった。


 そしてついには、まるで透明な膜が膨張しながら降りてきたかのように、体育館の空間全体を、厚く包み込んだ。


 その瞬間、空気の質が変わった。


 冷たく、重く、湿り気のない霧のような、しかし肌にまとわりつく圧力だけは確かにある、そんな空気である。


 彼方は、


(なん、だ……?)


 と思った。


 それは、反射的な自問だった。


 頭の片隅で、落ち着け、と言う声がした。


 だが、それは自分の声のようで、自分の声ではないようでもあり、あまりにも頼りなかった。


 目の前には、いつも通りの体育館がある。


 照明は落ちかけて薄暗く、日陰になった場所には、揺らぐ影が溜まっている。


 何かが、違った。


 何一つ変わっていないようで、決定的に、何かが壊れていた。


(どうなっている?)


 彼方は、もう一度、自問した。


 しかし、答えは出ない。


 思考の深みに手を伸ばそうとしても、すぐに霧の壁にぶつかってしまう。


 掴もうとした思考が、手のひらからすり抜けていく。


 ぎいと、鈍く、重く、金属が軋むような音が響いた。


 その音は、余計に場の空気を冷やした。


 体育館の扉が、何者かによって閉められたようだった。


 だが、普通の閉まる感じではない。


 外側から押し潰されているような、不自然な圧迫感が伴っていた。


「……」


 彼方は、言葉を失った。


 喉が、動きを拒んだ。


 近くにいる綺亜も、


「……っ」


 と息を殺し、ただ空気の変化を必死に読み取ろうとしているようだった。


 唇はわずかに震えていたが、声にはならない。


 七色もまた、


「……」


 と、押し黙っていた。


 その視線は、暗がりの奥を深く射抜こうとするように、鋭く細められていた。


 体育館は、水を打ったような静けさに沈んだ。


 いや、水すら落ちてこない。


 世界そのものが息を潜め、音を失ったような、そんな静寂だった。


 巨大で、風にはためく黒いベールが、体育館全体を覆ったような、そんな錯覚すら覚えた。


 異変に気付いた彼方は、横にいる七色を見た。


 七色は眉をひき寄せ、表情すら硬直させたまま、目を細めて言葉を探しているようだった。


「……なにか、来ています」


 と、七色は、かすかな声で言った。


 いつもの冷静な調子のはずなのに、どこか震えていた。


 綺亜も、


「ええ……これは……」


 と、言いかけて、そこから言葉を続けられなかった。


 彼方が周囲を見渡すと、生徒たちは皆、直立していた。


 動かない。


 揺れない。


 呼吸すら、薄い。


(なんで……みんな、黙っているんだ……?)


 背筋が、冷えた。


 棒立ちの生徒たちは、一様に無言で、ただ前方を向いている。


 だが、その目は焦点を失っていて、生気がない。


 重苦しい空気だった。


 いや、空気というよりは、体育館の中に、意志のない影が充満しているような圧迫感があった。


 この空気に、覚えがあった。


 静けさの奥底に潜む、不安。


 それは過去のどこかで感じたことのある感覚で、しかし、思い出せない。


 彼方は、


(……この感じは……なんだ……?)


 と、心の奥で震えた声をあげた。


 不安感。


 違和感。


 それらは、目に見えない煤のようにふわふわと漂い、まとわりつく。


 濁った水面から、不鮮明な水底をじっと覗かされているような感覚。


 見てはいけないものを、今まさに見せられようとしている、そんな底知れない恐怖。


 七色も、何かを思い出したように、小さく呟いた。


「これは……まさか……」


 その声は、七色の普段の落ち着きとは明らかに違っていた。


 彼方が、再び周囲を見回すと、生気のない目が、闇の奥から浮かび上がるようにこちらを向いていた。


 生徒たちの影は、砂嵐のように濁って揺らめく。


 輪郭がぶれて、時折、形を失っては戻る。


 ざ、ざ、と、影のざわめきだけが、耳の奥で響いた。


 試合の最後にボールを当てた松本という男子生徒が、ゆらり、ゆらり、と、不自然に左右へ身体を揺らしながら歩き出した。


 松本の歩き方は、普通ではなかった。


 支点を失った振り子のように、よろめきながら、しかし迷わず一直線に、こちらへ向かってくる。


「……」


 声を発することもなく、ただ影を引きずりながら、である。


 七色が、小さく息を呑むようにして言った。


「……対象者の影と、その意識を縛る魔術……"影法師"」


 その言葉が落ちた瞬間、松本の影がより濁り、ぐにゃりと形を歪めた。


 まるで、人の影ではなく、別の、なにか、が、松本の足元に貼り付いているようだった。


 松本に続いて、二人、三人と、生徒たちがゆっくりと歩き出す。


 何十人もの生徒が、無言のまま、彼方たちへ向けて歩みを進めてくる。


 足音はしているのに、していないように感じた。


 影だけが、ざらり、ざらり、と、床を擦っている。


 綺亜が、震える声で、


「まさか……これだけの人数を一度に……そんなの……できるわけ……」


 と言った。


 七色は、表情を硬くしたまま、


「……ですが、いまは……一旦、この事実を認めるしかなさそうです」


 と、静かに言った。


「……っ!」


 綺亜は、一瞬言葉に詰まりながらも、


「わかってるわよ! そんなの……!」


 と、半ば叫ぶように声をあげた。


 その声で、わずかに空気が震えた気がした。


 だが、生徒たちの表情は、微動だにしない。


 杏朱が、怯えた顔で言った。


「ちょ、ちょっと……何が……どうなってるの……?」


 杏朱の顔色は、悪かった。


「これ……夢じゃないわよね?」


 いつもの余裕も茶化すような笑みも、完全に消え去っていた。


 彼方は、そっと杏朱の肩に手を置いた。


「大丈夫? 杏朱」


 杏朱は、生徒たちと違って、自我を保っているようだった。


(杏朱は……大丈夫なのか……?)


 と彼方が思っていると、杏朱は額を押さえながら、


「……吐き気がする……それに……ひどく眠い……」


 と呻くように言う。


 凛架も、すがるように綺亜の袖を握り、


「わ、私も……眠い……意識が……」


 と、震える声で言った。


 七色は、周囲の揺らぎを観察しながら、言った。


「魔術に対する耐性が普通の人よりある人は、"影法師"の影響が、少しだけ薄れているようですね……意識が朦朧としながらも、自我が残っている」


 凛架がゆっくり手足の力を失って倒れそうになり、綺亜が慌てて支えた。


「凛架、大丈夫……?」


「少し……眠っても……いい……?」


 凛架は青白い顔のまま、辛そうに笑った。


 綺亜は、頷き、凛架をそっと床に寝かせる。


 凛架は安心したように息を吐き、そのまま意識を失った。


 杏朱も、膝が折れて崩れ落ちるように倒れたところを、彼方が抱きとめた。


「……ありがとう、朝川君……」


「無理して喋らなくていい……」


「朝川君の手……あったかいのね……」


 杏朱は、かすかに笑った。


 その笑顔は儚く、夜明け前に消える光のようだった。


「ふふ……」


「杏朱……?」


「こんなふうに……優しくされると……勘違い……しちゃいそう……だわ……」


 杏朱が言い終わらないうちに、静かに瞼を閉じた。


 彼方が呼びかける間もなく、杏朱は深い眠りに落ちた。


 その瞬間、ぬるり、と、何かが滑るように動いた。


 新谷が、無言のまま、影と同化するようにして、彼方へ近付いていた。


「おい、新谷。大丈夫……」


 と言い終わる前に、新谷の腕が勢いよく振り上げられ、彼方の胸へと押し当てられた。


「……っ!」


 衝撃に彼方はよろめいた。


「彼方、退がって!」


 綺亜が緊張した声で叫ぶ。


「いつもの乃木君じゃない!」


「ああああああ!」


 言葉にならない声をあげ、別の男子生徒が、七色へ殴りかかった。


 七色は一瞬で屈み、その拳を紙一重で避けると、影を払うように手刀を叩き込み、男子生徒を昏倒させた。


 その動きは鋭く、正確で、迷いがなかった。


「綺亜さん!」


 七色が、短く叫ぶ。


「わかってる! 怪我をさせないように、でしょ!」


 綺亜は息を切らしながら、向かってくる女子生徒の腕を取って体勢を崩し、床へとやさしく投げ倒した。


 しかし、それでも、生徒の影はなおもざわつき続ける。


 次から次へと、黒い波のように押し寄せてくる。


 影のざらつく音が、体育館を満たしていく。


 空気中の闇が膨張し、生徒たちの影が、ますます濁っていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42bpk4s771sz1iupmgjda531438n_aix_5k_8c_2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ