第5話 影のパーティー 3
「綺亜」
と、朝川彼方は、話しかけた。
しかし、話しかけられた当人である、綺亜は、頬杖をついたまま、上の空で、気付いていないようだった。
朝川彼方は、桶野川市にある葉坂学園の、生徒である。
桶野川市は、人口十五万人、新興住宅街を擁する市街地と、その回りを囲うように点在するのどかな田園風景とが、混在する、中規模の都市である。
都心から、近いこともあり、オフィス街と商業施設も、それなりに、活気づいている。
葉坂学園は、市街地の外れにあり、閑静な住宅街の中に、ある。
「綺亜。ちょっと良いかな?」
もう一度、彼方が呼びかけると、綺亜は、はっとしたように、彼方を見て、
「ごめんなさい。呼んでくれた?」
と、言った。
「この前の全園集会で、講演が、あったよね。W大学の先生が来て、世界と日本を取り巻く経済情勢とこれからの働き方、の話」
と、彼方が、言った。
「テレビでも偶に見る、有名な教授の講演だったわね」
と、綺亜は、言った。
「アンケートの用紙。僕らの班の分を、委員長に、出してこようかなと思って」
綺亜は、思い出したように、そうだったわね、と、言って、A4サイズの用紙を、彼方に、手渡した。
「最後の項目の、三百字以上四百字未満で、講演の感想を書いて下さいというのが、大変だったよ。綺亜は、うまく書けた?」
と、彼方が、聞いた。
綺亜は、
「そこそこね」
とだけ、言った。
彼方は、自身の班の生徒の分のアンケート用紙を、取りまとめた。
「はい、委員長。僕らの班の分のアンケート用紙、集まったから、渡すね」
彼方は、自身の班の分の用紙を、クラス委員長である、立海凛架に、手渡した。
「ありがとう。朝川君の班は、提出物が早くて、助かっているわ」
と、凛架は、微笑んだ後、少し真顔になって、
「倉嶋さん、どうかしたのかしらね」
と、言った。
「そうだね」
と、彼方は、答えになっていない、返し方をした。
(立海さんも、気付いていたのか)
と、彼方は、思った。
彼方も、綺亜が何か考え事をしているように、感じていた。
(一人で、考えたいのかもしれない。綺亜から、何か言ってきたら、応えよう)
来る者拒まず去る者追わず、が、彼方の考え方である。
彼方は、もう少し様子を見ようと、思っていた。
(佳苗さんに、言わせると、僕のそういうところは、日和見主義で良くないらしい)
御月佳苗は、朝川家の、雇われ家政婦である。
週に四度程、家に来て、炊事、洗濯、掃除といった家事全般を、こなしてくれるのである。
日曜日には、一週間分の買い出しに、出かけてくれている。
「少し、元気がないみたいだけど……。朝川君、隣の席だし、何か、知ってる?」
と、凛架は、聞いた。
凛架の指摘は、もっともで、この二日間ばかりの綺亜は、一人でいることが、多かった。
綺亜のそのような空気を感じ取ってか、級友達の中には、綺亜に話しかけることを、遠慮している者も、いた。
「委員長は、優しいねえ」
と、言ったのは、級友の乃木新谷である。
「クラスメートの心配をするのは、当たり前のことよ」
「いや、さすが、委員長」
「やけに、私のこと、褒めてくれるのね」
「そんなことはない。実はさ、今、彼方に、用事が、あるんだよ」
新谷は、彼方に、向き直って、
「彼方。予習を、忘れちまってさ。古典の訳、写させてくれ」
「別に構わないけれど……」
「朝川君。甘やかしちゃ、駄目よ」
と、彼方の言葉が、凛架に、遮られた。
「また、忘れたの?」
と、凛架は、呆れたように、新谷に、言った。
「自分で、やりなさい」
「自分で、辞書で、単語を調べたんだけどさ。さっぱりなんだよな」
「辞書で調べたのは、何単語?」
と、凛架が、鋭い眼光で、聞いた。
「……三個、かな」
と、新谷は、冷や汗まじりに、おずおずと答えた。
「それじゃあ、調べたうちに入らないし、予習のうちに入らないじゃない」
「いや、待ってくれよ。俺だって、十分間は、頑張ったん……」
新谷は、自身の失言に気付いて、言葉を、止めた。
「十分だけ?」
「ええとだな、委員長……」
「もう一度言うわ。自分で、やりなさい」
目を細めた凛架の白い脚が、僅かに動き、紺のスカートが、揺れた。
途端に、新谷の顔が、青ざめていった。
新谷曰く、立海凛架は、空手の有段者である。
新谷は、これも当人談ではあるが、彼女と死闘を繰広げたことがある。
もっとも、その武勇伝を語った時の新谷は、震え声だった。
そういう経緯が、あるせいか、ぼやきつつも、新谷は、委員長には、頭があがらない様子だった。
新谷は、今でこそ落ち着いているが、かつて悪かった時期があり、喧嘩が強いことは、彼方も、知っていた。
その新谷が、敵わないという様子なのだから、凛架の力は、相当なのだろう。
「きちんとやるのよ、乃木君」
相変わらずなんだから、と、ため息をついた委員長は、
「朝川君も、乃木君を、あまり甘やかさないようにね」
と、言った。
「そう、だね」
彼方も、苦笑するしかなかった。
「わかったよ。授業中、あてられないことを、祈るしかねーな」
と、新谷は、観念したように、言った。
「まったく。少しは、反省しなさい。いつも、注意する私の身にもなって」
「……反省します」
新谷は、気を取り直したように、
「綺亜ちゃん。今日は、朝から、元気ないよな」
「そうかな」
と、彼方は、言った。
「何か、あったのかしら」
と、凛架が、言った。
「彼方も、そっけないよな。隣で悩んでいる子が、いるんなら、ほっとけないのが、普通だろ?」
彼方と新谷とは、十年来の付き合いで、言わば、悪友だった。
新谷の言葉には、悪友ゆえの、無遠慮と実直さが、あった。
「そうだね」
と、彼方が、言った。
彼方と新谷とは、良くも悪くも、本音で言い合える仲である。
「何かあったら、倉嶋さんのほうから、言ってくるかなと、思ってね」
と、彼方は、言った。
凛架は、困ったように、笑った。
「朝川君の言うことも、わかるわ。でも、心配なの」
と、凛架は、言った。
(立海さんの言うことも、わかる)
と、彼方は、思った。
「それで、朝川君に、お願いなんだけれども、それとなく、倉嶋さんと、話をしてもらいたいのよ」
と、凛架は、言った。
「別に、根掘り葉掘り、詮索してって、言ってるわけじゃないわ。誰にだって、一人になりたい時はあるし、ゆっくり考えたい時も、あるもの」
でもね、と、凛架は、続けて、
「女の子はね、静かに話を聞いてもらうだけで、気持ちが楽になることも、あるの。私は、そう」
と、微笑んだ。
「倉嶋さんが、クラスの中で、一番気を許しているのって、朝川君のような気が、するの」
「俺も、そう思うなあ」
と、新谷が、凛架に、相槌を打った。
凛架と新谷は、顔を見合って、それから、二人とも、彼方に、向き直った。
「お願いね、朝川君」
「期待してるぜ、相棒」
彼方は、期待に満ちた眼差しを向けられて、後押しされないと動かない自身を、反省した。
(日和見から、離れてみよう)
と、彼方は、思った。
彼方は、凛架と新谷に向かって、頷いた。
「わかった。昼休みにでも、話してみるよ」
と、彼方は、言った。
昼休みになった。
「……何か用?」
中庭のベンチに座って、手帳を眺めていた、綺亜は、彼方に気付いて、顔をあげた。
「少し、良いかな?」
と、彼方が、言った。
「別に、断りなんか必要ないわ」
と、綺亜は、素っ気なく、言った。
綺亜は、イチゴミルクの紙パックのストローに、口を付けた。
彼方は、綺亜の横に、腰掛けた。
彼方は、
「何か、見ていたの?」
と、聞いた。
「覗き見?趣味が悪いわね」
「今来たのだから、内容は、わからないよ」
と、彼方は、苦笑した。
「……ま、そうね」
綺亜は、ため息をついた。
「別に、彼方には、関係のないことよ」
開いていた手帳を閉じた、綺亜は、もう話すことはないと言いたげに、突き放すような声で、言った。
「……わかった。こうしよう」
綺亜が、訝しげに向き直って、彼方と相対する恰好になった。
「綺亜」
と、彼方が、言った。
綺亜は、整った目を細めて、彼方を、見た。
「僕は、護衛される者、なんだろう?綺亜が、転校初日に、僕に、言ってくれたよね」
「……そうよ」
彼方が何故そんなことを言い出したのか、その意図がわからなくて、綺亜は、戸惑い気味に、答えた。
「将来のために、学園生活を通して、警護、護衛のイロハを学ぶ。そういう趣旨だったかな」
「そうね」
「護衛する人というのは、護衛対象の人物のことを、良く知っておく必要が、あるよね」
「そうでないと、護衛者は、務まらないわ」
「だったら、護衛される僕は、護衛してくれる綺亜のことを、知っておかないと。何も知らない依頼者なんて、みっともないからね」
「……っ」
綺亜の髪が、揺れた。
「ふざけないで!」
頬を苛立ちで赤らめた綺亜は、弾けたように、叫んだ。
「ふざけていないよ」
突き刺さる視線はそのままに、彼方は、そう言っただけだった。
お互いが、無言になった。
綺亜は、彼方から、視線を、逸らした。
沈黙を先に破ったのは、綺亜のほうだった。
「……こういう時だけ、そういう目を、するのね。絶対に退かないっていう顔」
綺亜は、閉じていた手帳を開いて、彼方に、見せた。
手帳には、地図が貼られていて、所々に、赤い丸印が、記されていた。
「桶野川市の地図?」
と、彼方が、聞いた。
「ここのところ、通行人が、突然一時的な意識不明に陥る事件が、起きているの。これは、そのマッピングよ」
と、綺亜が、言って、
「ここの駅前の商店街の印は、私と彼方が、あのライダースジャケットの男達と遭遇した時のものよ」
「もしかして、この前の"爛の王"……"影法師"の……」
「そう。全部で、十三件」
「商店街に、美術館、工事現場、病院、色々だね。何か、共通項は……」
と、彼方は、言って、親指を、顎に当てた。
あるわ、と、綺亜は、あっさりと、答えた。
「今、彼方の言ってくれた場所や施設は、全て、倉嶋グループが、出資や企画などで関与しているものなの」
と、綺亜が、言った。
「これは、わかりやすい、倉嶋に対する挑戦なのよ」
彼方は、綺亜の言葉を、聞いていた。
「これ以上の暴挙を、許すわけにはいかない」
と、綺亜は、自身に言い聞かせるように、言った。
「倉嶋の家は、代々、この街の"守護者"として、樋野川の地を、護ってきたわ」
と、綺亜が、言った。
「私は、倉嶋の名にかけて、"守護者"として、その任を、全うしなくちゃいけないの」
綺亜の瞳は、揺れていた。
「だから、"影法師"のやつを討つ……それだけよ」
それきり、綺亜は、黙ってしまった。




