10
「眠れなかったものですから、庭に出て気分転換でもしようかと思いまして」
「部屋で本を読んだり温かい飲み物を飲むよりも、庭を眺めている方が気分転換になると。……たしかに、素晴らしい庭ですね。花も多く、手入れが行き届いている」
殿下は庭を見回して微笑んだ。それがわたしに勇気を与えてくれた。
居住まいを正し、胸に両手を重ねて礼をとる。うつむいた頬に結っていない髪が零れ落ちた。
「殿下……この度は、本当に申し訳ございませんでした。妹にかわり、名前を偽って王宮に参上いたしましたこと、殿下をご不快にさせ、皆様にご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます。わたし個人に下される罰はどのようなものであってもお受けいたします」
しっかり声が出てよかった。震えてしまわないように、手を強く胸に押しつける。
頭を下げたまま殿下の答えを待っていると、「顔を上げて下さい」と言われた。
合わせる顔などあるはずもなく黙って首を横に振ると、手が伸びてきて、頬を撫でるように触れながら落ちていたひと房の髪を耳にかけた。
自分の顔が耳まで赤くなったのがわかる。ますます顔を上げられない。
「あなたがどうして王宮に来たのか、理由を聞かせて下さい。罪を犯した者にも情状酌量の余地はあるものです」
「……どこまでご存知かわかりませんが、最初からお話いたします」
妹が駆け落ちをしたこと、妹と顔の似ているわたしが身代わりとなって王宮に言ったこと、成功報酬のことも包み隠さずに話した。
一か月の選定期間を終えればすみやかに領地に戻るつもりであったことも。
殿下は口をはさむことなくわたしの告白を聞いていた。
「では、あなたは僕の花嫁になる気はなかったということですね?」
「そんな畏れ多いこと、夢見たこともございません!」
「……怒るべきか悲しむべきか。いえ、奮起すべきなんでしょう」
意味の通らない台詞のあと、殿下はわたしの顎に指をかけて顔を上げさせた。
輝く金の髪。長い睫も金色で、瞬きするとバサリと音がしそうだ。ダークブルーの瞳には恐れていたような嫌悪や侮蔑の色はないが、強い感情がうかがえる。目を凝らしてじっと覗きこんでも正体がつかめない。
怒っているのなら、人はもっと険悪な表情になるだろう。殿下の雰囲気はやわらかだった。上手く表現できないが、少し細めた目や口角の上った唇はやわらかというよりも、甘い。鼓動が不自然に速くなる。
触れていた指が離れ、心臓の過労死はまぬがれた。
「罰というのなら、僕にも罪があります。あなたがルーディを混入したと捕らえられたとき、僕は護ることができなかった。あなたが毒を入れるはずがないとわかっていたのに」
「あのときわたしの潔白を証明できるものはなにもなかったのですから、殿下に罪などあるはずがございません」
仮に庇われていたとしたら、事態はさらにややこしくなったのではないだろうか。
わたしが騎士団に監禁されていた中でセシル嬢が動いたから、疑いは晴れた。セシル嬢を焦らせボロが出るように仕向けてくれたのは殿下だ。騎士を見張りにつけた監禁も、口封じに殺されないよう身の安全を図ってくれたのだと知っている。そう言うと、殿下は困った顔をした。
「あなたは人が好すぎますよ。事件に巻き込まれることになったのは僕の態度が原因なのに」
「いいえ。なにが原因であろうと行動を起こしたのはセシル嬢本人ですから、殿下が責任を感じる必要はないと思います」
「僕の罪を咎めないのですか? であれば、僕もあなたの罪を咎めません」
「それとこれとは関係がありません」
わたしは殿下を罰する権利も立場にもない。まして「おあいこですね」などとはもっと言えない。「そうですか?」と軽く首をかしげてもうやむやにはならないだろうっ?
とぼけた殿下を睨むと、にっこりと笑いかけられた。警戒意識にバリバリ引っかかる無邪気な笑顔。
「では僕からの罰として、あなたには口調を改めていただきます。あなたがかしこまった口調をやめて義姉上と話すように話してくれたら、僕の心の傷も癒されるでしょう」
耳を疑った。彼は素で話せと言っているのだろうか? 自分が女性らしくない口調であることは百も承知だ。王族に対して素で話しかけようものなら、侮辱罪で今度こそ捕らえられてしまうだろう。
……実は殿下はとっても怒っていて、わたしを罰するために? ちらりとよぎった考えは、期待に満ちた目で返事を待つ殿下の姿に霧散した。
なんというか、とてもとても、楽しみにされている。
「……わたしの身分では許されないことです」
「ここは王宮ではありません。まわりにもだれもいませんし、身分の別をだれが咎めるというんですか?」
「神が見ていらっしゃいますわ。月はミア神の左眼です」
苦しまぎれの台詞に殿下は空を見上げた。
「見事な満月ですが、《審判の右眼》ではありませんよ」
「月は《許容する左眼》というだけです。夜明けに審判を下すことをご存知でいらっしゃるでしょう?」
「強情ですね。じゃあ僕がミア神の代行ということで許しましょう。陽光石には許しの御使いの加護がありますからね。朝告げ鳥が鳴いたとしても、あなたの夜明けは僕が護ります」
「……殿下は不遜だな」
示された宝首環に観念すれば、「その調子です」と笑われた。
今度は屈託のない笑顔に緊張がとけ、わたしも笑みを浮かべていた。
真実を知った殿下に怒られても、蔑まれても、――嫌われても、仕方ないと思っていた。
我が家の事情など王宮のだれにも関係がないことだからだ。テレサの身代わりをして過ごした時間、交わした言葉。心地よくて大切だったからなくしてしまうのが怖かった。
だが、殿下はわたしの罪を許してくれた。
今夜かぎりでもう二度と親しく言葉を交わす機会もないだろうが、もう一度彼の笑顔を見られたことが嬉しい。
身代わりの発覚につながったセシル嬢の犯行も、彼がもし毒入りのワインを飲んで苦しんでいたら……そう考えると、止めることができてよかったと思う。
彼は笑いをおさめ、真剣な顔でわたしの片手をとった。
「あなたはテレサさんじゃない」
「……はい」
「僕はあなたの本当の名前を呼びたい。あなたの口から、名前を教えて下さいませんか?」
殿下が知らないはずはない。それでもこうして尋ねてくれたのは、テレサとしてではなく、アネッサとしてもう一度向き合おうと思ってくれたからだろう。
喜びに胸が詰まり、すぐには答えられなかった。わたしは殿下の手を握り返し、自らの名前を教えた。
「わたしの名前はアネッサ。アネッサ・ルフ・ダルトンです。どうぞアネッサと呼んで下さい」
「アネッサさん、口調は改めて下さいと言ったのに」
さっそく呼ばれた名前には文句もついてきた。
しかし殿下の方が丁寧で、臣下のわたしが粗雑な口調で話していたら主従逆転じゃないか?
「……わたしにばかり言うが、殿下の口調はどうなんだ? 王太子殿下はもっと砕けていたぞ」
「僕の口調は普段通りですよ」
「じゃあ砕けて話すようにしてくれ」
「お望み通りに、と言いたいのですが、あなたに子どもっぽいと思われるのが嫌なんです」
年下の青年はわたしが言った言葉を思いのほか気にしているようだ。
ふと気づいた顔で、殿下がわたしの膝を指さした。
「先ほど見ていたのはなんですか?」
「栞だが?」
「義姉上がおっしゃっていた栞ですね。僕にも見せてもらえませんか?」
「……こっ断る! ただの栞だから見ても面白いことなんかないぞっ?」
膝の上に置いていた栞を素早くポケットに戻す。塔に監禁された初日、栞を抱いたまま眠ってしまったが、あのとき会いに来てくれたペコに見られていたのか。
なにもあわてることのない代物だが、彼の顔を見ると急に恥ずかしくなって隠してしまった。
「ただの栞なら隠さなくてもいいでしょう?」
「ええとだな……その、押し花の習作がついているから、見せるのが恥ずかしいんだ。だから駄目だっ」
「それは残念ですね」という言葉とは裏腹に、殿下は妙に嬉しそうだ。その視線がいたたまれなくて自分の頬が熱をもつのがわかった。ああもうっニヤニヤするんじゃない!
横目で睨むがまるで効果なしだった。
「アネッサさんは本当に植物がお好きですね。あなたの庭は美しい。愛情をこめて世話をされていることが素人目にも伝わってきます」
「ありがとう、殿下。植物は心を癒すから、花と緑にあふれた庭にしたいと思っているんだ」
「――妬けますね。僕が褒めればその笑顔。植物が好きなのはよくわかりますが、人間は?」
「ひとを人間嫌いの園芸狂みたいに言わないでくれ」
庭仕事は好きだが人間が嫌いなわけではない。反論すると目を眇めた殿下は、「植物以上に人間に興味があるんですか?」と聞いてきた。すぐさま答えを返せなかったわたしに、ほらみろと言わんばかりの視線が痛い。
「あなたはどうしたら僕に興味を持ってくれるんですか? ……いっそ僕にハーブが生えでもすれば、あなたの気を惹けるんでしょうけれど」
殿下はサトリだったのだ。サイコメトラーだったのだ。
おののいてさりげに握手状態だった片手を離そうとすれば、ガシッと握られ引き抜けない。
「あなたの植物好きは筋金入りですね。だからといって諦めも遠慮もしませんが」
握られていた手の力がゆるんだ。なのに、引っ込めることができない。
壊れものを扱うように丁寧に、そうっと撫でられている。殿下の骨ばった長い指が、庭仕事で荒れた手をいたわるように撫でている。女性として扱われた経験のないわたしは、愛撫といってもいい触れられ方に指一本動かせずに固まった。
ダークブルーの瞳にゆらぐ感情は炎のようで、見つめているとわたしの心もチリチリと燻る。もっと見つめて、あの炎の名を知りたくなる。わたしの胸にじわりと広がる熱になんと名づけていいかわからないから。
「ワインを払って僕を助けたのはどうしてですか?」
「ルーディのにおいに、殿下が危ないと思って勝手に身体が動いたんだ」
「そのせいで身代わりがばれてしまい、後悔していますか?」
「殿下が口にせずによかったと思っている!」
馬鹿にしているのだろうか? 怒りをこめて言うと、殿下はクスッと微笑んだ。
「最後の日、帰ったのはどうしてですか?」
「……わからない」
「僕は、あなたが解放されたら会いに行こうと思っていました」
「……ただ、あそこにいることがつらかったから」
「つらいのはどうしてですか?」
「…………わから、ない」
「本当に?」
彼はわたしになにを言おうとしているんだろう。
心臓が激しく脈打っている。全身が熱くなって、目元に熱が集まってくる。
「うぬぼれなら正してください。栞の押し花は、僕があげたリロットの花でしょう?」
瞬いたらよけいに潤んでしまった。
最愛の庭仕事に身が入らず、思い出していたのはだれのことだったか。
認めるのが怖くて首を横に振ると、栞を見てもいないのに「嘘ですね」と断言された。
「ねえ、僕が好きなんでしょう? 僕があなたを好きなように」
殿下は容赦なく、瞳に宿す炎の名を教え、わたしの胸の熱にも名づけた。
騙していた人を好きになったなんて、どうして言えるだろう?
はじめからわたしは花嫁候補の対象外だった。身代わりをしたから知り合えた、身分も年齢も違う、雲の上の存在。好意を抱いたとしても想いが叶うことなどない。
騙していた罪悪感だと誤魔化していたかった。
今夜かぎりだというのに自覚させないでほしかった。
明日の別れが何倍もつらくなるというのに。
「言って」
ねだる響きに首を横に振る。
言葉にしたら泣いてしまいそうだ。
「言えない?」
コクコクと首を縦に振ると、涙にゆらぐ視界の中で、殿下が大人びた苦笑を浮かべるのが見えた。
「――あなたはずるいな、こういうときは僕より子どもになるんだもの」
そう零したあと、抱きしめられた。見た目よりしっかりとした体はわたしをすっぽり抱え込んでしまい、あたたかな腕の中で飛び跳ねた心臓を必死になだめる。
引き寄せられて頬が胸板に当たる。ふわりと殿下から香る芳香。
この匂い……。
「どうして殿下から、匂い袋の香りが……?」
腕の中から見上げると、「不正に手に入れたわけではありませんよ」とやや慌てたように弁明した。それだけでは納得できなくてじっと見つめ続けると、観念したように溜息を吐いた殿下は口を開いた。
「令嬢たちを刺激しないよう薬草園に行かないと決めても、あなたに会えないことで苛立っていた僕に、義姉上が譲って下さったんです。お礼として受け取るなら、本来は僕のものだからと」
お礼として? ペコに匂い袋をあげたのは、彼女から帽子をもらったからだ。
そのお礼を本来受け取るべきだったというのなら。
「……あの帽子をプレゼントしてくれたのは殿下だったのか?」
「ほっかむりより似合うと思って作らせました。僕から渡しても、あのときのアネッサさんは受け取ってくれなかったでしょう? この匂い袋にはずいぶん慰められましたが、今夜はベッドからあなたの纏う香りがして、眠るどころか一睡もできそうにありませんでした。おかげで窓からあなたが庭に向かうところを見つけられたのですが」
悪戯っぽく微笑んで、さらりと告げられた内容。
時間をおいて理解できると、これ以上赤くなれないと思っていた顔が火を噴きそうだった。
ぎゅっと抱擁の輪を狭めた殿下は、耳元で囁くように問いかけてきた。
「リロットの花言葉を知っていますか?」
ジャック隊長に「勉強しろ」と渡された花言葉の本。
花言葉に興味はなかったが、暇つぶしもかねて読破してしまった。
「……“恋に落ちる”」
答えを呟けば、「では、男性が女性にリロットの花を贈る場合はどう変化します?」と重ねて問われる。
もちろんその答えも載っていた。
男性が女性に花を贈る場合、花言葉はニュアンスが変わる。とくに花の色を贈る女性の瞳の色にからめたなら、よりいっそう意味が深まるリロットの花言葉は。
「……“貴女に、恋に落とされた”」
殿下は花言葉を知っていてわたしに贈ったのだろうか?
恥ずかしさで死ねるなら、そろそろお迎えが来そうだ。羞恥に縮こまるわたしの髪をやさしく撫でてとどめをさそうとしていた殿下は、「これからは、僕以外のだれにも匂い袋をあげないで下さい」と言って、最後の息を奪った。
――明日になれば帰ってしまうのに、一夜の夢にできなくなってしまう。
ミア神は残酷な真似をする。
なくしてしまうぬくもりなら、一度も触れ合わない方がひとりの寒さにまだ堪えられた。
グッと喉をつまらせてあたふたと抱擁から逃げ出したわたしの背に、殿下の声がかかった。
「あなたが王宮に忘れて行かれた帽子は、明日お返ししますね。母上にははっきり宣言して出てきました。この帽子があつらえたように似合う女性を僕の花嫁にします、と」
驚いて脚が止まった。
そろそろと振り向くと、殿下は足元のリロットを一輪摘んでわたしの前に立った。
瞳に宿る炎をもう知っているから視線を逸らすことができなくなった。
彼はわたしの耳にそっとリロットの花をさし、そのまま両手で頬を包むと顔を寄せてきた。
「明日は籠いっぱいに贈ります。式の日には王宮中に飾りましょう。僕がどれだけあなたに夢中か、テルミア中に知れ渡るように」
…………というか、あれは! あれはキスなのかっ!?
口の中にクッキーなどないから、舌で探るんじゃない!!
ヨルンは謳う。
第二王子の花嫁は、リロットの花嫁。植物の世話が好きで、晴れた日には帽子をかぶって庭で夫とお茶を楽しみ、そして彼女の育てたリロットの花はすべて夫に贈られたと。
女性から男性にリロットの花を贈る場合の花言葉は。
――“恋に落ちるのは、貴方とだけ”。
最後まで読んで頂き、本当に有難うございました。
この話は短編、「甲冑の勇者サマVS氷の王子サマ」とリンクした、異世界召喚競作企画『テルミア・ストーリーズ+』様おまけ部門参加作です。