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第8話:琥珀色の午後と、図書室のパン焼き職人

図書館の一階、かつての新刊コーナーは、今や世界で最も静かで芳しい「ベーカリー」へと変貌を遂げていた。


 大きなガラス窓から差し込む午後の陽光が、微細な塵を黄金色に輝かせ、書棚の背表紙を優しく撫でている。


 アキの鼻腔をくすぐるのは、古書の紙の匂いではない。


 それは、発酵を終えたばかりの生地が熱を帯び、香ばしく弾ける「焼きたてのパン」の匂いだった。


「シロ、内部炉の温度をあと 5 度下げて。……表面が焦げすぎちゃうわ」


「了解。排熱ベントの開度を 12.4% 上昇。……アキ。小麦粉の配合比率に対し、ハルトが採取した『野生の酵母』の発酵力が想定を 8% 上回っています。……焼き上がりまで、残り 120 秒です」


 かつての殺戮兵器『シロ』は、その重厚な装甲の上に特製のオーブンユニットを背負い、静かに、けれど精密に熱を管理していた。


 ハルトは、シロの足元で古い図鑑を広げながら、庭園で収穫したばかりのハーブを丁寧に刻んでいる。


「……見て、アキ。この図鑑によると、これは『ローズマリー』っていうんだって。……これを少し乗せるだけで、100年前のレストランみたいな味になるらしいよ」


「ふふ、ハルトはすっかり物知りね。……あ、シロ、今よ!」


「——プロトコル・ベーキング、完了。……ハッチ開放。……火傷に注意してください」


 シロの背中から「プシュッ」という小気味よい蒸気の音と共に、こんがりと黄金色に輝くパンが姿を現した。


 外側はパリッと、内側はもっちりと。人類が敗北した後の世界で、これほどまでに完璧な「生の象徴」が他にあるだろうか。


 三人は、閲覧用の大きなオーク材のテーブルを囲んだ。


 シロが背部のアームを器用に動かし、ハルトが屋上で育てたハーブのティーを、白い陶磁器のカップへと注ぐ。


 琥珀色の液体から立ち昇る湯気と、焼きたてのパンの熱気が、図書館の冷たい空気の中に小さな「幸福の領域」を作り出していく。


「……おいしい。……ハルト、このローズマリー、最高よ」


「よかった。……シロが温度を 0.1 度単位で守ってくれたおかげだよ。……なんだか、世界が終わったなんて嘘みたいだね」


 窓の外では、今日も「植物ゾンビ」たちが、図書館の周りの芝生をのんびりと踏み固めていた。


 彼らが吐き出す新鮮な酸素が、窓の隙間から流れ込み、アキたちの細胞を潤していく。

 

「……ねえ、シロ。……お父さんがこの景色を見たら、なんて言うかしら」


 アキが、シロの温かい装甲板にそっと手を置いた。


「アーカイブ検索……。……カズマの行動ログに基づき、推測します。……『アキ、パンの耳は残さず食べろよ』。……および、ハルトに対しては『娘に美味しいものを食べさせてくれて、感謝する』とのメッセージを出力する確率が 87%

です」


 ハルトは少し照れくさそうに笑い、シロの大きな脚をポンと叩いた。


「……ありがとう、シロ。……明日は、あの百貨店の地下で見つけた『ハチミツの瓶』を開けようか。……このパンにきっと合うよ」


「肯定。……在庫管理リストに追加しました。……明日のピクニックの降水確率は7%。……絶好の『ハチミツ日和』になるでしょう」


 夕刻の影が図書室に長く伸び、三人の影を一つの大きな形に繋いでいく。

 鉄の獣と、二人の人間。


 かつての文明が遺した静かな城の中で、彼らは世界で一番のんびりと、けれど誰よりも真剣に、今日という名の贅沢な時間を味わい続けていた。


 それは、争いも飢えもない、新しい文明が奏でる、静かで美しい朝食(あるいは午後のティータイム)の記録だった。

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