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烙禍ノ彗星  作者: 雨宮麗
虚との邂逅 編

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25 『彗星を背負う者』


 男はベールから赤い瞳を覗かせるだけで、動くことはしなかった。

 赤い瞳だけが、ただゆっくりとルーガンを捉えている。


 先ほどまでシュカへ向けられていた興味は消え、今そこにあるのはルーガンに対する静かな観察だった。


「人間にしては、悪くない気配だ」


 呟きは独り言のようだった。

 ルーガンは肩に担いだ大剣を軽く持ち直す。


「そりゃどうも」


 それだけ言って、一歩踏み出したルーガン。

 その一歩が石床を鳴らす。

 ただそれだけの音なのに、不思議とその場が静まり返ったように感じられた。


「だが……」


 男の足元から、黒い炎が滲み出す。

 それは燃え広がる炎ではない。


 まるで生き物のようだった。


 床を舐めるように這い、柱へ絡みつき、壁を駆け上がる。

 闇そのものが意思を持って周囲を侵食していく。


 石壁が軋み、天井から細かな砂埃が舞った。


「俺の前に立つには足りないな」


 男が静かに右手を持ち上げる。

 その動きに呼応するように、黒炎が一斉に形を変えた。


 獣、蛇、槍、刃。


 数え切れないほどの黒い殺意が、空間を埋め尽くす。


 シュカは息を呑んだ。

 避ける場所がない。どこへ逃げても、飲み込まれる。


 そんな絶望だった。


 次の瞬間、黒炎が弾けた。

 空間が牙を剥いたように、無数の闇がルーガンへ襲い掛かる。


 轟音。


 石柱を砕き、床を抉り、一直線に飲み込んでいく。


「ルーガンさんっ!」


 シュカが叫ぶ。

 黒炎は一帯の半分を呑み込み、ルーガンの姿は完全に見えなくなった。


 ──やられた。


 一瞬、そう思った。


 だが。


「派手な割に、随分軽いなァ?」


 黒炎の向こうから、呆れたような声が響く。

 男の眉が、初めて僅かに動いた。

 黒炎がゆっくりと割れていく。


 まるで目に見えない何かに押し退けられるように。


 その中央を、ルーガンが歩いてくる。

 服の裾が少し焦げているだけで、ルーガン自身には傷一つない。


「この程度か?」


 そんなルーガンの言葉に、男は答えない。


 次の瞬間、その姿が掻き消えた。床を蹴る音すら残さず、黒い影だけが走る。


 シュカが次に視界に捉えた時には、既にルーガンの背後だった。


 黒炎を纏った拳が、後頭部めがけて一直線に振り抜かれる。


 だが、ルーガンは振り返らない。

 ただ肩越しに左手を伸ばす。


 乾いた音が鳴ったかと思えば、男の拳は、その手の中で止まっていた。


 拳を受け止めた衝撃で黒炎が暴れ狂い、床石がめくれ上がり、二人の足元を中心に放射状の亀裂が走る。


 それでも、ルーガンの腕は、岩のように動かなかった。


「……なに?」


 男の口から、初めて驚きの声が漏れる。


 その一瞬だった。ルーガンは男の拳を掴んだまま、一歩踏み込んだ。


 振り向きざまに腹部へ拳を打ち込む。


 派手な音はしない。鈍く、身体の奥まで響くような衝撃だけが一帯を震わせた。


 男の身体がくの字に折れる。肺から空気が押し出され、口元から鮮血が散った。

 それでも男は後ろへ飛ぶことで威力を殺し、空中で体勢を立て直す。


 着地と同時に黒炎が爆ぜた。


 床が溶け、壁が軋む。

 崩れた祭壇さえ、黒く染まっていく。


「人間ごときが!!」


 怒号と共に、男が突っ込む。

 拳だけではない。

 黒炎そのものを刃へ変え、雨のように降らせる。


 一本でも掠れば終わる。


 それほど濃密な殺意だった。


 それでも怯む様子を一切見せず、ルーガンはその中を歩く。


 左へ半歩ずれ、首を少し傾け、身体を僅かに開く。そして軽くステップを踏むように左右に進む。


 それだけで、無数の刃は一つとして届かない。


 男の瞳から、完全に余裕が消えた。


「何だ、何が起きている」


 あり得ない。見えているはずがない。

 なのに、避けているのではない。

 まるで攻撃が来る場所を、最初から知っているかのようだった。


 寒気が走る。

 男が初めて自分から距離を取った。


 ルーガンは追わない。

 ただ、大剣をゆっくり肩から下ろした。


「もう終わりか?」


 静かな声だった。

 挑発ではない。本気でそう思っている声だった。


 その一言が、男の怒りを震わせた。


「人間風情がァァァッ!」


 黒炎が暴走する。

 一帯を覆うほど巨大な闇が渦を巻き、天井を砕きながらルーガンへ落ちる。


 世界そのものが潰れようとしていた。


 シュカは目を見開く。


 これだけは。これだけは避けられない。

 そう思った。


 ルーガンは、腰に差した長剣を抜き放つ。


「男のヒステリックは耳が痛てぇな」


 踏み込む。

 次の瞬間には、男の眼前だった。

 振り上げられた長剣が、黒炎ごと闇を両断する。


 斬撃は止まらない。

 止まることなく全方位から襲いかかる黒炎を、その力ごと斬り伏せる。


 最後に、ルーガンは男の目前でぴたりと剣を止めると、そのまま身体を捻った。


 右脚が弧を描く。


 視界が追いつくより早く放たれた回し蹴りが、男の側頭部を正確に捉えた。


 骨の砕ける鈍い音。


「がッッ!!」


 男の身体は横殴りに吹き飛び、石柱を三本まとめてへし折りながら壁へ激突する。


 轟音が空気を揺らし、瓦礫が雨のように降り注ぐ。


 静寂の後、しばらくして瓦礫の奥から男が這い出ようとするが、腕が震え、脚が立たない。

 黒炎も、もう燃えてはいなかった。


 ルーガンはゆっくり歩み寄る。


「ここまでだな」


 抵抗する気配すらなくなった男の背中へ、そのまま腰を下ろした。

 そして静かに、男の顔を覆っていた白い布へ手を伸ばす──。


 シュカの視線がこちらに向いていることを確認したルーガンが、口を開く。


「シュカ、この顔に見覚えあるだろ?」


 さらり、と。

 白い布が音もなく滑り落ちた。

 長い黒髪が肩を流れ、先ほどまではちらりと覗く赤い瞳以外が殆ど伏せられていた男の素顔の全てが露わになる。


 その顔を見た瞬間だった。


「ッ!?え……、なに……なんで?」


 シュカの喉から、掠れた声が漏れた。

 心臓が嫌な音を立てて、全身から、すっと血の気が引いていく。


 見間違えるはずがない。

 幼い頃から、何度も見上げてきた顔だ。


 エデンにある王宮。

 そこにある塔の最上階に築かれた、世界を見守るように立つ一体の石像。


 人々が祈りを捧げる、最高神の像。


 その顔と──

 目の前の男の顔が、寸分違わず、同じだった。


「……そんな」


 膝から力が抜けそうになる。


 どうして。

 最高神は神話の存在だ。

 人が一生を終えても会うことなどない、遥か高みの存在。


 それが、なぜ。

 こんなところに存在しているのか。


「ルーガンさん……なんで、」


 震える声で問い掛ける。

 ルーガンは男の顔を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。


「こいつは最高神であって、最高神じゃねぇ」


「え……?」


 シュカが息を呑む。


「最高神の分霊の一つだ」


 静かな言葉だった。

 それなのに、その一言は場の空気を一変させるほど重かった。


「分霊……?」


「ああ」


 ルーガンは立ち上がる。

 倒れた男へ一度だけ視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。


「今から何千、何億……。一体どれほど前かは分からねぇが、世界は、最高神の手によってエデンとゲヘナへ分かたれた」


 シュカは黙って聞いている。

 それは誰でも知っているような歴史だ。


 世界の常識。

 誰もが疑うことのない神話。


「だが、その直後に最高神は姿を消した。これは恐らくエデンでは教わらなかったはずだ。ゲヘナでも、これを知っている者は限られた人間だけだ」


「……!」


「だが、姿を消したっていう理由は表向きのモンだ。実際は違う。最高神は何者かによって討たれたんだ」


 シュカの思考が止まる。


「神が、討たれた?」


「あぁ。何者かに討たれた、ということしか分かってねぇんだが、砕かれた魂は無数の分霊となって、各地へ封じられている」


 静かな声だった。

 だが、一つ一つの言葉が重い。


「じゃあ……」


 シュカは倒れている男を見る。


「この人は……」


「その分霊の一体だ」


 ルーガンは頷く。


「本来の力じゃなく、不完全な状態だ。分霊によって力に差があってな。今回みたく簡単に倒せる分霊だけじゃねぇ」


 シュカの喉がゴクリと鳴る。

 先ほどまで神殿を支配していた圧倒的な気配は、もうほとんど消えていた。


「でもな」


 ルーガンの声が少し低くなる。


「最近、その封印が妙に緩み始めてんだ。何かの前兆かもしれねぇ。ここもその封印の一つだった」


「封印……」


ルーガンはシュカを見る。


「封印そのものが何らかの原因で開いて、お前たちは巻き込まれた。虚のメンバーが消えた場所に、シュカとレイドがいた形跡があったって報告を受けてよ。それで急いで来たんだ。……まずは、お前らが無事で何よりだ」


「ルーガンさん……っ」


 シュカは、心底安心したように笑みを浮かべるルーガンを見て、それまで耐えていた感情が揺さぶられて涙を浮かべる。


 その時だった。


 『──ォォォォォォォォォォォン……!!』


 地の底を揺るがすような咆哮が、シュカたちのいる一帯を下から突き上げるようにして震わせた。


 空気が震える。

 砕けた天井から砂が降り注ぎ、床に細かな亀裂が走る。


「っ!」


 シュカは慌てて辺りを見渡す。

 同時に、男の身体から最後の黒炎が霧のように消えていった。


 闇が消える。

 それに呼応するように。

 壁際へ並んでいた松明へ、一つ、また一つと火が灯り始めた。


 ぼう、と赤い炎が揺れる。

 ランタンの微かな灯りと崩れた隙間から入り込む外からのランタンの灯りだけで照らされただけの暗い空間が、ゆっくりと明るさを取り戻していく。


「……ここ」


 シュカは息を呑んだ。


 巨大な石柱。

 崩れ落ちた祭壇。

 天井いっぱいに描かれた壁画。

 床一面を埋め尽くす古代文字。

 今まで瓦礫にしか見えなかった場所は、巨大な神殿だった。


 ルーガンが崩れた壁際まで歩く。

 外へ目を向けた、その瞬間。


 表情が変わった。


「……おいおい。あっちもド派手にやってんなァ」


 珍しく苦笑が漏れる。


「ここはまだまだ未開の地だが、まさかあんなモンまで出てくるとは」


「え?」


 シュカとミーシャもルーガンのそばに駆け寄る。


 崩れた壁の向こう。

 黄昏街の中央で、廃墟の街を見下ろすように、一頭の巨大な龍が咆哮を上げていた。


 黒雲を突き抜けるほどの巨体。

 翼を広げるたび、街全体が揺れる。

 その咆哮だけで、崩れかけていた建物が次々と倒壊していく。


「……あれ」


 シュカの瞳が見開かれる。


 龍の足元。

 稲妻が何度も弾けていた。

 青白い雷光が廃墟を駆け抜ける。

 その中を、一人の男が駆けている。


「レイド!!」


 さらに、その後方。

 瓦礫の上を飛び回りながら、レイドの援護をしつつ銃声を響かせる青年の姿。


「リューエンさん!!」


 ルーガンは剣を腰に差し直すと、シュカとミーシャを両脇に抱えて、崩れた壁から身を乗り出す。


 神殿は街を見下ろすように高く築かれていた。


 眼下には、瓦礫の街。

 巨大な龍が咆哮し、その足元では雷が幾度も弾けている。


「急ぐぞ」


 ルーガンが短く言った。


「え……?」


 シュカが足元を見下ろし、息を呑む。


 高い。

 落ちれば無事では済まない高さだった。


「る、ルーガンさん……?階段は……」


 シュカが恐る恐る尋ねる。

 ルーガンは街の様子を一瞥すると、口元を吊り上げた。


「そんなモン使ってる暇があるか」


「え?」


 その一言に、シュカの嫌な予感が一気に膨れ上がる。


 まさか。いや、でも。

 そんなこと──


「しっかり掴まってろ」


 ルーガンが笑う。


 次の瞬間。

 躊躇なく、ルーガンは神殿の外へ踏み出した。


「えぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!?」

「きゃああああああああああああああああああああああっ!!」


 シュカとミーシャの絶叫が、黄昏街中へ響き渡る。


 身体が一気に宙へ放り出される。

 凄まじい浮遊感。

 風が全身を叩きつけ、景色が一瞬で流れていく。


「ル、ルーガンさんんん!!飛び降りるなんて聞いてませんんんんんん!!」


「大丈夫だ!なんとかなるだろ!!」


「全然だいじょばなぁぁぁい!!」


「きゃぁぁあああああ!!」


 ルーガンの豪快な笑い声と、二人の悲鳴を乗せたまま。

 三人は巨大な龍が待つ戦場へ向かって、一気に落下していった。

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