24 『アステリアのシュカ』
「……僕を呼んでる?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。ミーシャは小さく頷く。
「うん」
耳を澄ませるように目を閉じ、静かに息を吸う。
「さっきより、もっとはっきり聞こえる」
そして、確信するように呟いた。
「シュカのこと、呼んでる。大丈夫だよ。シュカにならできるって言ってる!」
その言葉と同時だった。
ぽたり、と響いていた水音が、不意に止む。
静寂が訪れる。空気すら息を潜めたような沈黙が辺りを包んだ。
次の瞬間、どこからともなく、水が湧き上がる音が響いた。
「……!」
シュカは思わず辺りを見回す。崩れた柱の隙間、砕けた石畳の亀裂、壁を走る無数の傷跡。その至る所から、細い水の流れが姿を現していた。
まるで長い眠りから目覚めたかのように。
静かに、それでいて確かな意思を持って、水は一筋、また一筋と集まり始める。その様子を見つめていた男の表情から、初めて笑みが消えた。
「……そういうことか」
低く呟く。
その赤い瞳は、集まり始めた水ではなく、シュカだけを見つめていた。
「お前が封印を解いたのではなく、水がお前に応えたのか。何も知らず、力も使えぬが……やはり色濃く継いでいるな」
男は小さく笑う。しかし、その笑みは先ほどまでとは違う。面白がるような余裕ではなく、長年探し続けていた答えをようやく見つけた者の笑みだった。
「やはり、俺はお前が欲しい」
「……え?」
意味が分からない。
男は初めから、自分を知っているような口ぶりだった。
『あの男の匂いがする』
『俺を封じた男』
そう言っていた。
そして今もまた、自分を見て笑っている。まるで、ずっと探していた獲物を前にしたように。
男は一歩踏み出した。
「もう一度だ。このような機会が早々に訪れるとは。諦めてなどやるものか。今度こそ、お前の力を……そして、あの男からすべてを奪ってやろう」
赤い瞳が細められる。
「お前の中には、確かにあの男の面影がある」
シュカの鼓動が大きく跳ねた。
「あの男って……誰なんだ」
問いかけても、男は答えない。ただ、愉快そうに笑みを深めるだけだった。
「お前がここに来て、息をするたび、口を開くたび、生きていることを後悔させてやりたくなる。それほどまでに、お前は忌々しい」
男の纏う気配に、ぞくりとした寒気が肌を刺す。その言葉の真意を知ろうと口を開きかけるが、あまりの恐ろしさに声が出ない。
そんなシュカの前で、男は最後に呟いた。
「知らぬまま死ぬのも、惨めで面白いな」
男の言葉が、静かな空間に落ちる。その瞬間、シュカの胸の奥で、何かが震えた。
怖い。
目の前の男は、自分より遥かに強い。力の差など、嫌というほど理解している。
炎を放っても届かない。立ち向かっても、簡単にねじ伏せられる。
それでも。
「……僕は」
シュカはゆっくりと立ち上がった。
震える足。痛む身体。それでも、倒れたままではいられなかった。
男が僅かに眉を動かす。
「まだ立つのか」
「……僕は」
シュカは拳を握る。その手の中に、小さな炎が灯った。
以前なら恐れていた炎。でも今は違う。
これは、自分を壊すものじゃない。
守りたいと思った気持ち。失いたくないと思った想い。その全部が形になったものだ。
「僕は、シュカだ」
真っ直ぐに男を見る。
「アステリア旅団の……シュカだ!!」
その言葉が響いた瞬間、男の赤い瞳が細められた。
「……アステリア?」
男は繰り返すように呟く。シュカは構わず炎を纏わせた。
「僕には、帰る場所がある!」
紅蓮の炎が燃え上がる。
「僕を認めてくれた人がいる!」
一歩踏み出す。
「僕を仲間だと言ってくれた人がいる!」
炎が大きく渦を巻く。
「だから……!」
シュカは拳を握り締めた。
「僕は、もう僕自身を否定なんてしない!!」
同時に、炎の龍が咆哮する。一直線に男へ向かって放たれた炎は、先ほどよりも遥かに強く、凄まじく速かった。
だが。
「……愚かだ」
男は静かに手を伸ばす。その手から溢れた黒い炎に触れた瞬間、紅蓮の炎は、まるで存在そのものを否定されたかのように消え去った。
「っ……!」
シュカの身体が吹き飛ぶ。背中から壁へ叩きつけられ、息が詰まる。
「シュカ!」
ミーシャが叫ぶ。しかし、男は止まらない。
「弱者が、その程度の覚悟で俺の前に立つな」
黒炎が腕のように伸びる。
「お前は何も知らない。自分が何者なのかも」
シュカの呼吸が止まった。
黒炎が迫る。だが、シュカには避けられない。
身体が動かず、ただ迫り来る黒炎を見つめるしかなかった。
その時だった。
胸の奥で、熱が強く脈打つ。
怖い。
それでも、ここで終わるわけにはいかない。
自分は、もう一人じゃない。何も持たないまま立っているわけじゃない。ここまで来たのは、自分で選んだからだ。
炎が再び灯る。
だが、黒炎は止まらない。
「無意味だ」
男が告げた。
──その瞬間。
閃光とともに、一筋の斬撃が黒炎を空間ごと切り裂いた。
「よく言ったな、シュカァ!!」
豪快な声が、閉ざされた空間へ轟く。
黒炎が霧散する。その向こうから現れた男は、大剣を肩に担ぎ、いつものように豪快な笑みを浮かべていた。
「ルーガンさん……!」
シュカの目が大きく見開かれる。
「ったく……探すのに苦労したぞ」
ルーガンは肩を回しながら、ゆっくりと前へ出た。その背中は、あの日と同じだった。初めて自分を受け入れてくれた時の、大きくて頼れる背中。
「シュカ」
「……はい」
「よく、自分の名前を言えたな」
ルーガンは笑う。
「それが一番大事なことだ」
シュカの胸が熱くなる。
男は、そんなルーガンを見つめていた。
「……誰だ、貴様は」
低い声が響く。
ルーガンは足を止め、向けられる凄まじい殺意に目を細めた。
「ただの通りすがりのイケメンお兄さんってやつだ」
軽く肩をすくめる。
「そしたらこんな所で、ウチの仲間に手ぇ出してる野郎がいたもんでな」
「邪魔をするつもりか?」
燃え盛る黒炎の闇が押し寄せる。だが、ルーガンは一歩も退かず、シュカを守るように立った。
それだけで、シュカとミーシャを覆っていた黒炎の圧が、僅かに揺らぐ。
「当たり前だ」
大剣を肩から下ろし、ゆっくりと切っ先を男へ向ける。
「仲間に手ぇ出されてるのを、黙って見てる団長がどこにいる」
その一言だけで、シュカの胸が熱くなった。ルーガンは振り返らない。
「シュカ。さっき、お前は胸を張って言ったよな」
大剣を握る手に力が入る。
「『アステリア旅団のシュカだ』って」
「……!」
ルーガンは不敵に笑った。
「仲間がそこまで啖呵切ったんだ。なら、団長の俺が引く理由なんざ、一つもねぇ」
一歩踏み出す。
「俺を誰だと思ってやがる」
その声には、揺るぎない自信があった。
「俺は──アステリア旅団の団長だぞ」
静かに大剣を構える。
「シュカ、その子連れて下がってなァ」
口角を吊り上げ、豪快に笑った。
「団長ってのが、どうやって仲間を守るのか教えてやる」
男の黒炎が唸りを上げる。
ルーガンは、一歩も退かなかった。




