23 『水底の面影』
シュカの身体は動かなかった。
目の前にいる男の赤い瞳は、怯えたまま身を縮こませているミーシャだけを、静かに見つめている。
助けなければならない。
頭では理解していた。
今すぐ動かなければ、ミーシャが傷つく。
それなのに、指先ひとつ動かすことができない。
まるで空間そのものが、自分の身体を押さえつけているかのようだった。
「……っ」
男の手が、ゆっくりとミーシャへ伸びていく。
その光景を見た瞬間だった。
シュカの脳裏に、忘れることのできない記憶が蘇る。
燃え盛る炎。
教室中に響き渡る悲鳴。
逃げ惑う人々。
そして、その中心に立ち尽くしていた自分。
あの日も、今日と同じだった。
誰かを助けたい。
その想いだけだった。
けれど、その願いとは裏腹に、胸の奥から溢れ出した炎は、自分の意思などまるで関係ないと言わんばかりに全てを飲み込んでいった。
守りたかったものも。
帰る場所も。
当たり前だと思っていた日常も。
何もかも。
だからシュカにとって、炎は単なる力ではない。
誰かを守れる可能性を秘めながら、同時に自分から全てを奪った恐怖そのものだった。
特殊能力──灼火陽焔。
それは、自分を救うかもしれない力でありながら、自分自身を壊した力でもある。
「怯えているな」
男が静かに呟いた。
その声に、シュカははっと顔を上げる。
いつの間にか、男の赤い瞳はこちらを見据えていた。
その視線は、皮膚の上ではなく、心の奥底を覗き込んでくるようだった。
「己の力が怖いか」
「……っ」
「膨大な炎を宿しているというのに、その炎を最も恐れているのは、お前自身だ」
言い返せなかった。
その通りだったからだ。
シュカはずっと恐れていた。
また暴走するのではないか。
また誰かを傷つけるのではないか。
もしレイドやルーガン、アステリア旅団のみんなを、自分の炎で傷つけてしまったら。
そう思うだけで、身体の震えは止まらなかった。
「僕は……」
掠れた声が漏れる。
怖い。
今でも、怖い。
その時だった。
脳裏に、一人の男の背中が浮かぶ。
自分を受け入れてくれた人。
自分がエデンの人間だと知っても、何一つ変わらず手を差し伸べてくれた人。
『俺は、シュカを信じる』
ルーガンの言葉。
続いて浮かぶのは、雷を纏って笑う姿。
『シュカは俺の相棒だ』
レイドの声。
二人は一度も、自分の力を恐れなかった。
突然変異体だからと蔑むことも。
化け物を見るような目を向けることも。
一度だってなかった。
それなのに。
いつまでも自分だけが、自分を信じられないままでいいのだろうか。
「……僕は」
シュカはゆっくりと右手を持ち上げた。
震えは止まらない。
それでも、下ろさなかった。
すると。
指先に、小さな火が灯る。
暴れ狂う炎ではない。
全てを焼き尽くそうとする災厄でもない。
揺らめきながらも、確かな意思を宿した、小さな炎だった。
シュカはその炎を静かに握り込む。
男の眉が、僅かに動いた。
「何もなかった僕に、ルーガンさんは居場所をくれた」
炎が少しずつ大きくなる。
「何もなかった僕を、仲間だって言ってくれた」
熱が腕を伝い、全身へ巡っていく。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
炎は暴れない。
まるでシュカの覚悟を待っていたかのように、静かに燃えていた。
「だから僕も……」
シュカは真っ直ぐ男を見据える。
もう視線を逸らさない。
「誰かの居場所を守れる人になりたい」
その言葉と同時に、炎が弾けた。
「灼火陽焔!!」
轟音。
紅蓮の炎が石造りの空間を一気に染め上げる。
濃く淀んでいた血の臭いさえ押し返すほどの熱気が吹き荒れ、龍のように渦を巻いた炎が一直線に男へ襲いかかった。
しかし。
男は微動だにしなかった。
静かに片手を持ち上げる。
ただ、それだけ。
次の瞬間、紅蓮の炎は音もなく霧散した。
「……え?」
シュカの瞳が大きく見開かれる。
今の一撃は、自分の持つ全てだった。
恐怖を乗り越え、覚悟を込めた炎だった。
それなのに。
「悪くはない」
男は淡々と言う。
「だが、足りない」
低い声と共に、男の足元から黒い炎が滲み出す。
それは炎というより、闇そのものが形を得たような禍々しい力だった。
「その程度では、俺には届かん」
空間が軋む。
黒い炎は静かに揺れているだけなのに、圧倒的な威圧感が辺りを支配していた。
シュカは息を呑む。
力の差を理解するには、それだけで十分だった。
「……っ」
歯を食いしばる。
届かない。
どれだけ願っても。
どれだけ想いを込めても。
目の前の男には届かない。
それでも、シュカは炎を消さなかった。
「まだ……」
震える声で呟く。
「まだ、終わってない……!」
再び炎を集める。
慣れない力を立て続けに使ったことで、身体中が悲鳴を上げる。
視界が揺れる。
呼吸も苦しい。
それでも。
ミーシャだけは守らなければならない。
その想いだけが、シュカを立たせていた。
「愚かな」
男は静かに告げる。
「己の力すら理解できぬか」
赤い瞳が細められる。
「お前の炎には迷いがある」
その言葉に、シュカの肩が震えた。
「守りたいと願いながら、その炎を恐れている」
胸の奥へ、鋭い刃が突き刺さるようだった。
「……シュカ」
不意に、小さな声が響いた。
ミーシャだった。
「シュカ」
小さな声だった。
震えているはずなのに、不思議とその声だけは真っ直ぐだった。
シュカが振り向くと、ミーシャは男を見つめながらも、小さく首を横に振っていた。
「シュカの炎……」
その瞳には恐怖が滲んでいる。
それでも、彼女は笑おうとしていた。
「怖くないよ」
「……え」
思わず聞き返す。
ミーシャはこくりと頷いた。
「だって」
一度だけ、シュカの胸元へ目を向ける。
「シュカが、その炎を怖がってるから」
その言葉に、シュカの瞳が揺れた。
「本当に怖いものはね」
ミーシャはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「誰かを傷つけても、なんとも思わない。平気でひとを捨てるよ」
「……」
「でもシュカは違う」
小さな手が、自分の胸へ添えられる。
「ずっと苦しんでる」
その一言だけで十分だった。
誰にも言えなかった。
誰にも知られたくなかった。
自分の弱さを、恐怖を。
それなのに、この少女は、何もかも見透かしたように微笑んでいる。
「だから」
ミーシャは少しだけ笑った。
「シュカの炎は、怖くない」
胸の奥が熱くなる。
炎とは違う。
静かで、優しい温もりだった。
その瞬間だけは、自分の中の恐怖が少しだけ遠ざかったような気がした。
だが。
「くだらん」
男が冷たく吐き捨てる。
空気が一変する。
「そんな綺麗事で、力への恐怖が消えるものか」
男が片手を掲げる。
黒い炎が蠢き、腕のように形を変えていく。
まるで生き物のようだった。
「ならば、その甘さごと潰してやろう」
巨大な黒い腕が、一直線にミーシャへ伸びる。
「……っ!」
シュカは咄嗟に手を伸ばした。
守らなければ。
そう思った。
だが、炎は現れなかった。
「……なんで」
力が出ない。
さっきまで確かに燃えていた炎が、跡形もなく消えている。
胸の奥に、再び恐怖が広がる。
また失う。また誰かを守れない。
また、自分のせいで。
「シュカ!」
ミーシャが叫ぶ。
その声に、シュカが顔を上げた瞬間だった。
ミーシャの表情が変わる。
「……聞こえる」
黒い腕へ向けていた視線が、ゆっくりと暗闇の奥へ向いた。
まるで、誰かの呼び声を探しているように。
「え……?」
シュカは思わず声を漏らす。
ミーシャは答えない。
耳を澄ませるように目を閉じ、小さく呟く。
「水……」
その一言で、男の動きが止まった。
「……水?」
シュカが聞き返す。
ミーシャはゆっくりと目を開く。
「ずっと聞こえてる」
その声は、どこか確信に満ちていた。
「さっきから、ずっと」
静寂が訪れる。
その中で。
ぽたり。
小さな音が響いた。
水滴が落ちる音。
誰もいないはずの暗闇の奥から、確かに聞こえてくる。
ぽたり。また一滴。
乾ききった石床へ、水が落ちる音だけが静かに反響する。
「ここ……」
ミーシャはゆっくりと周囲を見回した。
崩れた柱。砕けた壁。黒く乾いた血痕と、むせ返るような血の匂い。
そして、誰もいない暗闇。
「この場所、ずっと、水が泣いてる」
シュカは息を呑んだ。
水が、泣く。
そんなことがあるはずもない。
だが、ミーシャは真剣だった。
「苦しそう」
ミーシャのその言葉に、男の赤い瞳が、ゆっくりと細められた。
初めてだった。
あれほど余裕を崩さなかった男の表情に、僅かな変化が生まれる。
「……水だと?あの男の水はもう消えたはず」
低く呟く。
その声には、ほんの僅かだが警戒が滲んでいた。
ミーシャは構わず耳を澄ませ続ける。
「この場所……」
壁へ視線を向ける。
「ずっと、水で包まれてた」
その瞬間だった。
シュカの脳裏に、リューエンの話が蘇る。
黄昏街。
誰も近づこうとしない禁忌の場所。
そして、148年前にあの線路のあった場所を沈めたという、水を操る男。
ぽたり、と響いていた水音が、少しずつ大きくなっていく。
ぽたり。
ぽたり。
やがてそれは、水滴ではなく、小さな流れとなって空間のどこかを巡り始めた。
男は静かにその音へ耳を傾ける。
そして、僅かに口元を歪めた。
「そうか」
低く呟く。
「まだ、完全に消えたわけでは無かったのか」
その声には、先ほどまでの余裕とは違う色があった。
まるで、忘れていた何かを思い出したような。
あるいは、予想もしなかった事態を前にしたような。
ミーシャはシュカを振り返る。
恐怖は消えていない。
それでも、小さく微笑んだ。
「シュカ」
「……え?」
「怖がらなくていい」
そう言って、暗闇の奥を指差す。
「この水」
一拍置いて。
「シュカを呼んでる」




