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烙禍ノ彗星  作者: 雨宮麗
虚との邂逅 編

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22 『生死を彷徨う街』

 

『殺せ、この場の全てを』


 殺せ、殺せとシュカの脳内で響く声、とも言えない黒い衝動のような何か。それは黄昏街で目を覚まして尚、シュカの思考を支配していた。


 しかし、その『殺せ』という言葉に、これまでのような悪意は感じない。

 いや、元よりあの声から感じるものは、悪意などという単純なものではなく、もっと複雑なもののようにシュカは感じていた。


 だが今この場で、その声はどこか小さく掻き消えてしまいそうだった。それでいて雁字搦めにされた感情の行き場はなく、今もなおシュカの脳内で響き続けている。


 それでもシュカは、その声のことをレイドたちには話さなかった。これ以上、自分のことで気を削ぐようなことをしたくなかったのだ。そして何より、それを知られて嫌われてしまうのが怖かった。


 そんなシュカの手を、ミーシャがそっと握った。


「シュカ、その声のこと、みんなにはナイショ?」


「え?」


 ミーシャの言葉に、シュカの呼吸が止まる。


「……聞こえるの?」


 震えた声だった。ミーシャは小さく頷く。


「うん」


 それは当たり前のことのようだった。


「みんなには、聞こえてない」


「え……?」


「わたし、いろんな声が聞こえるの」


 ミーシャは首を傾げながら、シュカの胸元を見つめた。


「シュカの中に、ずっといる」


 シュカは思わず胸を押さえる。やはり、あの声は気のせいではなかった。


「僕が、怖くないの?」


 恐る恐る尋ねると、ミーシャは少し考えてから、小さく首を振った。


「こわくないよ」


「え……?」


「かなしい声」


 静かな答えだった。


「シュカの中の声は、怒ってる。でも、ずっとひとりぼっちで、さみしそう」


 シュカは言葉を失う。あの声を聞いて、そんな感想を抱くなんて。


「でも」


 ミーシャの表情が変わる。視線がどこか遠くへ向いた。


「……ちがう」


「え?」


「いま、べつの声がする」


 空気が止まる。

 ミーシャはゆっくりと辺りを見回した。


 そしてぽつりと呟く。


「このまち、こわい。だれかが、襲われてる声がずっとしてる」


 レイドとリューエンが顔を見合わせた。


「どうしたんだ?」


 レイドが問う。しかしミーシャは答えない。何かを聞くように、ただ耳を澄ませていた。


「泣いてて、助けてって誰かを呼んでる。それに、この子だけは守らなきゃって、ずっと何かから逃げてるの」


 一つ一つ数えるように、小さく呟いていく。

 その声は誰にも届かない。


「……ミーシャ?」


 シュカが肩に触れようとした、その瞬間だった。

 ミーシャの身体がびくりと震えた。


「っ!」


 顔色が一気に青ざめる。


「イヤな声」


 小さく震える声。


「だれかが」


 ゆっくりとシュカを指差した。


「シュカを見てる」


 その一言で、その場の空気が凍りつく。


「……どこだ」


 レイドが静かに問う。ミーシャは震えながら辺りを見回した。


 そして息を飲む。


「だれかがシュカをねらってる」


 その瞬間だった。

 ぞわり、と全員の背筋に悪寒が走る。


「伏せろッ!!」


 リューエンが叫ぶ。


 しかし遅い。

 廃墟の闇が不自然に蠢いた。


 黒い影。


 それは地面でも壁でもない。生き物のように四方から溢れ出し、一瞬でシュカとミーシャへ襲いかかる。


「シュカ!」


 レイドが飛び出す。

 雷が迸る。しかし拳は影をすり抜けた。


「なっ……!」


 影は実体を持たない。いや、持っているようで持っていない。触れることも攻撃することもできない。


「ミーシャ!!」


 リューエンが銃を構える。龍を纏った弾丸が放たれる。


 だが黒い影は水面に石を投げたように揺らいだだけで、そのままシュカとミーシャを包み込んでいく。


「レイドっ!」


 シュカが必死に手を伸ばす。


「シュカッ!掴まれ!!」


 レイドも手を伸ばした。


 あと少し。指先が触れる、その寸前。

 黒い闇が完全に閉じた。


 ぱん、と空気が弾ける。


 そこに残ったのは静寂だけだった。

 レイドの手は空を切る。


「……シュカ?」


 返事はない。


 シュカとミーシャの姿は、もうどこにもなかった。


 ✻✻✻


 意識が浮かび上がる。


「……っ」


 鼻を突く鉄の匂い。血の臭いだった。

 思わず息を止めたくなるほど濃い。


 身体を起こすと、そこは薄暗い石造りの空間だった。


 壁は大きく抉れ、床には無数の亀裂が走っている。柱は折れ、瓦礫が積み重なっている。


 激しい戦闘があったことは一目で分かった。


 だがそこに新しい血はない。


 床に染み付いた黒い血痕は、長い年月を経て乾ききり、色褪せていた。

 それでも空間には、おびただしい血の匂いだけが残っている。


 どれほどの殺し合いがあれば、何十年、あるいはそれ以上経っても匂いだけが残るのか。


 理由は分からない。

 ただ本能が警鐘を鳴らしていた。


 ここにいてはいけない、と。


 身体を起こそうとした瞬間、ごとり、と靴音が響く。


 暗闇の奥から一人の男が現れる。

 白い衣を纏い、ベールのように垂れた白布の下から、長い黒髪を揺らす男。


 そこから僅かに覗くのは血のように赤い瞳。シュカが知る黒いローブの男の赤い瞳とは全く違っていた。


 それを見た瞬間──


『殺せ』


 頭の奥で声が爆ぜた。


『殺せ』


『壊せ』


『逃げろ』


『絶対に赦さない』


 今までで一番大きく、脳が軋むほどの声だった。


「うっ……!」


 シュカは頭を押さえる。


 男はそれを見下ろしながら歩み寄る。

 笑っているが、その笑みに温度はない。


「ようやく会えたな」


 低い声。


 男はシュカの前にしゃがみ込み、何の躊躇もなく首筋に指を這わせた。

 ぞくりと全身が震える。


「……お前から、あの男の匂いがする」


「あの男……?」


「俺を封じた男だ」


 赤い瞳が細められる。


「お前自身は何も知らないまま生きている。それがどれほど滑稽なことか」


「……何を」


 シュカの言葉は途切れる。


 男は答えない。ただ楽しそうに笑っている。

 その時、小さな震えが響いた。


 ミーシャだった。

 シュカの陰に隠れるように震えている。


 ミーシャには“声”が聞こえていた。

 それはシュカの中の声とは違う。


 悪意だけだった。


 底のない憎悪、破壊衝動、世界そのものを嘲笑う黒い感情。


「……ぁ」


 ミーシャの唇が震える。

 男はそれを見逃さない。


「ほう」


 興味深そうに目を細める。


「面白い」


 一歩、また一歩とミーシャへ近づく。


「全てではないが、あらゆる声が聞こえているな?」


 ミーシャの肩が跳ねる。


「……図星か」


 男は口元を歪めた。


「しかし不愉快だな」


 声が低くなる。


「俺の招待もなく現れた挙句、人間風情が許可無く俺の声を聞くとは」


 男は手を伸ばす。


「やめろッ!!」


 シュカが叫ぶ。

 だが身体が動かない。空間そのものに押さえつけられているようだった。


「ミーシャから離れろ!!」


 必死の叫びも届かない。

 男の手は、ゆっくりとミーシャへ伸びていく。

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