15 『エデンとは何か』
朝、という実感はない。
だが、鳥の囀りでシュカは目を覚ました。
空のないゲヘナで、鳥の声は貴重だ。
――その時。
天井近くに設置されたスピーカーから、落雷のような爆音が響き渡った。
『もしもォォォし!!俺だけど!俺だよ、俺!レイド、シュカァ、起きてるかァ!?お前ら、今から俺の部屋集合なァ〜!!』
「俺」もといルーガンからのアナウンスだ。
シュカはキーンと鳴る耳を押さえながら聞いていた。
その横で、レイドが襲撃かと飛び起きる。
「レイド、ルーガンさんが……僕たちを呼んでるみたい」
「ルーガンさんか……。相変わらず朝から元気だなぁ」
そうして二人はすぐに準備をして部屋を出ていく。
坑道を古レンガで補装したような通路を駆け抜け、無骨な石造りの階段を下りていく。
一体何の用だろうかと、気が急く。
執務室の前に着くと、ルーガンがドアを開けて待っていた。
「おう、遅いぞ、バディども!」
シュカとレイドは顔を見合わせ、息を整えながら中に入った。
ルーガンの執務室は、地図や資料、沢山の本で囲まれていた。
どれも年季が入り、草臥れてはいるが、相当読み込まれた跡がある。
ルーガンは執務室に置かれたソファに二人を座らせると、二人の前にジュースを置き、自分も向かいの席についた。
「喉、乾いてるだろ?ナヴァル特製のりんごジュースだ」
「お!ナヴァルさんのりんごジュース!?ラッキー!」
そう笑顔を浮かべるレイドと違って、シュカは首を傾げる。
「ジュース……ってなに?絵の具で色つけた水を飲むの?」
その発言で、ルーガンが腹を抱えて笑う。
レイドはわなわなと震えている。
「シュカ、ジュースも知らねぇのか!?」
シュカはレイドの言葉に少し戸惑いながらも、グラスに手を伸ばす。
薄く赤みがかった液体が揺れた。
「……あ、甘い……」
目を丸くして飲むシュカを見て、ルーガンがくすりと笑う。
「やっぱりエデンとゲヘナじゃ、食文化も違うみたいだな。あいつも驚いてたし」
「あいつ?」
シュカの言葉に、ルーガンは首を振る。
「いや、なんでもないさ。今日は朝早くから急に呼び出して悪かったな」
「俺たちに、何か用ですか?」
レイドが聞くと、ルーガンは少しためらいを残しつつも口を開いた。
「昨日のことで、お前たちに聞きたいことがある」
昨日のこと。
その言葉で、シュカは一気に表情を強張らせた。
その隣で、レイドが声を上げる。
「ッ、ルーガンさん、シュカにはまだ……!」
しかし、シュカはレイドの言葉を遮るように、彼の服を掴む。
「だいじょうぶ。大丈夫だから」
そう言われて、レイドは納得とまではいかないが、心配そうな顔をして引き下がった。
そんな二人の様子を見たルーガンが続ける。
「ちゃんとバディらしく仲良くなってくれて嬉しいよ。シュカにはまだ時間が必要だってことも分かってる。だが、これからの旅団の為にも、ゲヘナの為にも、どうしても話をしなきゃならねぇんだ」
シュカは小さく息を吐き、グラスを握ったまま視線を落とす。
昨日のことが頭をよぎり、胸がぎゅっと締め付けられる。
「分かりました。僕に話せることなら……」
ルーガンは「ありがとう」と言って、少ししてから静かに口を開いた。
「話の内容は……昨日見た壁の一件についてだ。お前たちには衝撃的だろうし、無理に全部を話せとは言わねぇ。だが、あの死には裏があると考えてる」
シュカの手が、グラスを握り直す。
(……裏がある……?)
レイドは隣で、シュカの肩にそっと手を置いた。
「シュカ、ゆっくりでいいんだぞ。ルーガンさんは、ちゃんと分かってる」
シュカはその言葉の優しさに心を落ち着かせながら、もう一度ルーガンの方へと視線を戻す。
続けても大丈夫だと、小さく頷く。
それを見て、ルーガンは話を続けた。
「あれはエデンの人間だ。名前をカインだと呼んでいたが、シュカはどういう関係だったんだ?」
シュカはグラスを握ったまま、一瞬言葉を詰まらせた。
心の奥で、あの光景が再び蘇る。
吊るされたカインの無惨な姿、凍りついた血、あの瞬間の無力感。
自分が、もしあの時カインを拒絶しなければ――
そんな考えで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「カインは、僕の友達でした。僕がゲヘナに来るまでは」
「……そうか、友人だったのか。カインはどうしてゲヘナにいたのか、何か知っていることはないか?」
シュカは一度、目を閉じた。
言葉を選ぶというより、思い出に触れない場所を探すような仕草だった。
「……カインは」
小さく息を吸う。
「僕を、助けに来たわけじゃありません」
ルーガンの表情が、わずかに引き締まる。
レイドも、肩に置いた手を離さないまま、黙って聞いていた。
「……連れ戻しに、来たんです」
静かな声だった。
「あの日の僕を、エデンに。“元の場所”に」
その言葉に、自分で小さく苦笑する。
「元、なんてもう無いのに」
グラスの中のジュースが、微かに揺れた。
「僕がゲヘナに落とされたことを知って、危険だって分かっていて、それでも来た。それは……多分、本当です」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、カインが見ていたのは“今の僕”じゃなくて……エデンにいた頃の、僕のことでした」
ルーガンは急かさない。
ただ、視線だけで続きを促す。
「ゲヘナを、危険で壊れた場所だって決めつけて……だから、僕まで壊れるって言った。僕自身を、認めてはくれなかった」
シュカの指が、グラスを強く握る。
「助けるって言葉を使いながら、僕の選択は、何一つ見てなかった」
沈黙が落ちる。
その重さを、ルーガンは壊さなかった。
「それでも、僕は、本当は嬉しかった。今の僕を見てくれなくても、来てくれたのは事実だから」
少し間を置いて、続ける。
「そんなカインを、僕は拒絶した。僕があの時カインの手を取っていれば、カインは見つかったりして死ななかったかもしれない。だから、僕は……もうカインを友達とは呼べないんです……!」
シュカの声は、最後の方で震え、言葉が喉に詰まった。
瞳が、心と共に揺らぐ。
「……僕があの時拒絶したから。だから……」
それ以上、言葉にならなかった。
室内に、重たい沈黙が落ちる。
誰も、すぐには口を開かなかった。
最初に動いたのは、ルーガンだった。
彼は深く椅子にもたれ、天井を仰ぐように息を吐く。
「……なるほどな」
低い声だったが、そこに責める色はなかった。
「連れ戻そうとして、拒まれて、その直後に――ああいう形で殺された、か」
シュカは思わず身を強張らせる。
だが、ルーガンは続けて、はっきりと言った。
「それは、お前のせいじゃねぇ」
シュカが顔を上げる。
「で、でも……!」
「いいか、シュカ」
ルーガンは机に肘をつき、真っ直ぐにシュカを見た。
「手を取らなかったことと、殺されたことは、関係ない」
言葉は荒いが、声音は静かだった。
「拒絶する権利は、お前にあった。それを理由に命を奪われる世界の方が、間違ってる」
レイドが、はっきりと頷く。
「そうだ」
短く、しかし強い声。
「シュカが自分の場所を選んだだけだ。それを否定される理由なんて、どこにもない」
シュカは唇を噛み、視線を彷徨わせた。
「……でも」
ルーガンは、その「でも」を遮らない。
代わりに、少しだけ声を落とした。
「ただな」
その一言で、空気が引き締まる。
「それだけで、殺されることは有り得ないんだ」
シュカの胸が、嫌な音を立てる。
「エデンとゲヘナの往来は重罪だ。それを承知で興味本位で乗り込んで、とっ捕まる奴らが今までにいなかったわけじゃない。だが、大罪とはいえ、殺されるなんてことはなかった。精々、ゲヘナ送りになって実質の無期懲役止まりだ」
ルーガンは、そう言ってから一拍置いた。
その沈黙は、今までのどれよりも重かった。
「……そこで気付いたんだ」
低く、確信を含んだ声。
「カインは、ただゲヘナに来ただけじゃねぇ。エデン側が、わざわざカインを殺す必要があったってことだ」
シュカの喉が、ひくりと鳴る。
(殺す理由……)
「ゲヘナに落ちた人間を連れ戻そうとして処分された、なら話は単純だ。だがな」
ルーガンは、視線をシュカに戻す。
「壁に晒す必要はない」
その言葉に、シュカの指先が冷たくなる。
「見せしめだ。あれは誰かに“見せる”ための殺し方だ」
レイドが息を呑む。
「……誰に?」
ルーガンは即答しなかった。
代わりに、静かに言う。
「“知る可能性のある者”全員だ」
シュカの背中を、冷たいものが滑り落ちた。
「あと一つ、確かな事実がある」
「確かな事実、ですか?」
ルーガンは頷くと、少しだけ瞼を伏せて続けた。
「カインの体には霜が降り、一部が凍っていた。あれは、エデンの王宮騎士団団長の特殊能力だ」
「あ……騎士団は聖堂で儀式をして、特殊能力を手に入れることができるんですよね?」
「あぁ、エデンではそう言われてるのか。実際には、ゲヘナで使える特殊能力を持った人間を見つけたら、そいつを殺して手に入れる。特殊能力は、殺すことで奪えるからな」
シュカは、言葉を失った。
唖然としたまま、ルーガンを見つめる。
理解が、感情に追いつかない。
「……殺して、奪う……?」
声にならないほど小さく、掠れた呟き。
エデンで教えられてきた“聖なる儀式”。
罪人を弔い、その力を継ぐための神聖な行為――
そう信じていたものが、音を立てて崩れていく。
「そんな……そんなの……」
震えるシュカに、ルーガンは「シュカが気にすることじゃない」とだけ言って、話を続ける。
「わざわざ騎士団団長が自らその場で殺すほど、何か大きな情報を知ったカインは、シュカに伝えに行こうとした」
「え……?」
「これは、カインが殺される瞬間を見ていたゲヘナの男からの情報だ。何かを聞いて、慌てて走り出したそうだ。『シュカに伝えないと』『ずっと、友達でいたかった』って、殺される直前に言っていたと」
「そ、んな…………」
シュカの胸に、息苦しいほどの痛みが広がった。
「……ずっと……友達で……」
言葉を繰り返そうとして、声が喉で途切れる。
指先から力が抜け、グラスがかすかに音を立てて揺れた。
(伝えに……来た……?)
連れ戻すためじゃない。
最後は――自分のために。
「……そんなの……」
シュカは俯き、唇を噛みしめた。
血の味がしても、気づかないほどだった。
「シュカ。お前は、どうしたい?」
最後のルーガンの問いは、シュカの心に触れるような声だった。




