14 『正しい世界だと思っていた』
シュカは、レイドに話をしたことで、少しだけだが落ち着きを取り戻していた。
初めて食べたポテトの味も、シュカの心をあたためていた。
油と鉄の匂いが混じった空気。
遠くで誰かの笑い声と、金属音が響いている。
これがゲヘナで、今のシュカの居場所。
「じゃ、帰るか」
レイドがそう言って歩き出し、シュカもそれに並んだ。
そのまま西三区を抜けて、来た時と同じように仲間の特殊能力を用いて基地へ向かう――はずだったが。
「お、シュカ。レイド」
路地の角から現れたのは、ルーガンだった。
その後ろに、シンディとシェリンの姿もある。
「丁度いいところで会ったな」
「ルーガンさん!」
どうやら、さきほどまでの騒ぎの後始末をしてきたらしい。
「二人は何やってたんだ?」
「きっちり巡回して、その後は俺の秘密の場所でポテト食ってました!」
「はは、これでその『秘密の場所』を知ってるのはアステリアの全員になったな」
「う、美味いのは皆に教えたいんだよ……」
「オイオイ、ウチの狂犬くんは可愛いねェ」
そう笑うルーガンに続いて、シンディとシェリンも頷く。
他愛もないやり取りをしながら、五人は並んで歩き出した。
その時だった。
――ざわ。
遠くから、異様な気配が流れてくる。
人の声。怒号とも、ざわめきともつかない音。
「なんだ?騒がしいな」
ルーガンが足を止める。
「嫌な感じがするよ」
シンディが眉をひそめた。
自然と、全員の足がそちらへ向く。
やがて、大きな壁が見えてきた。
エデンとゲヘナを隔てる、あの巨大な空まで覆う壁だ。
そして――
そこに、人間の体が吊るされていた。
「………………あ」
シュカは、言葉を失った。
壁の中央。
見せしめのように掲げられた、それ。
首と胴体は、切り離されている。
血はすでに乾き、布のように冷たく張り付いていた。切り離された体には霜が降り、所々が凍りついている。
無惨な死体だ。だが――
分かった。
分かってしまった。
それが一体誰なのかを。
「……カ、イン……?」
声にならない声が、シュカの喉から零れる。
ついさっきまで。
必死に縋りついてきた、あの顔。
シュカが名前を呼んだのに気付いたルーガンが表情を強張らせた。
シュカの視界が、歪んだ。
「……っ」
レイドが、即座にシュカの前に立つ。
「見るな」
だが、遅かった。
シュカは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
目の前の現実を、理解できずに。
(……エデン……?)
胸の奥が、ぎり、と音を立てて締め付けられる。
正しい世界。
清らかな場所。
守られている理想郷。
――違う。
「……こんなの……」
震える声で、シュカは呟いた。
「……こんなの、正義じゃない……」
怒りが、遅れて込み上げてくる。
ただエデンの人間がゲヘナに入っただけだ。
それだけで、ここまでして殺す世界。
「……腐ってる……」
ぽつりと零れた言葉は、あまりにも静かだった。
ルーガンが、低く舌打ちをする。
「やりやがったな……王国騎士団」
「見せしめ、か」
シェリンの声は冷たい。
「これが、エデンのゲヘナに対する対応よ」
シンディは、目を逸らしたまま言った。
レイドは、拳を握り締めていた。
だが、何も言わない。
シュカの肩が、小さく震える。
「……僕が……」
僕が突き放したから。
それを言葉にする前に、「……帰ろう」とレイドが、静かに言った。
その声に、反論する者はいない。
シュカは最後に一度だけ、壁を見た。
何も言えなかった。
祈る言葉すら、出てこなかった。
ただ、胸の奥に、
二度と消えない怒りが残った。
✼✼✼
基地へ戻る転移能力の光は、前に見た時よりも暗く感じられた。
足元の感覚が戻った瞬間、シュカは小さく息を吐く。
見慣れたはずのアステリア旅団の本拠。
無骨な石壁と、魔導灯の淡い光。
なのに胸の奥が、ひどく重かった。
「……」
誰も、すぐには口を開かなかった。
レイドはシュカのすぐ隣に立ち、目を離さない。
シンディは腕を組み、シェリンは表情を強張らせたまま。
ルーガンが振り返ってシュカを見た。
「シュカ。今日は、もう休め」
低い声だった。
「お前は俺たちとは違う。誰かの死に敏感でいる」
シュカは、ゆっくりと頷く。
「……はい」
それ以上、何も言えなかった。
基地の中は、いつも通りだった。
誰かが武器の整備をしていて、別の誰かが軽口を叩き合っている。
その“いつも”が、ひどく遠いものに感じられる。
(……さっきまで、あそこに……)
思考が、勝手に壁の方へ戻ろうとする。
吊るされた身体。
切り離された首。
凍りついた血。
「――っ」
シュカは、ぎゅっと拳を握った。
「シュカ」
レイドの声が、すぐ近くから聞こえる。
「今日はもう、考えなくていい」
「……でも」
「“今”は、だ」
レイドは、強くも優しくもない声で言った。
「今は、生きてるやつが壊れない方が大事だ」
その言葉に、シュカは何も返せなかった。
✼✼✼
シュカは、レイドと同じ二人の部屋へと戻る。
簡素な室内の壁際に置かれた二段ベッド。
上段がシュカ、下段がレイド。
扉を閉めると、外の音が遠ざかる。
「……レイド」
「ん?」
「……ありがとう」
理由は、言えなかった。
けれど、レイドはそれで十分だと言うように、短く頷いた。
「おう。もう寝ろ」
シュカは上段に上がり、横になる。
――だが。
目を閉じても、眠れなかった。
闇の中で、思考だけが鮮明になる。
(……エデンは、正しい世界だと思ってた)
守られていて。
清らかで。
間違いのない場所。
「……違った……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
ただ“知らなかった”だけ。
見せられていなかっただけ。
正義という言葉で、都合よく切り捨てられる命がある。
「……カイン……」
呼んでも、返事はない。
胸が、苦しくなる。
その時。
「……降りてくるか?」
下から、レイドの声がした。
「どうせ眠れてねぇだろ」
シュカは、少し迷ってから、はしごを降りた。
下段のベッド。
レイドはすでに横になっていて、壁側を空けている。
「……いいの?」
「バディだからな!特別だ」
それだけ言う。
シュカは、そっと隣に横になった。
しばらく、無言。
天井の影が、ランプに照らされてゆっくり揺れている。
「なあ」
レイドが、ぽつりと言った。
「アステリア旅団で一番しょうもない事件、教えてやろうか」
「……え?」
「シンディがな、酔っ払って酒瓶でルーガンさんぶん殴って、危うく事件になりかけたこととか」
「……えっ!?大丈夫なの!?」
思わず声が出る。
「本人は記憶ぶっ飛んで覚えてないけど、ルーガンさんはハゲてないかを気にしすぎて三日寝込んだ」
「な、なにそれ……」
「あと、特攻部隊の隊長でラグナロクさんって人がいるんだけど、ラグナロクさんを笑わせようとしたルーガンさんがダダ滑りして五日寝込んだこと」
「……そ、それは!ふふっ」
シュカは、堪えきれず小さく吹き出した。
「あとルーガンさんはな、寝言がひでぇ。戦場でも寝言で正体バレるぞ、あの人」
「……それは……危ない……」
笑い声が、少しだけ零れる。
胸の重さが、ほんのわずか、和らいだ。
「……こんな時に、笑っていいのかな」
シュカが、ぽつりと呟く。
レイドは、少し間を置いて答えた。
「いいんだよ」
「こんな時だからこそだ」
「笑って誤魔化すのも、生きる技術だ」
シュカは、静かに息を吐いた。
(……そうか)
全部を、今すぐ受け止めなくてもいい。
壊れないために、逃げる時間があってもいい。
レイドの体温が、隣にある。
それが、ひどく現実的で、あたたかかった。
「……レイド」
「ん?」
「……バディで、よかった」
レイドは、少しだけ笑った。
「今さら何言ってんだ」
その声を聞きながら、シュカの意識は、ゆっくりと沈んでいった。
眠りの淵で、思う。
――もう、戻れない。
けれど。
――ここは、僕の居場所だ。
そう思えたことが、今夜、シュカを救っていた。




