鍋から飛び出たゆで蛙、己を知る 1
薄暮のような薄暗がりの中、唸り声が聞こえる。
(この音…… ああ、俺のいびきか…… あれ? 俺、死んだよな?…… なんだか寒い……)
安岡は寝返りを打ち掛け布団を手繰り寄せ潜り込む。瞼を開ける。柔らかな、灰色の闇。布団の中である。
「うぅんっ?」
掛け布団を跳ね上げる。立ち上がるほどには身軽に動けない。見慣れぬ薄暗い室内に言い知れぬ不安も意識に這い上がってきた。
気配を感じ、ゆっくりとそちらを見やる。視界に飛び込んできたのはの黄金の三角形。カーテンの隙間から闇を切り裂き差し込んでくる光が何かの具合で三角形に見える。振り返るとその威光は枕元まで射抜いている。
「俺は、まだ眠たいようたいようってか…… 『すすめ!パイレーツ』のネタだっけ?」
天井を見上げる。
(見知らぬ天井って、シンジ君じゃねえんだから。どこだよ? あいつらに拉致られた? こんな快適な場所で監禁?)
財布とスマートホンのありかを確かめたい。己が一糸まとわぬ姿であることは気が付いていた。部屋は薄暗く事実と向き合う一抹の不安がある。ここから出るには服と当座の
首を巡らし電灯のスイッチを探す。この位置からでは見当たらない。やることの方向性が決まる。ベッドに腰をかけたまま足を床に下す。足裏からカーペットの感触。足の指先を開き、閉じる。数回繰り返す。
(やっぱ、ビジネスホテルか……、割れたガラスが散らばってたりしねえよな? 『ダイ・ハード』じゃねえんだから)
そのうち尿意を覚えた。考えを進めたいが切迫する。
「はいはい、ダイ・ハード(死ぬのも大変)ですね、そーですねっ」
(って俺はタモさんと観客かって。つーか、どーなってんだよ? 実際、刺されてんだよ)
想像が始まる。ホテルのチェックアウト時、金がないことで、店員の見る目が客相手のものから犯罪者相手のものに変わる。
「とりあえずトイレとシャワーか」
見当をつけた方向へ歩みだす。数メートル先に見慣れた規格品のドアが見える。経験上、その横にユニットバスがあると目星をつけた。
目星通り見つけたユニットバス。照明のスイッチパネルもそこにあった。すべてのスイッチを入れユニットバス内に入る。
よくあるビジネスホテルのユニットバス。まずは用を足す。それからタオルが備え付けてあることを確認しシャワーを浴びた。
シャンプーを手に馴染ませ力任せに頭皮を両手の指の腹でこする。手のひらを見る。指に絡まる髪の毛は想定よりも長く多かった。みぞおちのあたりに重たいものが生まれてくる感触。
(何日、ここにいればあんなに髪が伸びるんだ?)
想いながら胸から腹にかけて手のひらで撫でまわす。自覚していた太鼓腹がすっきりとへこんでいた。
さらに違和感が加わる。固唾を飲み中指を腹の左から右にかけてゆっくりと這わせてみる。腹の中心を左右に真一文字に貫く細くかすかなふくらみがあった。
(手術の跡? なんでここだけ黄色い? っていうか……)
「へそ…… ないよな?」
(ま、へそがなくても大して困らんが手術のとき摘出された? 盲腸みたいに? 日常生活に支障がないから? そもそも病院じゃなくてなんでビジネスホテルにいる?)
「…… いてっ」
頭から垂れてきたシャンプーが目に入る。洗い流していったんタオルを取ろうとシャワーカーテンに手をかける。カーテンに飛び散った飛沫の中には鮮やかな黄色いものが多数あった。頭に浮かぶ血の汗を流すカバの映像。即座にシャワーヘッドを手に取り水を出す。シャワーヘッドから滴る無色透明の雫。浴槽の底に残っている水の色は黄色の絵の具を溶かしたようであった。
(汗の色が黄色いってのはさすがに日常生活に支障がでるだろ? おい、俺の身体どうなってんだよ)
鏡をのぞく。痩せてはいたが見慣れた顔がそこにある。髪も思っていたほどには伸びていない。こめかみを滴る汗の粒。照明を跳ね返すその色は黄金色だった。髪の束の先端のそれも。胸元のそれも。そして何より全身がうっすらと黄色い。黄色の絵の具を溶かした水をかぶったようだ。
手のひらを見る。変わりはない。足の裏も見る。特に変わりはない。不安や恐怖の量が許容量を超えた。面白味を感じてくる。
「いや、確かに俺はイエロージャップではある…… けども!」
手のひらで顔を撫でつける。その汗は粘りけが強く指の腹でこすり合わせると粘性の高い機械油のように摩擦抵抗を失くしていた。
「リストラおじさんから全身ローションおじさんにジョブチェンジって…… 笑えねえよ」
タオルで顔を拭く。あふれ出る汗にタオルをあてがう。温度と湿度が高いユニットバス内。汗はとどまるところ知らない。だが、汗がふき取られた顔から新たに滲みだしてくるのは無色透明だった。
「いや、俺、チェンソーマンじゃねえんだから」
そう言いつつも予感はあった。先ほど同様に、腹に真一文字に現れた筋をなぞる。目を閉じ10秒数えた。そして、鏡を見る。
にじみ出てくる汗は黄色だった。観察を続ける。やがて汗は黄色いものからさらさらと流れる無色透明なものに変わった。
「いや、俺、ガマガエルじゃねえんだから」
かつて見知った話。ガマの油売りの口上。ガマガエルに鏡を見せるとその醜さに驚き脂汗を流すという。
「医者だか、悪の科学者だか知らねえが、人のこと改造するならもっとやりようあっただろう?」
鏡に向かって悪態をつく。そのとき鏡に飛沫が飛んだのに気が付いた。口内で舌を巡らす。特に痛みはない。
「唾もかよ? 勘弁してくれよ……」
鏡にとんだ飛沫、こちらは赤い絵の具を溶かしたようにうっすらと赤かった。血の色と断じるにはその色は着色された飴のように鮮やかだった。




